大内政弘の解説~天下に名を馳せた西軍の重鎮

大内政弘




大内政弘とは

大内政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代の文安3年(1446年)、大内氏第13代当主・大内教弘の嫡子として生まれます。
幼名は亀童丸 太郎といい、母は山名熙貴の娘で山名宗全の養女でした。
大内政弘は寛正6年(1465年)9月3日、父大内教弘が伊予の陣中で病没したため家督を相続、周防・長門・豊前・筑前の守護となります。

大内政弘

大内氏は当時室町幕府の管領細川勝元と対立しており、教弘の出兵は同じく細川氏と対立する伊予の河野通春を援けるためでした。
大内氏と細川氏の対立は瀬戸内海の覇権と日明貿易の利権を巡るものだったと言われており、父の跡を継いだ政弘も河野氏を援けて細川氏と争います。

こうした大内政弘の行動に寛政6年10月、細川勝元の要請を受けた室町幕府8代将軍足利義政が政弘討伐の命令を出します。
しかし文正元年(1466年)には命令を撤回、これは当時京都で将軍家などの後継者争いに絡んだ山名氏と細川氏の対立が決定的になってきており、幕府は両氏に代わり大内氏を新たに取り込もうとしていたと考えられています。
そして応仁元年(1467年)5月26日、室町幕府を東西に二分した山名宗全と細川勝元の争い応仁・文明の乱が開戦します。


細川勝元との戦い

大内政弘はこの争いで山名宗全(西軍)に味方し細川勝元(東軍)と対立します。
政弘率いる大内軍は周防・長門に加えて安芸・石見・筑前・筑後・豊前・伊予の8カ国から及ぶ大軍になっており、河野通春や宗全の後継者山名政豊とともに海陸両方から京都を目指し進軍します。

こうして大内軍は備中の下津井にて細川軍を破り京都の玄関口である尼崎沖の制海権を確保、同年8月には入京し船岡山に本陣を置きます。
この大内政弘の上洛によって当初劣勢であった西軍は戦況を挽回、その後は約10年間にわたり畿内を転戦し東軍と争います。

しかし文明元年(1470年)5月に大内政弘の叔父大内教幸が長門赤間関にて挙兵、これに長門守護代らの重臣たちが加担したため大内軍に動揺が走ります。
また、北九州では少弐氏や大友氏が筑前・豊前に侵攻を開始、これらの反大内の活動には細川勝元の謀略があったとされています。
この自領での戦況に対し政弘は、家臣益田貞兼に帰国を命じて留守の陶弘護とともに反乱の鎮圧を指示、文明3年(1471年)1月には教幸を豊前にて自害させることに成功し、少弐氏を大宰府より追放します。
また安芸では細川方(東軍)に属していた国人毛利豊元を配下に加えることに成功します。


長期戦に突入していた京都の争いは文明5年(1473年)に東西両主将である山名宗全と細川勝元が病死、これにより西軍は大内政弘が総帥と目されるようになります。
そして文明6年(1473年)には山名氏と細川氏の和解が成立しますが、政弘は当時西軍が将軍として擁立していた足利義視を自邸に招き東軍との戦いを継続します。

しかし文明8年(1476年)9月には大内政弘は足利義政による和睦要請を受諾。
政弘は足利義視に義政に対し隔意のない旨を誓約させ、義政からは義視を粗略にしない表明をさせます。
こうして文明9年(1477年)政弘は幕府へ帰順、新しく将軍となっていた室町幕府9代将軍足利義尚より従4位下・左京大夫に任じられ、周防・長門・豊前・筑前の守護職と岩見・安芸の所領を安堵されます。
そして同年11月に大内政弘は京都より帰国します。


帰国後の大内政弘は、文明10年(1478年)9月北九州に出陣して少弐氏や大友氏と戦い豊前・筑前を平定、東では安芸・石見の国人たちに偏諱を与えるなど自家に臣従化させます。
そして文明12年(1480年)には相伴衆に任じられます。
また政弘は領内の統治に評定衆や政所、政所のもとには申次衆、普請奉行などをおき室町幕府の職制を取り入れてます。
そして、延徳2年(1490年)には周防にある東大寺領を守護請化、東大寺が独自の地位を築いてきた周防の国衙領を押領することに成功します。

文明14年(1482年)5月、大内政弘の館で陶弘護が吉見信頼に殺害される家臣同士の殺傷事件が起こります。
その後、政弘は弘護の弟に「不慮のこと出来、口惜し残念、申す計り無く候」と書状を送っていますが、この事件は弘護を疎ましく思った政弘が黒幕だったとも考えられており、真意は定かではありませんが強力な重臣がいなくなったことにより政弘に権力が一本化されます。

大内政弘は長享元年(1487年)、将軍足利義尚が行った近江の六角高頼の討伐に家臣問田弘胤を代理として参陣させます。
また、その後室町幕府10代将軍足利義稙が行った2度目の六角氏討伐では嫡子大内義興を参陣させていますが、義興の在京中に明応の政変が起こり大内軍と一緒に上洛していた政弘の娘であり義興の妹が誘拐されてしまいます。
これは大内軍の動きを封じるために行った細川政元の陰謀だったと言われており、政弘は自らも政敵であった細川氏に息子が翻弄されていることに激怒、明応2年(1493年)年8月4日に義興の側近に切腹を命じています。

明応3年(1494年)秋、大内政弘は中風の悪化により嫡子大内義興に家督を譲り隠居します。
しかし明応4年(1495年)2月13日、義興の上洛中に出奔した家臣陶武護が跡を継いでいた弟の陶興明を討ち果たす事件が起こります。
このとき政弘は武護に味方したとして家臣内藤弘矩を自邸にて殺害、その後挙兵した弘矩の子内藤弘和に対しては義興に討伐を命じて討ち取っており、武護は追放しています。

こうした家中の混乱の中大内政弘は明応4年9月18日に病没します。享年50歳。


大内政弘は長い在京の間に公家や文化人と交流し文芸を学びます。
そして古典やその研究書を収集し出版、筆写させ、山口では応仁の乱で荒廃した京都から芸術家たちを保護したことにより大内文化が発展します。
父大内教弘の代から交流があった画聖雪舟も政弘の庇護を受けており、山口にある常栄寺の庭園を作ったと言われています。
そして大内氏の家中には連歌会など文芸の気風が当たり前に組み込まれており、政弘は連歌師の宗祇・兼載を再度に渡り連歌会に招待し自家の諸将たちを指導してもらいっています。
また、大内政弘自身も歌集『拾塵和歌集』を残しており、宗祇の准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』も後援、そのなかには政弘の句が75句撰ばれ、大内家中の面々の句も収録されています。

(寄稿)kawai

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