大友宗麟(大友義鎮)の解説 国崩し・豊後の王

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大友宗麟

大友宗麟とは

大友宗麟(おおとも-そうりん)は、豊後国(大分県)の府内にて、戦国時代の1530年1月3日に誕生。
父は豊後大友家第20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘。
幼名は塩法師丸。別号に宗滴、三非斎など。
傅役は重臣・入田親誠(津賀牟礼城城主)だが、のち不仲になる。
大友氏は、平安中期の武将である藤原秀郷流で相模の武将・大友能直を祖とするが不明。
鎌倉時代には鎌倉幕府御家人衆として勢力をもっていた九州の名族であったが、大友宗麟が子供の頃は、周防の大内義隆が本家・豊後大友家を狙って侵攻しており、劣勢となっており1538年に将軍・足利義晴の仲介で大内氏と和睦した。

1540年2月3日元服。足利義晴の1字をもらって大友義鎮 (よししげ) と名乗った。


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1550年、父・大友義鑑は後継者で問題で、粗暴で人望も薄く病弱だった嫡男・大友宗麟より、溺愛していた三男・塩市丸に家督を譲ろうと、入田親誠と共謀して大友宗麟派の家臣を次々と殺害。
この暴挙に身の危険を感じた大友宗麟派の家臣である津久見美作、田口鑑親らは逆襲し、2月10日、父・大友義鑑の居館を襲撃。
居館2階にいた塩市丸とその母(側室)を殺害し、父・大友義鑑も瀕死の重傷を負い2日後の2月12日に死亡した。享年49。
これが有名な「二階崩れの変」である。
結果的に父・大友義鑑の遺言により、21歳の大友宗麟が大友家の家督を相続し、第21代当主となり、入田親誠ら反対派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

1551年、周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、大友宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟・大友晴英(大内義長)を周防大内家の新当主として送り込んだ。

これにより室町時代から対立していた大内氏との対立が終わっただけでなく、北九州で大内家に服属していた国人が大友家にも服属し、周防・長門方面にも影響力を持ち、博多が支配下となったことで、大友家は莫大な利益を手にした。
そして、、自身の巧みな外交や優れた謀略に加え、優秀な家臣(雷神の化身・戸次鑑連、その娘・立花誾千代、義理の塊・高橋紹運、高橋紹運の父で三老の一・吉弘鑑理、気象予報士軍師・角隈石宗など)の活躍もあり豊後・豊前・筑後・筑前と勢力を拡大し、九州随一の勢力を誇った。

1554年には、復権を目論む叔父・菊池義武の反乱を抑えて、1554年には菊池氏を滅亡させ肥後も確保した。
しかし父の突然の死と、大友宗麟がフランシスコ・ザビエルら宣教師にキリスト教の布教を許した事から、大友家臣団では宗教対立になって行き、1553年には一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)、1556年には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)大友宗麟の治世は当初から苦難が多かった。
もっとも、キリシタンに好意を示したのは、明らかに貿易が目的で、豊後府内の沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし、フィリピン等へ貿易船を派遣するなどの成果をあげている。

そんな中、毛利元就が勢力を伸ばしており、1557年に毛利元就は大内義長を攻めると自害に追い込み、大内氏が滅亡し、周防方面への影響力を失った。
更に毛利元就が北九州まで進出すると、大友宗麟は毛利家との対立を決意し、内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど、北九州における旧大内領を維持することに成功した。


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1554年、室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化。
正室は将軍の仲介と考えられる、丹後守護・一色義清の娘であったが亡くなったようで、1550年~1551年頃に継室として奈多夫人を迎えているが、美貌とみれば実の叔父を殺してまで奪い、家臣の妻さえ奪うなどして7人の側室を持っていた。

1557年、府内(大分市)に日本初の病院を建設し、身分や貧富を問わず無料で診療した他、育児院や学校も開校。日本の西洋音楽と演劇の発祥とも言われる。

1558年、奈多夫人が嫡男・大友義統(おおとも よしむね)を産んでいる。

1559年には足利義輝に多大な献金を行い、1559年6月には豊前国・筑前国の守護に任ぜられ、更に1559年11月には九州探題に補任され、更には1560年に左衛門督を任官した。
大友宗麟は大友家の全盛期を作り上げたが、1562年、門司城の戦いで毛利元就に敗戦。
この年に出家して休庵宗麟と号した。

その後も足利将軍家に多大な献金を続け、1563年には足利義輝の相伴衆に任ぜられ、1564年には足利義輝に毛利家との和睦調停を依頼して実現させている。

毛利家は、勢力拡大を一時東に向けて山陰の尼子家を滅ぼすと、再び北九州を攻めた為、和睦は破棄された。

1567年、豊前国や筑前国で大友家の国人が毛利元就と内通して蜂起した上に、重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、大友宗麟は立花道雪らに命じて平定している。

大友宗麟は、宣教師に鉄砲の火薬の原料「硝石」を輸入するようにと「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」と言う手紙も残っている。

1569年には狩野松栄を、1571年には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させるなど文化面での活動も活発にみられる。大友宗麟の本質は武人ではなく、書画、能楽、茶道など雅(みやび)を好む文化人と言っても良い。

1569年、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻。
しかし、毛利元就が筑前国に侵攻してきたため撤退して、多々良浜の戦い (戦国時代)で毛利軍に打撃を与えた。
また、重臣・吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘と水軍衆・若林鎮興を周防国へ上陸させて毛利氏の後方を攪乱した為、毛利元就は安芸に撤退した(大内輝弘の乱)。

1570年、大友宗麟は再度肥前に侵攻したが、今山の戦いで龍造寺隆信に弟・大友親貞を討たれるという大敗を喫し、龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。
その後も筑後国や肥前国の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなく、徐々に雲行きが怪しくなった。


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1576年、人心が離れたことから家督を長男・大友義統に譲って丹生島城(臼杵城)に隠居するも、大友義統との二元政治を始めた。

1577年、薩摩の島津義久が日向に侵攻すると、大友宗麟も大軍を率いて出陣。 しかし、1578年「耳川の戦い」で島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。子の大友義統が主体だったとの説が有力となりつつあるが、6ヶ国を支配する大友家が敗れるとは思っていなかったようだ。

さらに1579年頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後の諸勢力が大友家から離反し、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友家は衰退の一途をたどる。

なお、耳川の戦い直前の1578年7月に、大友宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受けて、洗礼名「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒になっている。
以後は、家臣へ宛てた書状の中などで自身の署名に「府蘭」と用いている。
しかし、戦場に於いても後方に陣取り礼拝を続けるなど、将兵の指揮の低下が著しかった。

耳川の戦いで大敗したあと、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土を次々と失って行く。
その為、大友宗麟は織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらい、織田信長の毛利攻めを支援すると約束していたが、明智光秀による本能寺の変で織田信長が倒れたことで、織田家との協力関係も無くなった。

1582年、有馬晴信大村純忠らとともに、天正遣欧使節を派遣したと伝わる。


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1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久・有馬晴信に大敗北して討死すると、立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回。

しかし1585年、立花道雪が病死し、これを好機と見た島津義久の北上が始まった。
家臣の高橋紹運・立花宗茂父子の奮戦で、なんとか島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友家単独で島津軍には対抗出来なくなった。

その為、1586年、力をつけて来た豊臣秀吉を頼り、大友宗麟は大坂城で謁見し、豊臣傘下に加わる事で軍事的支援を要請した。
しかし、島津義久はその後も大友領への侵攻を続け、高橋紹運が筑前・岩屋城で戦死(岩屋城の戦い)。1586年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友家救援に赴いた豊臣軍先発隊(長宗我部元親仙石秀久)を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略。志賀親次佐伯惟定が居城において奮戦したが、大友義統は府内から退去。
この時、臼杵城に籠城していた大友宗麟は大砲・国崩しを使用して臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せている。
※大友宗麟が鋳造させたとみられる大砲がロシアに現存している。

下記は臼杵城にある大友宗麟のレリーフ。

大友宗麟のレリーフ

国力は疲弊し、大友宗麟はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。

1587年、大友家滅亡寸前のところで豊臣秀長が率いる豊臣勢10万が九州に到着。
さらに遅れて、豊臣秀吉自身も黒田官兵衛ら10万の兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破った。
大友宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死。58歳。死因はチフスが有力とされる。


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九州征伐後、豊臣秀吉の命で大友義統には豊後一国を安堵された。
豊臣秀吉は大友宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた大友宗麟はこれを辞退、もしくは、その直前に死去したとされている。

大友宗麟の墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。
さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。

大友宗麟の死後はキリスト教式の葬儀が行われ、墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・大友義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

その後、墓は荒廃したが江戸時代の寛政年間(1789~1801年)に、大友宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬。
津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として建立され、従来の場所から移されたものとなっている。

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