棚守房顕の解説~厳島神社再興に生涯を奉げた神官

棚守房顕





棚守房顕とは

戦国時代の日本では、北条早雲、豊臣秀吉や斎藤道三に代表される下剋上、ないしは立身出世した武士が多く現れましたが、宗教界・文化人の世界にもそうした英傑が存在しました。それこそが、本稿で紹介する棚守房顕(たなもり‐ふさあき)です。

房顕は明応4年(1495年)、佐伯氏の血を引く厳島神社の宝蔵を守る管理者・棚守に奉職する家系である野坂玄顕の息子として生まれました(そのため、野坂房顕ないしは佐伯房顕と表記される事も)。この野坂家は世襲していた棚守職は神社の宝蔵管理以外にも、舞楽を奉納する芸能を司っていた一族でもあり、当時の厳島神社に奉職する神職の中では低い階級であったと言われています。



そうした境遇にいた房顕に転機が訪れたのが、大永3年(1523年)に勃発した厳島神社の神主職を巡る争いの時です。小方加賀守と友田興藤が神主の地位をかけて争った折、安芸(広島県)の武将である武田光和と組んだ友田氏は神主を自称、桜尾城の大内勢を駆逐して城に入った事件が起こりました。

それに対して大内氏は家臣を派遣し、厳島から友田氏を撃退したのですが、その時に房顕は大内氏の味方となり、更には陶興房の御師となって関係を深めることに成功、後に台頭する下地を築きます。御師は信徒・参拝者を案内、世話役などを務める役職なので、房顕は争いを転じて有力者たる陶氏に接近したとも言えます。

大永8年(1528年)には陶興房から一字を拝領し、この時から一般的に知られている“房顕”(一字拝領の時まで名乗った名前は不明)と名乗る事となりました。他にも房顕は中国地方に割拠する武将らと関係を強化していき、天文9年(1540年)には毛利氏の御師、翌年には大内氏からは社家奉行と棚守職を賜り、妻である小方加賀守の娘を伴って大内義隆の御前へ参じる程に威勢を高めます。



それだけではなく、社家三方※(1)と呼ばれる厳島神社の祭祀・運営を司る人々へに対する大内からの命令が、神主である佐伯景教ではなく房顕に下されたこと、彼が大内の御師になった時に知行を与えられた事など、房顕に対する大内氏からの信頼と寵愛は破格のものであったことをうかがわせます。

房顕が繋がりを強めたのは大内・陶両氏のみならず、毛利氏に対しても同様で、前述した毛利の御師就任以降も親密な交流が続いていました。元就・隆元親子が大内義隆に謁見した天文18年(1549年)には、彼らの儀礼指南役として房顕が就任しています。

天文20年(1551年)には陶興房から賜った名を改め、義隆から一字を拝領して“隆久”と名乗りますが、程なくして元の房顕に戻したという出来事が起きました。なお、同年の9月に起きた大寧寺の変で義隆は戦死しますが、房顕の改名を巡る一連の出来事との関連性は不明です。

房顕は義隆の死後、毛利との関係強化に尽力することに専念し、天文22年(1553年)には大内氏を牛耳った陶晴賢(興房の次男)の行状を元就に言上、翌年に折敷畑の戦いが起こると巻数(読経・祈祷の度数を記した文書)と御供米(神前に供する米)を献上します。元就は房顕の功労を喜び、その後ろ盾を得た房顕の厳島神社内における地位は高まりました。

その後も房顕は毛利氏と共に歩む人生を送り、とりわけ元就や輝元といった毛利氏当主のために戦勝を祈願し、病の時には大般若経を読むなど儀式・信仰に欠かせない存在としてあり続けます。永禄6年(1563年)には隆元らの助けを得て100年以上も絶えていた社家や僧らのための大風呂を復活させ、その8年後に遷宮式を執行した際には元就の肝煎りで京都から吉田兼右(神祇官に仕えた公卿)を招聘するなど、房顕が得た権力と人脈は厳島神社交流のために用いられました。

天正8年(1580年)、房顕は去る永禄6年に所領と役職を譲っていた嫡男の元行に対する置文の性格を持つ著書・『棚守房顕覚書』を執筆し、その10年後の天正18年(1590年)1月20日に96年の生涯を閉じます。

味方する権力者が一定せず、自分が属する神社の勢力を強める事に腐心した棚守房顕の事績は、現代人の私たちから見ると聖職者らしからぬ行動に見えるかもしれません。しかし、彼が生きた時代は寺社も武装した乱世の戦国時代であり、神官の立場をうまく活かして大名に接近し、生き残ろうとしたのは決して間違いではありませんでした。



更に、私たちが世界遺産になった厳島を見たり、その歴史を知る事が出来るのも、神社存続のために東奔西走し、『棚守房顕覚書』を残した房顕の功績と言っても差し支えないものです。神官ならではの人脈と信仰を武器にして戦国時代を生き抜いた棚守房顕の意志は、彼が命懸けで守り抜いた厳島神社と共に生き続けています。

参考サイト

福原元澄館
宮島観光旅行まとめブログ 

※(1)内侍(厳島神社の巫女)、六家衆(神職や舞楽を奉納する人々の代表者)、座主(厳島神社を管理した大聖寺の僧侶)のこと

(寄稿)太田

大田先生のシリーズを見てみる
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