陶興房の解説~大内義興・大内義隆親子を支えた名将

陶興房




陶興房とは

陶興房(すえ-おきふさ)は周防大内氏重臣陶弘護の子供として生まれます。生年は文明7年(1475年)と言われ、別名は次郎。兄に陶武護、陶興明がいます。

文明14年(1482年)5月、陶興房の父陶弘護が主君大内政弘の館で岩見国人の吉見信頼に殺害されます。その後陶氏の家督は兄の陶武護が相続しますが、武護が政弘の嫡男大内義興の上洛中に京都にて出奔したため、陶氏の家督はもう一人の兄陶興明が相続することになります。

ところが明応4年(1495年)2月、出奔した陶武護が帰国し陶興明を討つ事件が起こります。その後武護は紀伊高野山に逃亡、同年6月頃には討ち死にしたと言われ、陶氏家督と周防守護代の職は陶興房が相続することになります。

明応5年(1496年)4月、室町幕府の前将軍足利義尹(後の足利義稙)が大内氏に対し自身の帰洛要請を行います。この働きに義尹の政敵である管領細川政元は、大内氏の上洛を阻止すべく九州・中国の諸大名に大内領への軍事行動を要請します。

この状況に大内政弘の跡を継いだ大内義興は北九州を転戦し反大内陣営と合戦、文亀元年(1501年)7月23日の豊前馬岳城合戦では陶興房も従軍し、大友氏や少弐氏の連合軍に勝利しています。


その後、大内義興は永正5年(1508年)6月1日足利義尹を伴い上洛、義尹を将軍職に復帰させます。この上洛には陶興房も従軍しており永正6年(1509年)6月17日の如意ヶ嶽の戦いでは、大内氏家臣杉興宜とともに大内軍を指揮、京都侵入を企んだ前将軍足利義澄方の細川澄元軍に勝利しています。

そして、陶興房は永正8年(1511年)8月24日に起こった船岡山合戦にも参戦します。このときも大内軍を率いた興房は京都を占領していた細川政賢軍を撃破、『細川両家記』には大内軍の戦いぶりを「ほめぬ人こそなかりける」と記しています。

大内義興は在京中の永正9年(1512年)3月28日、従3位に任命され公卿成りを果たします。その後、義興は政所執事の伊勢貞陸に3管領家4職家の陪臣にも将軍は御成するのか尋ねており、これは義興が自らの家格を管領家たちと同等に上昇させるべく陶興房ら家臣の屋敷への将軍御成を画策していたと考えられています。

この頃、出雲では尼子経久が台頭し中国地方の情勢が不安定になっていきます。この大内領内の留守居役の中には陶興房の後見人を務めた叔父陶弘詮がおり、興房が武、弘詮が政の面で大内氏を支えていました。その後、室町幕府より帰国が許された大内義興は永正15年(1518年)10月周防へ帰国、ともに帰国した興房は大永2年(1522年)、義興の在京中に大内氏より離反した安芸武田氏討伐へ出陣します。

この戦いで陶興房は武田氏の拠点金山城に迫りますが、無理強いをせずに一旦退却。翌大永3年(1523年)3月に安芸厳島神社の友田氏が、武田氏と結び挙兵したため再び安芸へ出陣、また同年には尼子経久が武田氏と結んで安芸へ侵攻を開始します。

この戦況に陶興房は調略を行い、反大内の武田・友田連合軍の背後に位置する大野氏を内応させます。これにより退路を絶たれる形となった連合軍は総崩れとなり、大内義興も嫡子大内義隆を伴い出陣、興房は友田氏が逃げ込んだ桜尾城を攻め、同城を開城降伏させます。

大永5年(1525年)6月、大内義興より対武田氏の別働隊を任せられた陶興房は尼子方へ寝返っていた安芸国人天野氏を攻めて再び帰服させます。そして同年8月には天野氏とともに武田軍と戦い勝利しています。


その後、尼子経久は安芸から備後侵攻へ方針を転換。この経久の動きに対し大内義興は陶興房を備後へ派遣、しかし興房の留守に安芸では再び反大内陣営の活動が活発化、興房は安芸国人毛利氏の家臣に尼子方国人が発起した際には、毛利氏当主毛利元就の出陣を要請しています。

大永6年(1526年)備後での戦いを切り上げ安芸へ戻った陶興房は、翌大永7年(1527年)に安芸の尼子方国人阿曾沼氏を攻撃し大内方へ帰服させます。また、同年5月安芸の武田氏諸城を攻めた際には救援しにきた武田軍を撃退しており、この興房の活躍により安芸の尼子方の国人たちは大内方への鞍替えを加速、そしてこの劣勢を挽回するべく尼子経久が自ら備後へ出陣します。

尼子経久出陣の報せをうけた陶興房は再び備後へ出陣、この興房の軍には各地の大内方国人や大内氏重臣が多数参加します。そして同年8月9日大内軍と尼子軍は備後の和智郷細沢山で激突、この合戦後に備後の国人たちが続々と大内氏への協力を申し出ていることから、おそらく戦いは興房方の勝利だったと考えられています。その後、尼子軍は北上して備後八千壇城に立て籠もり守りを固めたため両陣営は膠着状態に陥ります。

その頃、大内軍が本営を構えていた安芸門山城にて大内義興が重体に陥ります。この報せを聞いた陶興房たち各地の諸将は安芸厳島に撤退、会議にて義興を山口まで移送することを決断しますが、義興は享禄元年(1528年)12月10日に病没します。

その後、大内氏の家督は大内義興嫡男の大内義隆が相続、陶興房は義興の死に伴って出家したと考えられ法号は道鱗といいます。

晩年の活躍

陶興房は享禄2年(1529年)11月、周防佐波群の土民が起こした徳政一揆鎮圧のため軍勢を派遣しています。この一揆は地侍も参加していたため鎮圧は難しかったと考えられています。

そしてこの頃、陶興房は尼子氏家中で起こった尼子経久と経久3男塩冶興久との内紛に関して、毛利氏の家臣に意見を聞いています。その内容は、現在大内家は両陣営から協力を求められていること、大内家は表面的には両方によい顔をして裏で負けそうな方を援助しているが、両方滅びるのが最上、どうすればいいだろうか?などを聞いています。

享禄3年(1530年)8月15日、筑前にて大内氏家臣杉興運が少弐氏に敗れる田手畷の戦いが起こります。その後筑前・豊後では少弐氏や大友氏が積極的に反大内の活動を開始。この戦況に大内義隆は出陣、長門長府に本営を置き陶興房に九州出陣を命じます。

九州に上陸した陶興房は、天文2年(1533年)3月9日筑前立花城攻めの後方指揮を取っていたと思われ、同城に調略を仕掛けています。そして立花城攻略後は肥前神崎郡石動村・大曲村にて少弐氏と合戦し勝利しますが、その後は少弐氏の抵抗にあい太宰府に撤退、同地にて肥後国人たちに大内方として出陣するよう進めています。

そして翌天文3年(1534年)1月31日陶興房は筑前博多津に参陣、同年2月29日には少弐氏の本拠地である肥前に侵攻し川上神社に禁制を出しています。その後『北肥戦誌』によれば同年7月15日興房は少弐氏家臣龍造寺家兼ら率いる少弐軍に破れたとあり、その後同年10月には大内氏は家兼を仲介者に少弐氏と和睦したと言われていますが、詳細は分かっていません。


天文4年(1535年)12月29日、肥前において少弐氏のとの戦いに勝利した陶興房はそのまま肥前三根群を占領します。これによって自らの所領を無くした少弐氏当主少弐資元は逃亡しますが興房は追撃の手を緩めず、翌天文5年(1536年)9月肥前多久城に籠った資元を自害させます。

同年10月、肥前・筑前を平定した陶興房は周防に帰国します。その後、翌天文6年(1537年)1月8日陶興房の次男で、後に「西国無双の侍大将」と呼ばれる陶隆房(後の陶晴賢)が従五位下に昇進します。

天文8年(1539年)4月18日陶興房は病没します。享年65才。陶氏の家督は長男の陶興昌が享禄2年に病死していたため、陶晴賢が継ぎます。そして、この晴賢への家督相続がその後の陶氏と大内氏の運命を決めたのでした。

(寄稿)kawai

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