大内義弘の解説~応永の乱に散った大内氏の礎

大内義弘




大内義弘とは

大内義弘(おおうち よしひろ)は大内弘世の嫡子で、室町から戦国期に大勢力を誇った大内氏の礎を築いた人物です。

通説では、大内氏の本拠地周防の山口は大内義弘の父大内弘世によって開府したといわれていました。しかし、近年の研究では山口に城下町が形成された最大の画期は義弘の時代と考えられており、後に西の京と呼ばれる山口は義弘以降に発展します。

大内氏はもともと多々良氏という周防の武士団の出自で、多々良氏は百済の聖明王の第3子である琳聖太子の子孫という伝承があります。また「大内」という名は多々良氏の本拠地である周防の大内村から名乗っており、同氏が周防権介の地位であったことから「大内介」という通称ができ、その後大内介一族が世に知られるようになり「大内」の名が広まったと考えられています。


大内義弘の生年について正確な資料はありません。しかし『応永記』の記述から考えると延文元年(1356年)頃の生まれと思われ、母親は不明で弟には大内満弘・大内盛見・大内弘茂らがいて姉妹は少弐氏や大友氏、厳島神社などといった中国・九州の有力者に嫁いでいます。

室町時代前期、大内義弘の父大内弘世は南朝方でした。しかし南北朝動乱の中、周防・長門を自力で平定すると、弘世は室町幕府に両国の守護を認めさせ貞治2年(1363年)幕府方に帰順します。

そして応安4年(1371年)、九州探題である今川了俊の要請を受け大内弘世は大内義弘とともに豊前に出陣、筑前にて南朝方の少弐氏と争います。しかし、以前から了俊と意見の相違があった弘世は応安5年(1372年)に突然帰国、領国に戻った弘世は幕府の出兵要請を拒否し石見や安芸へ独自の軍事行動を行います。この父の幕府を軽視した態度に、義弘は反対の行動をとります。

永和元年(1375年)大内義弘は自らに賛同する300騎を率いて独断で九州に渡ります。その後は今川軍と合流し九州各地を転戦、永和3年(1377年)には弟の大内満弘とともに肥後で南朝方の菊池氏に大勝、その武名を中央に響かせます。しかし、その後今川軍は永和4年(1378年)9月に詫間原の戦いにて敗北、筑後に退却します。

このように当時大内義弘と父の大内弘世の間には幕府への対応に温度差がありました。これは、義弘が南北朝の動乱が終息することを予測して今後は幕府へ協力することが得策と考えたのに対し、弘世は幕府に関与するより自領の確保・拡大を進めた方が得策と考えたためだったと思われます。

『花営三代記』によると康暦2年(1380年)5月28日、大内義弘は安芸の内群にて弟の大内満弘と合戦を行い満弘方の名立たる者たち200人余りを切り捨てたとあります。この兄弟の争いには先述した父大内弘世との親子間の対立が関係していると考えられています。なぜなら、同年11月に弘世が病没すると兄弟はすぐに和解し義弘は満弘に石見守護職を与えており、実際は義弘・弘世の争いに、満弘が父方に加勢しただけだったといわれています。

この争いで大内義弘は弟大内満弘方についた一族を多数滅亡させています。そしてこの行動によって義弘は有力同族の削減に成功し家中の主導権を独占、父の代とは違う新たな家臣団の編成に着手します。

大内義弘と足利義満

康安元年(1389年)3月4日、室町幕府3代将軍足利義満は安芸の厳島詣に出かけます。これは管領の細川氏が失脚した康暦の政変にともなった各地の動揺を鎮める一環で、大内義弘は厳島詣後の義満を周防にて接待します。その後暴風によって九州への渡航を断念した義満一行は京都へ帰国しますが、義弘もそれに同行しそのまま在京大名の一員となります。

『詣記』によると天候の回復を待つ間、周防の田島の浦にて大内義弘と足利義満は二人だけで休息する機会があり、義満は実際に義弘と対面してその人物を気に入ったと思われます。

このように足利義満は当初大内義弘を優遇しています。義弘の「義」の字は義満からの偏諱と思われ、康暦元年には「左京権大夫」、至徳3年(1386年)には「従4位多々良朝臣」という官位を与えられます。そして、義弘は明徳3年(1392年)から応永元年(1394年)まで「従4位上行左京権大夫」を署名に使用します。


明徳2年(1391年)明徳の乱により11ヵ国の守護であった山名氏が3ヵ国の守護に減少します。当時足利義満は巨大化した守護大名の弱体化を計画しており、次々とその勢力を削減させていました。

明徳の乱で大内義弘は幕府方として参陣します。『明徳記』によると義弘は同年12月30日の合戦で自ら先頭に立って大内軍を鼓舞、自軍に戦える者がいなくなると足利義満のもとへ「自分ほどの家来を討ち死にさせることがどれほどの損失かと」自ら援軍要請を行ったとあり、幕府軍は義弘の奮闘により勝利します。

翌明徳3年1月、論功行賞にて足利義満は山名氏から没収した和泉と紀伊を大内義弘に与えます。しかし紀伊には山名方の山名義理が以前とどまっていたため同年2月13日義弘は紀州平定のため出陣、その後義理が淡路へ逃亡したため義弘はわずか10日余りで紀州を平定します。

大内義弘は南北朝合体の和平交渉に協力したといわれています。『金剛寺古記写』には義弘は足利義満の命で「南朝和睦の義を繕う」とあり、実際に南朝の支配地域である河内・大和に隣接する領地を持ち、義満の信頼も厚い義弘は交渉に最適な人物でした。また同年10月15日南朝より三種の神器が京都へ帰還する際には、その迎えに義弘が編成されており義弘は武家の代表として三種の神器の護衛にあたっと考えられます。

その後明徳4年(1393年)10月、足利義満は和泉の堺にて諸大名を集め犬追物を行います。この行事に大内氏からはその日の参加者の1/3にあたる4名を参加させており、同年12月13日には義満みずから筆をとり、大内義弘を将軍家の一族に準ずるという御内書を与えています。このように上洛後の義弘は義満と厚い信頼関係を構築していました。

応永の乱

大内義弘は自らの代で大内氏の支配地域を拡大させました。この領土拡大の動きは父大内弘世の代から継続されたもので、石見・安芸では国人たちの所領を掌握して臣従化、厳島神社や宇佐神宮など有力な寺社に対しては、保護や執行役の人事権を握るなどの管理を行っています。

また大内義弘は以前より豊前守護に任命されていましたが、豊前は九州探題の勢力下でした。しかし、応永2年(1395年)今川了俊が九州探題を罷免された後は豊前の支配を本格化、これにより関門海峡の両端を支配することができた義弘は貿易・外交などの海上特権を得ます。

『難太平記』には罷免時の大内義弘と今川了俊の様子が記されています。それは了俊が足利義満によって京都に呼び出された際、義弘は義満の政治が諸大名の所業ではなくその勢力次第により処遇を決めているので、今川・大内・大友という西国の大名たちが同盟を組んで互いにその地位を守ろうと、了俊に大名間の同盟締結を打診します。

しかし今川了俊はこの提案を拒否、面目を潰された大内義弘は了俊の讒言を幕府に吹聴して、九州探題罷免に追い込んだとされています。実際その真意は定かではありませんが、義満に対する義弘の心情に徐々に変化が見られることがわかり、『灘太平記』には義弘が他の在京大名たちにいい心情を持ってない様子が記されています。

大内氏は以前より中国・北九州の海賊衆を臣従化させており、倭寇とも繋がりもあったといわれています。永和3年、倭寇による略奪に苦しめられていた高麗は九州探題今川了俊に使者を送り倭寇の禁止を要請します。このとき北九州にて南朝軍と対陣していた大内義弘は了俊とともに倭寇を取締り、永和4年(1378年)には軍を高麗に派遣していますが現地で倭寇に敗れています。その後朝鮮との交易は今川氏が独占、しかし了俊の九州探題罷免後は義弘が朝鮮と交渉を開始します。

その後、今川氏に変わり朝鮮と誼を通じたい大内義弘は、何度も使者を送り友好を求めます。この行動に朝鮮王朝は義弘の使者を優待、応永4年(1397年)には大内氏の使者の帰国に官僚の朴惇之を同行させます。その後義弘は朴を京都にて足利義満に謁見させており、義満は朴に倭寇の取り締まりを快諾。応永6年(1399年)には義満は倭寇を禁圧の義弘に命じて朝鮮との貿易を要請します。その後の朝鮮側の記録には義弘の協力により、手ごわかった倭寇が武器を捨てて投降したと記してあります。

そして同年5月、大内義弘は倭寇禁圧の功績に対し朝鮮との独自の交渉を開始します。『李朝実録』によると義弘は、自分は百済の末裔なのでその証拠文書、及び百済にある田畑を承りたいと願い出たとあり、この要請に朝鮮側は一応「大内氏」は百済の始祖から出た高氏の末裔ということにしますが、土地に関しては官僚たちの評議の結果認められませんでした。

応永2年7月、足利義満の出家に伴い大内義弘も他の守護大名とともに出家します。そして応永3年(1396年)、新しく九州探題になった渋川満頼に対し少弐氏と菊池氏が反乱を起こします。

この戦況に室町幕府は大内氏や大友氏に満頼救援を要請、在京中の大内義弘は弟の大内満弘・大内盛見を派遣し少弐氏の討伐に向かわせます。しかし応永4年年末、大内軍の総司令官であった満弘が討死、この事態に幕府は義弘に九州下向を命令します。その後九州に上陸した義弘は少弐氏を筑前に追い出し反乱を鎮圧しますが、義弘は上洛しようとしませんでした。

この大内義弘の行動に対し足利義満は上洛を促し、応永6年10月13日ようやく義弘は和泉の堺まで出向します。しかし義弘は同地にとどまり上洛を行わず、京都では義弘謀反の噂が流れます。その後義満は青蓮院門跡に仕える伊予法眼を使者に出しますが、義弘は思いがけない事情があり参洛できないと上洛を拒否、同年10月27日義満は五山の高僧である絶海中津を特使として派遣します。

当時大内義弘は足利義満の目的が自身を上洛させて誅殺するものだと考えており、義弘と面会した絶海中津は義満の意向が巷で流布してるものではないから、一度両者で話し合うようにすすめます。『応永記』によるとこのとき義弘は、これまで彼が尽くした忠節として自らの功績を挙げ、それにもかかわらず義満は和泉と紀伊を取り上げようとし、少弐・菊池氏に義弘討伐を命じ、弟の大内満弘の討死への恩賞がないことへの不満を述べ、そして義満は自身を誅殺することが目的だと伝えます。

大内義弘の言い分に対し絶海中津は、そのような噂を信じるべきではないと何度も上洛を促します。しかし、義弘は義満の政道を諌めるため鎌倉公方と同心しており、ここで上洛すれば約束を違えることになるので来月2日に関東とともに上洛する、これには山門(延暦寺)も南都(興福寺)も内通していると言い捨て席を外します。これにより両者の交渉は決裂したのです。


その後大内義弘は鎌倉公方の足利満兼と通じ挙兵、この西国と東国の大名の同盟には九州探題を罷免され遠江と駿府半国の守護となっていた今川了俊が仲介にあたったといわれています。

ここまで悪化した大内義弘と足利義満の関係について『臥雲日件録』には応永4年に義満が行った北山邸造営の使役を「武士は弓矢を業とするもので土木工事を使役するものではないと」義弘が拒否したことが記されており、さらにこれが始めて義弘が義満に逆らったものと付け加えています。この対応は九州出兵への戦費負担や弟の犠牲に顧りみることなく、土木工事をさせようとする幕府に義弘が激怒したと考えられます。

また両者の関係悪化には足利義満の謀略があったとも考えられています。義満は自身の権力確立につれて6ヵ国の領国、数々の武功、そして時折反抗的な態度を見せる大内義弘を徐々に疎ましく思うようになっていました。さらに朝鮮貿易の利益も認識すると尚更その存在が邪魔になり、義弘の九州出陣を好機と捉えて「和泉・紀伊の取り上げ」や「義弘討伐の命令」などの噂を流して義弘を疑心暗鬼にし謀反に追い込んだといわれています。

同年10月28日、足利義満は各地の大名や寺院に義弘治罰の文書を送り義弘討伐軍を動員、細川・京極・赤松ら在京大名たち6,000騎を和泉に向け出陣させて11月8日には義満自身が馬廻2,000騎を率いて東寺に参陣、同月14日には八幡に進軍します。そのほかには、足利一門を含むほとんどの守護大名が合わさった主力30,000人が和泉へ向います。

この戦況に大内義弘は評定を行い堺での籠城を決意、堺の町を短期間のうちに要害化します。しかし一方で義弘は、一時的な恨みで将軍の御恩を忘れたのだから天命が尽きたら討ち死にしかないと覚悟を決めており、周防の母に遺言と弟の大内盛見には分国を固く守るよう申し送り、従う兵士には今生の別れに酒宴を振る舞っています。そして、帰依している僧を呼んで生前に葬儀を調えて、49日の仏事を行います。

『応永記』によると応永の乱には全国の反幕府の勢力が大内義弘に呼応したといわれています。このことから義弘は孤立無援ではなく鎌倉公方など各地の反乱軍と連携したうえで、京都や大坂湾に繋がる堺で籠城したと考えられます。

同年11月29日大内義弘と幕府軍の戦いが開始、幕府軍の管領畠山基国率いる2,000騎が城北口の三の木戸まで攻め寄せます。幕府方はここに山名・北畠の軍勢も投入したことにより同所はこの日一番の激戦区になり、大内義弘は自ら200騎をもって駆け付け奮戦、激闘の末幕府軍を撃退します。

しかし、この勝利は一時的なものでした。このとき大内義弘ととも反乱を起こした関東公方足利満兼は同年11月21日10,000人を率いて武蔵の府中まで進軍していましたが、関東管領の上杉憲定に諫められて進軍が止まっており、興福寺や延暦寺も挙兵をとどまっていました。

同年12月21日、幕府軍は総攻撃を行います。この戦いで大内義弘は大太刀を振るい「入方払」という兵法をつくして奮戦、畠山基国の嫡子畠山満家にわずか30騎で攻めかかります。しかし、義弘の後方にいた石見の国人衆200騎が畠山軍に内応、激怒した義弘が石見勢に攻めかかりますが恐怖した石見勢は2町ばかり逃げます。

その後も大内義弘は畠山満家を討ち取ろうとしますが畠山軍はこれを取り囲み、最後の1人となった義弘は「天下無双の名将左京権大夫義弘入道ぞ、討ち取って将軍の御目にかけよ」と大声をあげて敵に突入、義弘は討ち取られます。

大内義弘の死後、幕府は和泉・紀伊・石見・豊前の守護職を大内氏から取り上げ、周防・長門は義弘の弟の中で幕府に従順な者を据えようと画策します。そして幕府は当初、義弘と共に堺で籠城し、反乱鎮圧後は降参した大内弘茂に周防・長門の守護職を補任します。しかし、領国を守っていたもう一人の弟大内盛見がこれに反発し家督争いが勃発、勝利した盛見が幕府より周防・長門の守護を任されます。


その後大内氏は歴代当主が幾多の不幸に見舞われつつも西日本最大の勢力になっていきます。しかし天文20年(1551年)大内氏は大内義隆の代に家臣陶晴賢の謀反により滅亡します。

(寄稿)kawai

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