慶誾尼(けいぎんに)と龍造寺周家~龍造寺家兼から龍造寺家のゴダゴダ騒動


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慶誾尼(けいぎんに)は、慶ぎん尼とも書きますが、1509年に生まれた村中龍造寺家の当主・龍造寺胤和(りゅうぞうじ たねかず)の娘(長女)となります。
慶誾尼は龍造寺周家の正室となると、1529年に肥前・佐嘉水ヶ江城の東館天神屋敷にて龍造寺隆信を産みました。
下記が龍造寺隆信誕生の地の石碑です。

龍造寺隆信誕生の地の石碑

なお、次男・龍造寺信周や、3男・龍造寺長信もその後に生まれていますが、母親が慶誾尼かどうかは分かっていません。

嫁ぎ先の龍造寺周家(りゅうぞうじ-ちかいえ)は、龍造寺氏庶流である水ヶ江龍造寺家の跡取りです。

龍造寺家の本家は村中龍造寺氏で、古くは九州・千葉氏に仕えていましたが、室町時代後期に千葉氏に代わって少弐氏が勢力を付けると、その少弐氏に従っています。
すなわち、少弐氏の重臣のひとりが、龍造寺家となります。
しかし、本家・村中龍造寺家は当主が若くして死去するなどして衰え、水ケ江城に入っていた分家の水ケ江龍造寺氏が、力を付けていました。

慶誾尼が嫁いだ水ヶ江龍造寺家は、慶誾尼から見れば格下の分家です。
ただし、村中龍造寺家であった龍造寺家兼は5男だったことから分家したのがこの水ヶ江龍造寺家と言う事になります。
この龍造寺家兼(りゅうぞうじ-いえかね)は非常に優れた英知の持ち主で、本家・村中龍造寺家を補佐するようになると、ついには本家の実権も掌握し、主家に当たる少弐氏の筆頭重臣となりました。

水ヶ江龍造寺家である龍造寺家兼の子は、長男・龍造寺家純と次男・龍造寺家門といます。
龍造寺家純は病気になったようで、1538年に隠居し、弟・龍造寺家門を養子にして水ヶ江家の跡を継がせる予定としました。
ちょっと複雑なのですが、龍造寺家純の実子・龍造寺周家(慶誾尼の夫)が、跡を継がせる龍造寺家門の養子に迎えられていますので、龍造寺家門はつなぎ役と言う形になると思います。

なお、1530年には、少弐資元の居城である肥前・勢福寺城を大内義隆の重臣・杉興連が10000にて攻めてきたため、田手畷の戦い(たてなわてのたたかい)となっています。
この時、少弐氏は兵力的に劣勢でしたが、龍造寺家兼や馬場頼周、鍋島清久・鍋島清房、石井党などの活躍で、杉興連を敗走させ横岳資貞・筑紫尚門などを討ち取りました。

ちなみに、鍋島清久は龍造寺家の家来で、子の鍋島清房は、龍造寺家兼の嫡男・龍造寺家純の娘である華渓を正室に迎えました。
そして、鍋島清房と妻・華渓は、長男・鍋島信房、次男・鍋島直茂をもうけますが、この次男・鍋島直茂は、のちに肥前・佐賀35万7000石の鍋島家を築く優秀な武将へと育ちます。

こうした家来・鍋島家の活躍もあり、田手畷の戦いの後、佐賀平野南部の有力領主らを味方につけて貢献した龍造寺家兼は少弐家中での発言権を強めます。
そして、戦国大名として主家から独立する下剋上の形になって行きます。

なお、少弐資元は、その後も何度も大友家の侵攻を許していますが、頼りの龍造寺家兼を粗末に扱うようになり、龍造寺家兼も見放したため、少弐資元は1536年に梶峰城にて自刃する結果となっています。

少弐資元の子・少弐冬尚は成長すると、龍造寺家兼の子・龍造寺家門を少弐家の執権にすることを条件に龍造寺との和解を図ります。
そして、龍造寺氏一門の協力を受けて神埼勢福寺城に復帰し、1540年に少弐氏を再興しました。
しかし、このように龍造寺家兼の勢力が更に強まったことから、少弐冬尚の家臣・馬場頼周が妬んで、少弐冬尚の父・少弐資元を自害に追い込んだのは龍造寺家兼であると反発します。

こうして、1545年に事件が起きました。

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慶誾尼の夫・龍造寺周家が、主君である少弐家に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐家重臣の馬場頼周によって誅殺されます。
この時、龍造寺家兼の子である龍造寺家純と龍造寺家門、龍造寺周家の実弟である龍造寺純家と龍造寺頼純、義弟の龍造寺家泰など、多くの一門衆が粛清されてしまいました。

水ケ江城から辛うじて脱出した高齢の龍造寺家兼は、僧侶になっていた17歳の龍造寺隆信を連れて、柳川城主・蒲池鑑盛を頼って逃れました。
この龍造寺隆信は、龍造寺周家(享年42)と慶誾尼の子となります。
そのため、恐らく慶誾尼も柳川城に同行したものと推測されますが、この時未亡人となったため出家し、慶誾尼と名乗りました。

本家・村中龍造寺家の龍造寺胤栄(りゅうぞうじ-たねみつ)が、1546年に龍造寺家兼や鍋島清房・蒲池鑑盛と馬場頼周を討ち、龍造寺家兼は水ヶ江城に復帰を果たします。
しかし、龍造寺家兼もその直後に享年93で死去し、慶誾尼の子・龍造寺隆信が家督を継ぎました。

なお、龍造寺隆信の初陣となった飯盛城の戦いでは、敵将・神代勝利を処刑しようとしたところ、慶誾尼が殺害を中止させるなどしています。
ただし、龍造寺家の勢力としては、水ヶ江龍造寺家は衰退し、本家が主導権を握ったため、龍造寺隆信は本家・龍造寺胤栄に従わざる得ませんでした。

1547年には、龍造寺胤栄の命にて、龍造寺隆信は主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放しています。
この頃、龍造寺家は大内義隆から保護を受けていましたが、また問題が発生します。

本家の龍造寺胤栄が、1548年に僅か24歳で病死すると、嫡子がいなかったため、家督継承が発生します。

一族話し合いの結果、分家・水ケ江龍造寺の龍造寺隆信が、龍造寺胤栄の未亡人(龍造寺家門の娘)を娶り、本家を継承することになりましたが、当然、不満を持つ家臣も出ます。

龍造寺隆信は大内義隆の力を背景に、家臣らの不満を抑え込みますが、1551年に、大内義隆が家臣・陶晴賢が謀反を起こして大内義隆が死去すると、龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立しようとした土橋栄益らによって肥前を追われ、龍造寺隆信は再び柳川城主・蒲池鑑盛を頼っています。

しかし、1553年には蒲池家の援助を受けて肥前を奪還しました。
そして、勢力を回復して行く過程で、1556年に重臣・鍋島清房の正室である龍造寺家純の娘が死去すると、龍造寺隆信の母・慶誾尼は驚くべき行動に出ます。

鍋島清房とその子・鍋島直茂は、龍造寺隆信に欠かせない逸材であるとして、鍋島清房(45歳)に押し掛ける形で、慶誾尼(45歳)が継室に入って再婚したのでした。
単なる押しかけ女房は良くある話ですが、主家・龍造寺家の主君の母が、家臣の後妻になると言う、かなり珍しい状況です。

妻を亡くした鍋島清房に、慶誾尼はイイ女性を紹介するから、新しい妻を迎えた方が良いと説き伏せて、候補の女性に会うと約束させます。
そして、顔合わせの当日に現れたのが「慶誾尼」本人であったと言う話もあります。
龍造寺隆信の補佐には鍋島清房の嫡男・鍋島信生(鍋島信茂)が、ぴったりだと思ったが、断られてしまうので、このような方法を取ったと打ち明けたと言います。

こうした母の献身的な後援もあり、佐嘉城主・龍造寺隆信は優秀な鍋島直茂らの活躍を受けて、1559年には勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込み、1562年までに東肥前の支配権を確立しました。

このような慶誾尼にはいくつもの逸話があります。

1570年、大友宗麟の大軍に佐賀城が包囲されると龍造寺隆信や鍋島直茂らは降伏しようと考えたところ、慶誾尼が薙刀を持ってあらわれ「猫を前にして恐れている鼠のようではないか」と言い、鍋島信茂に任せて夜討ちを敢行するようにと叱咤したとあります。
これにより、鍋島信茂も夜襲を決意したと「直茂公請考補」に記載されており、今山の戦いにて、敵の対象を討ち取ると言う戦功を挙げました。

このことから慶誾尼が常に評定の近くにて、龍造寺隆信を補佐していたとも考えられており、常に短刀を所持していたと言います。

また、1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死し、島津家久が隆信の首を持って降伏勧告に来た際には「さような縁起の悪い敗将の首などいらぬ!それを持って薩摩に帰るがいい!」と追い返したとも言われています。

その後、慶誾尼は自ら龍造寺政家を補佐して、政治に関与し、龍造寺家を支えましたが、実質的な後継者の鍋島直茂を継母としても認めており、龍造寺家の行く末を託していたようです。

豊臣秀吉は母・大政所が危篤になった際に、名護屋城から急ぎ大阪へと戻りましたか、この東上を聞いた慶誾尼は、農家から借りた戸板の下に青竹四本を立ててテーブルとし、飯を固く握って土器に盛ったと言います。
そして、尼寺の道端に出し置くように命じました。
そこを、豊臣秀吉が通りすがり「これは龍造寺が後家(慶誾尼)の働きに違いない。食料のない道筋で上、下難儀なところをこの心掛けは奇特である。」と言い、握り飯を手に取って食べたと言います。
「武辺の家は女までこのように心掛けている。この固い握りようを見よ、土器まで立派だ」と褒め称えたと言います。

鍋島直茂の子・鍋島勝茂が、伏見城にて徳川家康と謁見した際には、徳川家康が慶誾尼の事を大絶賛していたと言う話もあります。

戦国の時代に、強く龍造寺家を支えた女傑・慶誾尼でしたが、1600年3月1日に死去しました。享年92。※異説もあり。

龍造寺隆信の墓

下記写真は、佐賀・高伝寺にある龍造寺隆信の墓です。
写真左側がそうです。

龍造寺隆信の墓

下記は龍造寺家兼の墓になります。
いずれも鍋島家が墓所を整備したものになります。

龍造寺家兼の墓

立花誾千代と言い、九州の戦国時代を生き抜いた武家には、やはり女傑が多いです。
それにしても、慶誾尼の晩年ですが、亡くなる直前に、鍋島直茂に対して徳川家と仲良くするようにと助言していたように思えてくるのは、私だけでしょうか?

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