大内義興の解説 武勇仁徳兼備して天命を受けた良将

大内義興




大内義興(おおうち-よしおき)は、戦国時代頃の文明9年(1477年)2月15日、応仁の乱に参加していた大内政弘の次男として京都で生まれます。
幼名は亀童丸といい、兄弟には大内高弘がいます。
しかしその兄弟関係や人数は諸説あり不明で母親は賀茂神社社家鳥大路氏出身の今小路と呼ばれる女性でした。
その後、大内義興は同年11月に父母とともに周防山口へ帰国、長享2年(1488年)には12歳にて元服を果たし室町幕府9代将軍足利義尚より「義」の字を拝領します。

大内義興と明応の政変

延徳3年(1491年)12月27日大内義興は父大内政弘の名代として10代将軍足利義稙の六角高頼征伐に参加、3,000人の軍勢を率いて上洛します。
しかし義興に近江への出陣命令が出されなかったため大内軍は洛中の法花堂に駐屯、延徳4年(1492年)には清水寺に参詣します。


その後高頼を甲賀へ逃走させることに成功した幕府方は今度は畠山家総州家の討伐を計画、この要請に対し義興は明応2年(1493年)3月堺北荘へ布陣します。
しかし同年4月細川政元らによる明応の政変が起こり遠征中だった義稙は廃立され、京都では足利義澄が11代将軍として擁立されます。
そして堺にいた義興のもとへ幕府軍として参加していた安芸・石見の国人たちが逃げ込んできますが、大内軍はこのとき政変を静観。
これは当時京都で起こっていた義興妹誘拐事件が関係していると言われており、真相は明らかではありませんが妹を誘拐したのは政元方で、その犯行の真意は義興に政変を傍観させるためだったと考えられています。

その後義興は兵庫へ移動、同地にて赤松政則とともに事態の収束を図りますが上手く行かず大内軍は兵庫にて駐屯。
同年6月には義稙が幽閉先より北陸に脱出しますが、義興は情勢を見極めるため軍を動かしませんでした。
しかし同年8月4日、父政弘の命令によって義興側近が切腹させられる事件が起こります、これは自らの政敵であった政元に息子が翻弄されていることに政広が激怒したためと思われ、ほどなくして義興は帰国します。

父・大内政弘の死

大内義興の帰国後、大内家では家臣たちの争いが起こります。
明応4年(1495年)2月13日、義興上洛時に京都で出奔した陶武護が突然帰国し跡を継いでいた弟の陶興明を討ち果たします。
そしてこのとき武護に味方したとして同月28日、父大内政弘が家臣内藤弘矩を自邸に招き殺害、その後挙兵した弘矩の子内藤弘和に対し政弘は義興に弘和討伐を命じ弘和を討ち取り、武護を追放します。
この事件の前後に義興は弘矩の娘東向殿を正室に向かえています。

こうした中、同年9月18日に政弘が病没。
大内義興は名実ともに大内家当主となります。
しかし正弘生存中の同年4月頃より義興は当主を代行しており、父の死を契機に義興は花押の形状を改めます。

大内義興と九州戦線

明応5年(1496年)4月北陸にて潜伏中の前将軍足利義稙が友好のあった大内家・大友家・島津家に対し帰洛の要請をします。
これに対し細川政元は大内義興の上洛を阻止すべく九州・中国の諸大名に大内領への軍事行動を要請、同年7月大友政親が大内領の豊前・筑前を目指して出陣します。
このとき大友家では政親の息子大友義右が病没しており、これは政元方の政親が義稙方の義右を毒殺したと考えられています。し
かし政親は出陣した自身の船が遭難し長門へ漂着、事件を知った義興により拘束され切腹させられています。


また大友家の動きに連動して少弐政資も筑前に侵攻を開始します。
この行動にも政元方の働きかけがあったと考えられており、義興は同年12月13日大軍を率いて出陣、長門赤間関に本陣をおきます。
このときの大内軍は周防・安芸・石見の国人まで参加しており明応6年(1497年)3月には少弐軍を撃破、敗れた政資は肥前に逃れますが義興に追い詰められ同年4月に自害しています。
その後義興は家臣仁保護郷を肥前に残留させて少弐軍残党との戦いを命令、そして九州探題渋川尹繁を支援させます。

こうして九州にて争いを続けていた義興ですが領内では兄弟である大内高弘が政元方の調略により大内家家臣杉武明とともに反乱を計画、明応8年(1499年)2月16日には計画が露呈して武明が切腹しますが高弘は大友家へ逃亡します。
この逃亡は、明応7年(1498)年11月に大友軍に敗北し戦況を悪化させていた義興にとって不安を残すものでした。

足利義稙の下向

明応8年12月以前より下向の意思を示していた足利義稙が周防山口に動座します。
そして義稙は同地にて自身を現役の将軍とした政務を開始、この時期に大内義興は本来管領が御内書等の副状とする同じ機能の文書を発給しています。

こうした義稙の動きに対し細川政元は大友家や中国の諸大名に連絡し反大内包囲網を形成、そして文亀元年(1501年)6月には義興を朝敵とすることに成功し九州・中国の大名や国人28名に後柏原天皇の義興治罰の綸旨を発給します。
しかし義興はその後、大友家や少弐家などの戦いを優勢に進め同年9月には義稙の仲介で大友家と和睦します。
そして義興は永正元年(1504年)頃より上洛の計画を本格化、公方様御上洛用の名目で加増段銭を賦課します。

大内義興の上洛

永正4年(1507年)6月23日、義稙の上洛を阻んでいた細川政元が家臣によって暗殺されます。
その後細川京兆家では家督争いが勃発、細川高国が足利義稙方、細川澄元が足利義澄方への協力を表明します。
そしてこの情勢を好機と見た大内義興は上洛を決意し出陣、畿内では高国方の戦況が優勢になり永正5年(1508年)4月9日には澄元が退京、同月16日に義澄が近江へ逃亡します。
そして同年6月8日に義稙が念願の帰京を果たし、同日の夜には義興が8,000人の軍勢を率いて入京します。
こうして義稙は将軍に復帰、高国が管領、義興は管領代となり義稙を支えることになります。


その後義稙は義興に相国寺崇寿院領の堺南荘を与えますが義興は辞退、このため山城守護を与えます。
そして在京2ヶ月後には義興は帰国の意思を示しますが、幕府や朝廷の説得により帰国を諦め、同年9月14日には従4位上に昇進します。
またこの頃義興は東大寺より周防の国衙領の返還を訴えられており、当初義興はこの問題を先延ばしにしましたが東大寺が閉門して抗議、結局永正6年(1509年)には東大寺と対立は不利としてその訴えを聞き入れています。

大内義興の在京

永正6年6月17日細川澄元が前将軍足利義澄とともに京都奪還のため山城如意ヶ嶽へ進軍します。
この動きに対し足利義稙は大内義興、細川高国らとともに軍勢を集結、如意ヶ嶽の戦いにて勝利します。
その後澄元は阿波の勝瑞城まで落ち延びますが、永正8年(1511年)7月には再び細川政賢や赤松義村とともに京都へ進軍を開始、この侵攻に対し義稙方は一旦京都から丹波へ逃れます。
しかし同年8月14日に義澄が急死、これを好機とみた義稙方は京都奪還に動きます。
そして同月24日船岡山合戦において京都の政賢軍を撃破、『細川両家記』には義興の戦いぶりを「ほめぬ人こそなかりける」と記しています。
またこのとき義興は自軍の安芸国人らに堺南荘の死守を命じており、これは自軍の退路確保や澄元率いる阿波細川軍の上陸阻止だったと考えられ結果的に澄元は京都へ進軍できませんでした。

永正9年(1512年)3月28日義稙は後柏原天皇からの要請を受け義興を従3位へ任命、義興は上階を果たし公卿となります。
この公卿化は戦国大名の官位沸騰の契機と言われており、義興は幕府に対しても自家の家格上昇を狙っていたと考えられ、永正11年(1514年)4月7日政所執事伊勢貞陸に対する「大内家万問伊勢家問」の中で義興は、3管領家4職家の陪臣にも将軍は御成するのか尋ねています。
また永正13年(1516年)に義興は遣明船について永代菅掌せよという将軍御内書、奉行人奉書を獲得。
義稙より遣明船の権利が一任されています。

そして在京中に義興は、前関白近衛尚通から百首和歌や和歌詠走を贈られたり連歌師の宗碩より古今伝授を受けるなど和歌に精通していきます。
また猿楽や犬追物を見物する様子も伝えられており、有識故実の研究も積極的に行っています。
義興のこの文芸に対する姿勢は大内家家臣団にも浸透しており、主同様に古典収集や和歌の修行に励んだ家臣たちの文芸資料は戦国期の地方武士の中で多く残されています。

大内義興の帰国

永正10年(1513年)2月26日、何かのことで立腹した足利義稙は突然大内義興へ下国を命令します。
このことについて詳しい原因は分かっていませんが、同年3月には義稙は義興と細川高国への不満を理由に近江に出奔しており、義興と義稙の関係が不安定になっていることがわかります。


またこの頃より出雲では尼子経久が台頭。
永正15年(1518年)には義興の岩見守護就任に対抗した前石見守護代が経久と結び大内家へ抵抗の構えを見せます。
こうした領国の情勢悪化に対し義興は帰国への意思を固めます、そして同年8月2日義興は約10年にもわたる在京期間を経て帰国、義稙の帰国許可の御内書が発給されたのは8月27日のことでした。

戦いに明け暮れた晩年

同年10月15日周防山口への帰国を果たした義興は山口大神宮の造営に取り組みます。
これは在京中の永正11年(1514)伊勢神宮に参拝した義興が感銘を受けて神宮を山口に勧請したもので、この事業は永正17年(1520年)にかけて行われました。

そして大内家領では尼子経久や安芸にて反旗を翻した武田家との戦いが激化、武田家当主光和は厳島神社神主厳島興親の跡目争いにて義興の沙汰に不満を持った友田興藤とともに義興に敵対します。
そして大永3年(1523)には尼子軍が安芸へ侵攻、この進撃に対し毛利家や吉川家といった大内方の国人たちが次々と尼子方へ寝返り、同年6月27日には大内家の主要拠点鏡山城が陥落します。
しかし大永4年(1524年)10月光和とともに抵抗していた興藤が義興に降伏、大永5年(1525年)には尼子方へ寝返った安芸国人たちを調略や合戦にて再び大内方へ帰属させます。

この戦況を見た経久は備後へ侵攻を開始、義興は家臣陶興房を派遣します。
この頃備後は山名誠豊の領国でしたが、尼子家の侵攻に対し誠豊は大内軍への味方を表明、しかし今度は興房の留守の安芸で、尼子方の国人の軍事活動が活発化。
同年12月には義興の娘婿となっていた大友義鑑の援軍10,000人が厳島に到着しています。

その後安芸では尼子・武田方と一進一退の攻防が続きますが、大永7年(1527年)経久は自ら軍を率いて備後へ出陣。
同年8月9日には興房を大将とする大内軍と細沢山で激突し大内軍はこの合戦に勝利します。しかしその後守りを固めた尼子軍と大内軍は再び膠着状態に入ります。

この頃義興が本営を構えていた安芸門山城にて発病し重体に陥ります。
そしてその報せを聞いた各地の大内家諸将たちは安芸厳島に撤退、会議にて義興を山口まで移送することを決断します。
しかし容体は戻らず享禄元年(1528年)12月10日に義興は病没します。享年52歳。


生前義興と親交のあった南禅寺の景徐周麟は、義興を中国古代の聖帝舜や禹よりも優れた政治を行った人物と称え、『南海治乱記』には義興を父大内政弘以上の名将と述べています。

(寄稿)kawai

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