大内輝弘の解説~露に消えた大内家再興の灯「大内輝弘の乱」

大内輝弘

大内輝弘とは

大内輝弘(おおうち-てるひろ)は、周防国・長門国の戦国大名である大内氏の一族・大内高弘の息子として生まれます。
父・大内高広は周防の大内政弘の息子で大内義興の兄弟です。
しかし明応8年(1499年)大内氏家臣杉武明と豊後の大友親治が起こした謀反に加担するとその後は豊後に逃亡、そのため輝弘は同地で誕生します。
大内輝弘の生年は永正17年(1520年)で幼名は氷上太郎・定葱と言われていますが正確なことはわかっていません。


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弘治3年(1557年)西日本に大勢力を築いていた大内氏が安芸の毛利元就により滅亡します。
これにより中国地方では毛利氏、北九州では大友氏が勢力を拡大し両者は豊前・筑前の統治を巡り北九州で対立します。
この毛利氏との争いに大友氏当主大友宗麟は正統な大内氏当主の血を引く大内輝弘の利用、宗麟は室町幕府13代将軍足利義輝より輝弘に偏諱をもらうべく幕府に多額の資金援助をします。

当時、大内輝弘は大友氏の客将になっていたと考えらえ、大友氏の庇護のもと所領をもらい家臣を有していました。
また大内氏滅亡後の輝弘のもとには大内氏旧臣たちが集結し主家再興に向け活動しており、永禄7年(1564年)には大友宗麟が毛利氏と講和を結ぶ際に大内氏牢人たちに流言などの反毛利活動の制止を申しつけています。
そして永禄8年(1565年)には輝弘は毛利氏の出雲出陣を好機として周防の屋代島に陶・内藤氏といった大内氏旧臣たちと集結を企み、この動きを察知した毛利方の水軍により旧臣たちが討ち取られるという事件を起こしています。

大内輝弘の乱

永禄12年(1569年)大友氏と毛利氏の講和は崩壊、同年5月毛利氏の大軍が筑前に上陸し大友方諸城である立花山城に進軍します。
この戦況に対し大友宗麟は毛利軍を北九州から撤退させるべく毛利領の後方攪乱を計画、大内輝弘に旧領回復のため毛利領への渡海を命じ、配下の水軍衆には周防・長門へ侵入を指示します。

そして同年10月11日、大内輝弘率いる大内再興軍は大友水軍に護衛されて周防の吉敷郡の南海岸・秋穂・白松の両浦に上陸、この上陸には当時毛利氏と関係が悪化していた能島城村上水軍の協力があったと考えられており、作戦を成功させるため大友氏の調略が村上氏に及んでいたことが分かります。


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その後大内輝弘は大内氏旧臣たちと合流しながら山口へ北上、12日には旧築山館に陣を構えて毛利氏諸城の高嶺城の攻城戦を開始します。
このとき高嶺城の城将で山口奉行であった毛利氏家臣市川経好は九州に出陣中であり、城内には経好の妻とわずかな兵しか残っていませんでした。
しかし徹底抗戦を行う城兵たちに大内軍は苦戦、高嶺城を陥落させることができませんでした。

対する毛利氏は当時長門の赤間関で毛利元就が北九州攻めの指揮をとっており、大内輝弘急襲の報告を受けた元就はすぐさま毛利軍の北九州撤退を指示し次男の吉川元春に輝弘討伐を命じます。
そして同月18日長門の長府へ到着した毛利軍は21日には山口へ向かい進軍を開始、道中では大内方に味方した一揆勢を徹底的に制圧します。

この毛利軍の進撃に対し大内軍は離散兵が続出、抵抗を試みますが多勢に無勢で敗退してしまいます。
そして800人ほどとなった大内軍は上陸地である秋穂から豊後への脱出を図りますが、秋穂の大友水軍はすでに帰国しておりその後三田尻・富田に向けて逃走を試みますが、同月25日追い詰められた大内輝弘は富海の茶臼山で自刃します。享年49才。


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その後北九州の情勢は毛利軍を撤退させることに成功した大友氏が同地の支配を確立、そして自領の被害を最小限に抑えた毛利氏は北九州の政策を転換し大友氏と争うことをやめて、尼子氏の残党や織田氏との争いに突入します。

この大内輝弘の乱で山口及び附近の神社仏閣が焼失しており、この行動から輝弘は大友宗麟の影響を受けたキリシタンだったとも言われています。

(寄稿)kawai

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