龍造寺隆信とは~5分でわかる龍造寺隆信のスゴイところ

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龍造寺隆信とは

龍造寺隆信(りゅうぞうじ-たかのぶ)は、龍造寺周家の長男として1529年2月15日、肥前・佐嘉水ヶ江城(佐賀水ヶ江城)の東館天神屋敷で生まれた。
母は慶誾尼(龍造寺胤和の娘)。

下記が佐賀城近くにある龍造寺隆信誕生の地の石碑。

龍造寺隆信誕生の地の石碑

父・龍造寺周家は、龍造寺家の本家とは別に立てた分家・佐賀水ヶ江の龍造寺家兼の子・龍造寺家門の養子と言う事になるが、この頃、水ヶ江城の龍造寺家は本家を凌ぐ勢力となっていた。
しかし、その龍造寺家も肥前守護・少弐氏の被官に過ぎない立場であり、主君は少弐冬尚と言う事になる。

龍造寺隆信は1536年、7才のときに出家して寺僧となり、円月(圓月)と称した。

1545年、祖父の龍造寺家純と父・龍造寺周家が、主君である少弐冬尚に対する謀反の嫌疑をかけられ、馬場頼周によって誅殺されてします。
この時、なんとか脱出した祖父・龍造寺家兼は、円月(圓月)や慶誾尼を連れて、柳川城主・蒲池鑑盛を頼った。

1546年、龍造寺家兼が蒲池鑑盛の支援を受けて挙兵し、馬場頼周を討ち取って龍造寺家を再興したが、まもなく高齢と病のため龍造寺家兼は死去する。

この龍造寺家兼は、円月の器量を見抜いており、還俗して水ヶ江龍造寺家を継ぐようにと遺言を残したと言い、円月は龍造寺胤信を名乗って家督を継いだ。

しかし、一族や老臣らの意見は割れたと言い、八幡宮にでクジ引きを三度引いたら、いずれも龍造寺隆信を選んだため、家督相続が認められたと言われている。
ただし、水ヶ江龍造寺家は衰退したため、龍造寺隆信は本家の当主・龍造寺胤栄に従っている。
そして、1547年には、龍造寺胤栄の命を受けて、主筋の少弐冬尚を攻めて、勢福寺城から追放させた。


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1548年に龍造寺胤栄が亡くなると、その未亡人である龍造寺家門の娘を正室に迎えて、本家・村中龍造寺の家督も継承した。
しかし、この家督継承にも不満を持つ家臣が多く、1551年には、龍造寺鑑兼を担いだ龍造寺胤栄旧臣の土橋栄益らによる内紛が起こることとなった。

この時、龍造寺隆信は大内義隆の力を背景に、家臣らの不満を抑えたが、1551年に、大内義隆が家臣・陶晴賢が謀反を起こして大内義隆が死去してしまう。
そのため、龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立しようとした土橋栄益らによって龍造寺隆信は肥前を追われ、再び柳川城主・蒲池鑑盛を頼ることになった。

2年後の1553年、蒲池家の援助を受け肥前を奪還。
その後、勢力を回復して行くが、1556年に重臣・鍋島清房の正室である龍造寺家純の娘が死去すると、龍造寺隆信の母・慶誾尼は、龍造寺家の家来であった鍋島清房に再嫁する。

この優秀な家来である鍋島清房とその子・鍋島直茂の絶大な協力を得て、佐嘉城主・龍造寺隆信は1559年には勢福寺城で少弐冬尚を自害に追いこみ、1562年までに東肥前の支配権を確立するに至った。
龍造寺隆信34歳のときであり、この急進撃に近隣諸大名は恐れをなした。

そして、毛利家と結んで大友宗麟に対抗しようとするが、毛利家が九州から撤退すると、佐嘉城(佐賀城)は大友勢の大軍に包囲されてしまう。

この窮地に、龍造寺家の重臣・鍋島直茂は、城を討って出て夜襲を掛ける奇襲作戦を提案すると、賛成する家臣らは少なかったが、慶誾尼の賛同も受けて龍造寺隆信は了承。
この今山の戦いが成功し、敵の総大将・大友親貞を討ち取ったため、大友勢は撤退した。
その後、1578年に大友宗麟耳川の戦い島津義久に大敗すると、龍造寺隆信は大友宗麟の傘下から外れて、九州の覇権を島津家と龍造寺家の二者で争うようになる。
なお、家督を嫡男・龍造寺政家に譲ったが引き続き権力は掌握した。


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龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であり、知略にも長けていた。
しかし、残忍な性格もあったようで、新参の武将はなかなか馴染むことができなかったと言う。

そして、1580年、かつて逃亡した際に2度も世話になった柳川城の蒲池鎮漣が、島津家に通じたとして佐賀城に呼び出して謀殺し、次いで柳川城の蒲池鎮漣の一族を皆殺しにした。

1581年、島津家が肥後に勢力を伸ばしてくると、肥前・島原領主の有馬晴信は龍造寺家から離反し島津家に通じる。
そのため、龍造寺隆信は、自ら3万の大軍を率いて島原に上陸すると、有馬家の居城・日野江城を目指した為、有馬晴信は島津家に援軍要請した。

島津家一の戦上手と言われる島津家久が総大将となり、島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭3000が有馬救援に派遣され、1584年、島津・有馬の連合軍6000と龍造寺家の大軍が、沖田畷で対峙する。

そして、1584年3月24日、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)となった。

この沖田畷の場所は、湿地が多く、通行できる道が限られており、大軍の利点を生かして戦闘するのが困難な場所であり、寡勢をもって龍造寺勢を迎え撃つのに絶好な場所として島津家久が目論んだ地でもあった。

島津勢は島津家久を筆頭に、島津忠長、島津彰久、島津豊久、新納忠元、伊集院忠棟、平田光宗、上原尚近、山田有信、川田義朗、川上忠智、川上忠堅、鎌田政近、猿渡信光、赤星統家、そして有馬晴信。

龍造寺勢は龍造寺隆信を大将に、執行種兼、龍造寺康房(鍋島直茂の実弟)、小河信俊(鍋島直茂の実弟)、江里口信常、成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直、納富賢景、江上家種、後藤家信、鍋島直茂、石井党、大村純忠、西牟田統賢。

釣り野伏せ戦法にかかり、狭い所に入った龍造寺勢は、島津勢から一斉射撃を受け先陣が崩壊。
退却しようにも狭い所を後続が次々と続いてくるため身動きがとれなくなり大混乱に陥いった。


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ポルトガル宣教師のルイス・フロイスは「龍造寺隆信は余りの肥満体のため、馬にも乗れず、6人かつぎの山駕籠にのって指揮していた」と記している。

苛立った龍造寺隆信は、自らが前線にて指揮を取ろうとしたが、島津家久の家臣・川上忠堅の放った鉄砲が命中し、56歳の生涯を閉じた。
下記は、沖田畷合戦場跡にある龍造寺隆信の供養塔。

龍造寺隆信の供養塔

成松信勝、龍造寺康房、小河信俊、成松信勝、百武賢兼ら重臣も多数が討死している。

龍造寺隆信の首は、島津家久によって首実験されたあと、龍造寺家に返されることになったが、首級の受け取りを拒否したため、仕方なく国境の願行寺(玉名市)に葬られたと言われている。

公式な墓所は鍋島家と同じ佐賀の高伝寺にある。
下記写真が龍造寺隆信の墓。

龍造寺隆信の墓

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