北条早雲【詳細版】戦国時代の幕開け~北条早雲の生涯


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北条早雲(北條早雲)は、一介の素浪人から戦国大名になった下剋上の始まり、戦国時代の幕開けとなった人物とされてきたが、そもそも、何の実力も無い者が一国の主になる事は非常に困難である。
その後の研究では、北条早雲(北條早雲)の出自もわかってきた為、最新の研究内容を踏まえて、新たな北条早雲について、詳細に記載したいと思う。

北条早雲(ほうじょう-そううん)は小田原城を奪い、相模を統一すると言う偉業を達成するのだが、亡くなる時点でも「北条」と言う姓名を使用することは生涯なかった。
北条姓を使うようになったのは、相模や関東とゆかりの深い鎌倉時代の執権北条氏の権威を受け継ごうと、2代目の北条氏綱から北条氏を称するようになったので、北条早雲の時代は出自である伊勢氏を称していた。
また「早雲」と言う名だが「早雲庵宗瑞」との法名や、北条家の菩提寺が箱根湯本の「早雲寺」であることから、後世に採用された名だと考えられる。

実際の出自と名前は下記の通りだ。

北条早雲(北條早雲)の父は、室町幕府の政所執事を務めた伊勢盛定(伊勢備中守盛定、いせ-もりさだ)であると考えらる。伊勢盛定は備中荏原郷(岡山県井原市)300貫を領した高越山城主であった。
政所執事と言うのは、幕府の金銭出納、すなわち徴税の責任者と言う立場で、今で言うと国税庁の長官といっところであろうか?ただし、お金の貸し借りの民事訴訟の仲裁・判断なども行ったと言うので、権力は絶大なものと言えよう。
この伊勢氏は、室町幕府に仕えた名族で、各地に伊勢一族が散らばっていた。
母は明確にわかっていないが、伊勢盛定の妻は伊勢貞国の娘(伊勢貞親の姉妹)と推定されている。
諸説あるが、北条早雲はこの伊勢盛定の子「伊勢盛時」として、有力説を採用すると1456年に、備中荏原荘(岡山県井原市)で誕生した。

通称は伊勢新九郎で伊勢宗瑞と言う名もあるが、以後、このページにおいては、北条早雲の事を「伊勢盛時」としてご紹介する。

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父・伊勢盛定には長男・伊勢貞興がおり、伊勢盛時(北条早雲)は次男で、他にも伊勢弥次郎や、娘である北川殿(生年不明)の4人の子がいた。
しかし、長男・伊勢貞興は申次衆に加わったあとの動向に関して記録がないので、早世した可能性もあり、早くから次男であった伊勢盛時(北条早雲)が嫡男の立場にあったと考えられる。
この事は、江戸時代前期まで同様に名門・伊勢氏の出だと考えられていた為、うなづけるのだが、江戸時代中期からは、身分の低い者が実力で身を立てる話がブームになった為、北条早雲の話も浪人から出世したと言う話になったようだ。

1467年に応仁の乱が起こると、将軍警護の為、駿河守護の今川義忠(いまがわ-よしただ)は1000騎を率いて上洛すると花の御所に入り、東軍に属した。
この時、今川義忠は伊勢貞親の屋敷をしばしば訪れている。伊勢盛時の父・伊勢盛定の妻は、伊勢貞親の姉妹だった事もあり、申次衆(将軍に奏聞を取次ぐ人)を務めていた伊勢盛定は今川義忠とも親しくなったようだ。
その縁で、伊勢盛時の姉・北川殿が、今川義忠(31歳)の正室として嫁いだ。伊勢盛時が11歳の頃(1467年頃)である。
北川殿は駿河の駿府館にて長女・栄保に続いて、1471年に嫡男・龍王丸(今川氏親)を生んでいる。

1471年、伊勢盛時(北条早雲)が15歳の頃、備中荏原郷で発給された文書に伊勢盛時の署名があり、京都で活動する父に代わって所領の荏原郷の管理を行っていたと考えられる。

1476年4月、今川義忠は忠義に背いた横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討ち取ったが、帰路の途中遠江小笠郡塩買坂(現在の静岡県菊川市)で、横地氏と勝間田氏の残党による一揆に襲われ、今川義忠は馬に乗って指揮を取っている中、流れ矢に当たって討死した。

今川義忠の突然の死により、僅か6歳の龍王丸が残された今川家では、当然のように家督争いとなり、北川殿は龍王丸を連れて小山城(焼津市)城主・長谷川正宣の元に逃れた。
嫡男龍王丸と、今川義忠の従兄弟で小鹿範頼の子・小鹿範満との家督争いであったが、堀越公方・足利政知や関東執事・上杉政憲までもが小鹿範満を推して、太田道灌が駿河へ出兵するなどした動きを見せた為、北川殿は9代将軍・足利義尚の申次衆であった父・伊勢盛定を頼った。
そして、伊勢盛時は父・伊勢盛定の代理として室町幕府の意向を受けて駿河へ下向。
室町幕府の命も受けた伊勢盛時の調停により、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓い、龍王丸が成人するまでは、小鹿範満に駿府館で家督を代行することになった。
このことが伊勢盛時(北条早雲)と、今川家との絆を強め、後の伊勢盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になったのだ。
この決着を受け、北川殿は龍王丸と共に斉藤氏居城・丸子城(静岡市)に移っている。
今川家の家督争いが収まると伊勢盛時は京へ戻った。

1479年、将軍・足利義政は龍王丸の今川家・家督継承を認めて本領を安堵する内書を発給。
しかし、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても、家督を代行していた小鹿範満は太田道灌の後ろ盾もあり、家督を返上しようとしなかった。

1481年に9代将軍・足利義尚の申次衆に就任。「伊勢新九郎盛時」の名が文書に現れるようになった。

1481年に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣・渡辺帯刀丞が伊勢盛時に金を貸したところ、翌年1482年には訴訟に至ったことが知られている。
この問題がどう決着したかは不明であるが、この借金問題が、のち京都から伊勢盛時が東国に居所を見つけた一因になった可能性も捨てきれない。
伊豆韮山の願成就院において自刃したとされていたが、実際は、明応4年(1495年)に宗瑞によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが近年の研究で明らかとなっている。
明応7年(1498年)8月、甲斐国(伊豆深根城とも)で伊勢宗瑞に捕捉され、自害した。
1486年、扇谷上杉家・上杉定正の画策で太田道灌が糟屋館(神奈川県伊勢原市)で暗殺されたため、家督を代行していた小鹿範満の権力基盤が弱体化したのを受けて、北川殿は伊勢盛時に助けを要請したようだ。
この頃(1485年?)、伊勢盛時(30歳?)は室町幕府の奉公衆・小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚し、1487年に嫡男・北条氏綱が生まれている。

1487年には奉公衆(将軍の親衛隊)となった。

そもそも室町幕府が奉公衆を編成した理由は、各国の支配を任せた「守護」が国内の武士を家臣に加えて勢力拡大することを阻止する為であった。
今川家とも関係深い葛山惟方や、伊勢盛時ら奉公衆になった武士は、守護と同じく「将軍の家臣」であるというプライドと独立心をもっていた。
戦に出陣するときは、将軍から直接に出陣命令を受けた上で、守護の軍事指揮下に入って戦闘に加わっていたのだ。

同じ年の1487年、伊勢盛時は再び駿河へ下向して、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。
1487年11月、兵を集めた伊勢盛時は駿河館を襲撃。小鹿範満は弟・小鹿孫五郎と共に防戦するが叶わず自害した。
これにより、龍王丸は駿河館に入って2年後に元服して今川氏親と名乗り、今川家の当主になった。
この時、北川殿は、駿府館付近の阿部川支流である「北川沿い」に別荘を建て移り住んだため、北川殿と呼ばれるようになったのだ。

伊勢盛時(北條早雲)は今川氏親を支援する為、京に戻らず、今川氏親の家臣となったようで、伊勢盛時は富士下方12郷と興国寺城が与えられ、伊勢盛時は興国寺城主となった。

興国寺城の本丸

この興国寺城が、伊勢盛時(北条早雲)が伊豆、そして相模へと進出する起点となる。

伊豆の平定

室町幕府8代将・軍足利義政が対立を深めていた古河公方への対抗策として、幕府から正式な公方として鎌倉公方を送り込んだのだが、鎌倉に入れず、伊豆の堀越(静岡県伊豆の国市)に本拠を構え「堀越公方」と称されたていた。
しかし、応仁の乱以降、幕府の権力は衰退し、堀越公方は、伊豆の単なる領主と化していた。

伊勢盛時(北條早雲)が興国寺城主となったあと、1489年には次男・北条氏時が誕生。
しかし、伊豆では堀越公方の家督争いが起こった。
後継には堀越公方初代の足利政知の次男・潤童子が選ばれていたが、素行不良として土牢に閉じ込められていた異母兄の長男・茶々丸が、1491年7月に牢番を殺して脱獄。
茶々丸は潤童子と潤童子の母・円満院を殺害して、2代目の堀越公方を名乗った。
しかし、筆頭家老で韮山城主・外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅するなどして、旧臣の支持を失い、伊豆国は内紛状態となった。

この事態に、伊勢盛時は1493年の夏~秋頃、11代将軍・足利義澄の茶々丸討伐命を取り付けて伊豆に侵攻した。
扇谷上杉家・上杉定正が、手引したとの見方も強い。いずれにせよ、この伊豆討入りが戦国時代の幕開けとされる。
1493年には4男・北条長綱(北条幻庵)が誕生したと考えられるが、1493年4月に管領・細川政元が起こした明応の政変に連動した動きでもあったようだ。
この伊豆攻めには、今川氏親も葛山城主・葛山春吉らを援軍に出して助けており、今川氏親と伊勢盛時は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行っていくのである。

従来の説によると、足利茶々丸は 伊豆韮山の願成就院において自刃したとされていたが、実際には堀越御所から逃亡するも、関戸氏、狩野氏、土肥氏らの協力を得て、数年に渡り伊勢盛時に抵抗した。
1495年、伊勢盛時によって伊豆国から追放されて、山内上杉氏や武田氏を頼ってからも、伊豆奪回の機会を狙っていたことが明らかになっている。

伊勢盛時は居城を韮山城(現伊豆の国市)に移すと、伊豆の統治を開始。

韮山城

領内に高札を立てて「味方に参じれば本領を安堵する」と約束する一方で「参じなければ作物を荒らして住居を破壊する」と布告。しかし、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施した。
当時はどこの国の領民も重税にあえいでおり、五公五民なら仁政と言われ、七公三民という酷税も珍しくなかったという。
伊勢盛時は重い税制を廃して「四公六民」の租税を定めると領民は歓喜し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち伊勢盛時に従い、雲見の高橋将監、妻良の村田市之助、田子の山本太郎左衛門尉などが伊勢盛時の家臣に加わった。

1495年には、逃亡している茶々丸を捜索すると言う名目で、甲斐に攻め込み、甲斐守護・武田信縄と戦った。
伊勢盛時が動員できた兵力は2000位で、茶々丸方を徐々に追い込み、1497年、最後まで抵抗した関戸吉信の深根城(下田市)も、ついに陥落。関戸吉信の妻・尉奈の前(じょうなのまえ/上杉憲実の娘)も自刃して夫の後を追い、城に籠った約700人を皆殺しにして武力を示し、約5年掛かって伊豆を平定した。
足利茶々丸は1498年8月、甲斐国(伊豆深根城とも?)で、伊勢盛時に捕捉されて自害した。

この1498年8月25日の朝8時頃には、推定 M8.5 の明応の大地震(明応地震)が発生。西伊豆や沼津などでは10m~30mの大津波が発生し、被害は甚大となった。
この地震で、淡水湖だった浜名湖は、津波により海岸線がえぐられて、太平洋と繋がったとされる。鎌倉でも高徳院の大仏殿が津波により破壊された地震だ。

伊勢盛時は、大地震の復興と共に、伊豆平定を進めていた一方で、1494年頃からは今川氏親の遠江侵攻へも兵を割くなど、忙しく行動しており、遠江中部まで今川家の勢力下に収めている。
更に、伊豆平定の事業と並行して、相模国への進出も図るだけでなく、伊勢盛時は兵を進めて1501年~1504年には、三河・岩津城の松平長親を攻めているほか、1501年9月には、甲斐・都留郡にも出兵して吉田城山を攻撃するなど、郡内領主の小山田弥太郎や、甲斐守護の武田信縄と戦っているが、ここで、小田原城奪取の話を進めたい。

小田原城奪取

今川氏親が、伊勢盛時の尽力もあり家督を得たころ、関東では山内上杉家の鉢形城主・上杉顕定(関東管領)、扇谷上杉家の河越城主・上杉定正とが争う「長享の乱」が勃発していた。
堀越公方を支援していた山内上杉家に対して、扇谷上杉家は伊勢盛時に急接近していた。

そんな中、1494年、扇谷上杉家・上杉定正の家臣として相模国の西を支配していた小田原城主・大森氏頼が8月16日になくなり、相模国の東を支配していた三崎城主・三浦時高も9月23日に亡くなると、大森家も三浦家も家督を巡って内紛状態に陥った。
この混乱に乗じて出陣した山内上杉家・上杉顕定(鉢形城)に対抗するべく、扇谷上杉家・上杉定正は伊勢盛時の軍勢も加えて、1494年10月、武蔵国・高見原で山内顕定と対陣(高見原の戦い)となったが。
荒川を渡河しようとした際に、上杉定正は落馬して死去。享年49。
太田道灌の亡霊が定正を落馬させたのだとする伝説がある。
扇谷上杉家は養子の上杉朝良が継承したが、古河公方・足利成氏が上杉顕定側に支持を変えるなど、勢力衰退へと向かった。

そして、これまでの定説だと1495年に北条早雲が謀略をもって大森氏を継いだ大森藤頼から小田原城を奪ったと、長年言われてきた。
しかし、この手の城奪取の物語は、織田信秀の那古野城奪取、尼子経久月山富田城奪取、竹中半兵衛稲葉山城奪取など、多数あり、伊勢盛時の小田原城奪取も、策士であることを誇張する為の架空の作り話と考えられている。

実際、翌年にあたる1496年に、上杉顕定は足利政氏と連合して相模に侵攻した際、扇谷上杉側の長尾景春・大森藤頼や、援軍の伊勢盛時と戦った。
この時の上杉顕定の手紙には、小田原城には、城主・大森藤頼と、増援の伊勢盛時(北条早雲)の弟・伊勢弥次郎が、小田原城に入ったが、小田原城を攻め落としたとあるのだ。
すなわち、北条早雲が小田原城を奪ったとする時期には、大森藤頼が未だに小田原城主であり、逆に北条早雲が盟友として大森藤頼を救援している。

その後、大森藤頼は1498年に没したとも言われているが、伊勢盛時の子・北条幻庵が、大森氏から箱根権現別当の地位を譲られている事もあるが、伊勢盛時が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が、1501年3月28日と記載されており、この1501年の時点では、伊勢盛時が小田原城を所有していたと考えられる。
下記は小田原駅・西口にある北条早雲の銅像。

北条早雲の銅像

私の考えとしては、相模国の守護は、扇谷上杉家・上杉朝良であることから、伊豆国を平定した伊勢盛時の実力を、上杉朝良は高く評価し、これまでの伊勢盛時への功績への報いと今後の支援も期待して、上杉朝良は伊勢盛時が大森氏の小田原城を占拠する事を許し、事実上、伊勢盛時に小田原城を与えたのではないかと推測する。
このように、上杉朝良は伊勢盛時の軍事支援を頼む形で、小田原城を与えたのだろう。
事実、伊勢盛時の軍事的支援を受けた上杉朝良は、上杉顕定に奪われていた相模の諸城を取り戻している。

立河原の戦い

そして、長く続いた享徳の乱も、1504年の立河原の戦いで決着がつくのである。
1504年8月22日、山内上杉家・上杉顕定は上杉朝良の拠点・河越城への攻撃を開始。

これに、扇谷上杉家の上杉朝良は伊勢盛時(北条早雲)と、今川氏親に援軍を求める一方で、河越城を堅く守り続けた為、上杉顕定は江戸城を攻撃しようとして9月6日に軍を進めた。
小田原城を出発した伊勢盛時は9月6日に江の島に到達。9月11日には今川氏親が駿府を出発し、更に2日後には遠江にいた今川重臣・朝比奈泰熙と福島助春も関東へ出発した。
この伊勢盛時と今川家の動きを知って、上杉朝良は白子に留まって様子を見るとともに、大森顕定(大森式部大輔)に書状を送り、甲斐守護・武田信縄へ援軍要請するよう指示している。
 
※この大森顕定(大森式部大輔)は、小田原城主だった大森一族(または同一人物?)と考えられるが、この戦いの時点では扇谷上杉家・上杉朝良に転向して世話になっていたものと推測される。
武田信縄に援軍要請するよう頼まれたが、自ら援軍を出すようには言われていないので、既に軍事力を失って、客将扱いだったものと推定できる。(甲斐の武田信縄のもとで庇護されたいた可能性もある)
 
9月20日、伊勢盛時の軍勢は武蔵・枡形城(神奈川県川崎市多摩区)に入りしばらく滞在。翌日には今川氏親も入ったのを受けて、様子を見ていた上杉顕定・古賀公方らは兵を南に進め、河越城の上杉朝良も、伊勢盛時・今川氏親にに合流した。
9月27日に朝に枡形城の扇谷上杉勢は動き出し、多摩川を渡河して、立河原に上陸。これを知った上杉顕定・古賀公方らは立河原に駆けつけて両軍睨みあいとなった。
そして、ついに、正午頃より合戦が始まり、夕方まで戦いは続いた。

長野房兼・長尾房清らが戦死するなど、山内上杉勢は、約2000と言う、当時にしては多数の戦死者を出し、上杉顕定は命からがら鉢形城に敗走した。
今川氏親と伊勢盛時らは10月4日には鎌倉に引き揚げ、熱海温泉でともに静養した後、韮山城で戦死者のための法要を行っている。

立河原の戦いでは、伊勢盛時らの支援もあり大勝利した扇谷上杉家・上杉朝良であったが、、実力に勝る山内上杉家・上杉顕定は実家の越後上杉家の援軍を受けて反撃に出て、翌1505年には上杉朝良の河越城を降伏させ、上杉朝良の江戸城隠居を条件に和睦。長享の乱は終結した。

こうした事態にも関わらず、伊勢宗瑞は扇谷上杉家・上杉朝良からの軍事協力の要請を大義名分として相模国の統一を目指し、扇谷上杉家の支配下だった相模の各地は伊勢盛時が勢力を伸ばしていった。

なお、1495年の史料では伊勢新九郎の名ではなく「早雲庵宗瑞」と法名で見受けられ、この時期までに伊勢盛時は出家したようだ。

三浦氏を討ち滅ぼし相模国平定

1505年頃、従一位・権大納言の公卿である中御門宣胤の娘が、今川氏親にの正室となった。のち、駿河の女将軍とも、尼将軍とも呼ばれた「寿桂尼(じゅけいに)」で、今川氏輝、今川義元の母である。
1506年に、伊勢時盛は小田原周辺で検地を実施。戦国大名による検地としては最初の例となる。
1506年~1508年)には、再び伊勢盛時が率いた今川軍が三河へ侵攻して、松平長親(松平長忠)と戦ったが敗れている。
1508年に、今川家は正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じらた。
しかし、1509年以降、54歳になった伊勢盛時が今川家の武将として出陣することが無くなっている。

すなわち、伊勢盛時は、政治的に今川家から独立して本格的に相模国への進出を図ったようだ。
 
北条早雲(北條早雲)の2男・北条氏時は、葛山維貞の娘を娶って、葛山維貞の養子となり葛山城主・葛山氏時(葛山備中守氏時)を名乗った。
この葛山氏と言えば、のち武田信玄の家臣として活躍する山本勘助の山本家が葛山氏の家臣であった事でも知られる。
 
葛山維貞の娘は、郡内の小山田信長の長男・小山田信隆(小山田弥太郎)の正室になっていたので、伊勢盛時(北条早雲)と郡内・小山田氏は縁続きとなっていた。
その憂いもあり、油川信恵に組して小山田信隆(小山田弥太郎)は武田氏に反旗を翻したが、武田信虎(武田信玄の父)に敗れて、1508年討死した。
この時、小山田信隆(小山田弥太郎)の子である小山田越中守信有(小山田平三)は、韮山城の伊勢盛時(北条早雲)の元に一時逃げた。
その後、1510年、武田信虎の攻撃に降伏した、小山田越中守信有(小山田平三)は武田信虎は妹と結婚し、以後、小山田家は武田信玄の時代まで、武田氏に協力した。

なお、北条氏時(葛山氏時)に関する資料は極めて少なく、よくわからない部分も多いが、1529年の書状では相模・玉縄城主である事が伺え、父・伊勢盛時の相模平定の戦にも積極的に参加していたと考えられる。
しかし、北条早雲の3男・北条氏広も、葛山氏の娘と結婚し、葛山氏の養子となり、葛山氏広と名乗ったとされ、のちの葛山氏の系統はこの北条氏広(葛山氏広)から出ているので、付け加えておく。

関東では1507年、上杉顕定の養子・上杉憲房と、隠居していた上杉朝良の妹の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活。
しかし、上杉顕定の片腕とも言える弟の越後守護・上杉房能が、守護代・長尾為景(上杉謙信の父)らが擁する上条定実軍に追われて自害。

1509年7月、上杉顕定が尾為景討伐の大軍を率いて越後へ出陣したのを受けて、1509年8月、伊勢盛時はこの隙を突いて扇谷・上杉朝良を牽制するため出陣した。
扇谷上杉家の上田政盛を寝返らせ、権現山城主として配置し、権現山城を改修した。
1510年、越後に出陣していた上杉顕定は、返り討ちに合い、越後守護・長尾為景(上杉謙信の実父)に討たれた。

北条早雲と同じように下剋上として、山内上杉家の筆頭家老だった長尾景春は、上杉憲房を破って白井城を奪い、北条早雲(伊勢盛時)と同盟を結ぶ。

そして、伊勢盛時(北條早雲)が扇谷上杉家の上田政盛に対して調略した事が発覚すると、上杉朝良は、山内上杉家を継いだ上杉憲房と和解。
関東で争っていた山内上杉家と扇谷上杉朝良は「このまま対立していては、伊勢盛時にやられる」と気付き始めたと考えられる。
上杉朝良は上杉憲房の援軍(成田親泰・藤田虎寿丸・大石顕重・長尾景長ら)を得て、権現山城(横浜市神奈川区の幸ヶ谷公園)へ軍を向かわせた。
伊勢盛時は今川氏親・長尾景春らからの援兵を権現山城へ入れ、伊勢盛時自らは日吉要害に後詰した。
上杉朝良勢は、伊勢盛時の攻撃をも退け、7月11日から19日間掛けて攻撃し落城させた。上田政盛は討死とも、伊勢盛時を頼って逃亡とも伝わる。

これを契機に、三浦義同(三浦道寸)が、伊勢盛時側の住吉要害(平塚市)を攻略して、小田原城まで迫り伊勢盛時を追い詰めたが、伊勢盛時は扇谷上杉朝良と和睦する外交手段にて窮地を脱し、三浦道寸は兵を引き上げている。
結果的に三浦氏はこれが命取りとなった。
伊勢盛時も、この時ばかりは手痛い敗北を喫したのだ。 

山内上杉家と扇谷上杉家の両家の攻略よりも、まずは相模を平定と伊勢盛時は考えを変えて、三浦氏を滅ぼす事を優先させた。

1512年8月、伊勢盛時は、古賀公方・山内上杉の内紛に乗じて、三浦義同(三浦道寸)の本拠地であった岡崎城(伊勢原市)を急襲し落城させた。

相模・岡崎城

大庭城も攻略し、三浦道寸は岡崎城から弟・三浦道香が守る逗子小坪の住吉城に逃れ抵抗した。
住吉城は天然の要害であった為すぐには落ちず、伊勢盛時は住吉城や三浦半島を牽制する備えと、三浦氏と扇谷上杉氏の経路を絶つ為、1512年10月には大船に玉縄城の普請を開始し、次男の伊勢氏時を置いた。
そして翌年1513年1月まで両軍の小競り合いが鎌倉や藤沢などで頻発した。いわゆる「鎌倉合戦」である。
鎌倉時代以来の名刹古刹は南北朝内乱期の戦火で大半が失われていたが、この戦いで僅かに残されていた寺社も失われた。

その後、三浦道香が討死し住吉城も落城すると、三浦道寸らは更に逃れて、新井城・三崎城に立て籠り扇谷上杉朝良に援軍を要請した。
太田道灌の子で三浦道寸の娘婿である太田資康が扇谷上杉勢を率いて援軍に来たが伊勢勢に撃退され9月29日討死すると、新井城にて三浦道寸・三浦義意は2000の兵で篭城した
伊勢盛時は鎌倉に入り、相模国において三浦以外の在地諸豪を支配下に置くことに成功し、この頃までに相模北部の津久井城までも、伊勢盛時の支配地となったのである。
この間、伊勢盛時は新井城を攻めるものの、海に突き出た要塞堅固な新井城を力攻めするのは不利と新井城を包囲する作戦に出る。
そして、約3年の長い間、三浦道寸らは新井城を伊勢勢に囲まれると言う苦しい生活をした。
 
再三の要請に扇谷・上杉朝良は1516年7月に救出軍を江戸城から三浦半島に派遣する。あくまでも相模守護の権利は扇谷上杉家が有していたゆえである。

伊勢新九郎は新井城の囲みに2000を残し、玉縄城の北へ4000~5000を配置し、玉縄城へ迫った救出軍を撃退した。
三浦道寸は家臣の大森越後守、佐保田河内守らから上総に逃れ再起を図ることを進言されたが拒否。
城を討って出る事を決意し「落ちんと思う者あらば落ちよ。死せんと思う者は討死にして後世に名を留めよ」と言い、その夜酒宴を催した。
この切羽詰った状況でも城から逃げる者1人もおらず、翌日7月11日、城門を開いて敵陣に突入。
死を覚悟した新井城兵の勢いは凄まじく、伊勢盛時軍は神谷雅楽頭が討死するなど一時ひるんだが、圧倒的兵力に勝る勢力で押し戻し、三浦勢は疲れ果て新井城に戻ると思い思いに切腹した。
三浦道寸も三浦義意の勧めで切腹したと言う。(討死とも?) 

新井城(荒井城)

三浦義意は父の切腹を見届けた後に敵中に突撃して21歳の若さで討死し、ここに450年三浦を治めた名門・三浦氏は滅びた。
新井城落城の際には、討死した三浦家家臣たち血によって湾一面の海が血に染まり「油を流したような様」になったことから、同湾は「油壺」と以後呼ばれたとされている。

こうして激戦の末、三浦義同・三浦義意父子は討死にし、伊勢盛時(北条早雲)61歳は相模全域を平定した。
 
相模を統一したのもつかの間、伊勢盛時は相模の国人衆を傘下に加え、伊豆や相模の水軍を確保し、上総の真里谷・武田氏を支援するため、海路で房総半島に渡り、1517年まで転戦した。

伊勢盛時は、1518年に家督を嫡男・北条氏綱に譲り、翌1519年に韮山城で死去した。享年は64。
北条氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建している。

なお、北条早雲が没した同じ年に今川義元が誕生し、その2年後には武田信玄も生まれ、また新たな名将伝説が築かれて行くのである。

早雲寺
 
北条早雲(伊勢新九郎、伊勢盛時、伊勢宗瑞)は、軍事力を全く持たないところから、駿河東部から伊豆・相模と領土を一代でこれだけ拡大した功績はスゴイ。
検地を最初に行ったり、東国で初となった分国法を定めた他、、国の主体は農民であるという信念に基づき善政を敷した。
北条早雲が残したと伝わる家訓・早雲寺殿廿一箇条の中に「上下万民に対し、一言半句であっても嘘を言ってはならない」とある。
これら優れた北条早雲の内政を代々北条家は遵守し、豊臣秀吉の20万の大軍にて小田原攻めさせるまで、戦国時代の中で唯一といっていい程、北条家中で家臣・領民の大きな争いがなかったことからも伺える。

韮山の堀越公方館跡の訪問記

伊勢盛時(北条早雲、伊勢宗瑞)が、伊豆へ侵攻し、戦国時代の幕開けとなった地である、伝堀越公方館跡を訪問して参りました。

伝堀越公方館跡

守山の北側にある麓一帯が堀越御所跡と言う事て、国指定史跡となっています。
しかし、写真の通り、特に何もありません。
下記の丘は守山です。

伊豆韮山の守山

下記のように、この付近は鎌倉幕府執権の北条家に関する史跡が集中しています。

守山周辺の地図

下記の地図はその堀越御所跡の案内板が設置されているポイントです。
フェンスの前に、車2台ほど止められるスペースがありますが、道路は狭く住民の方の迷惑となりますので、くれぐれも無茶な止め方はしないようお願い申し上げます。

ちなみに、上記の地図ポイント地点から、南の守山に伸びている道を進んだ行き止まりには、北条政子の産湯井戸が現存します。
守山の西側(狩野川沿い)は、かつて、北条時政源頼朝に協力して共に挙兵した際の、北条家屋敷跡とされていますので、セットで訪問なさってみて下さい。

下記写真は、近くの願成就院にある「茶々丸の墓」です。
丁重にお参りさせて頂きました。

茶々丸の墓

願成就院に関しては「韮山の北条家ゆかりの地への訪問記」にて触れていますので、合わせてご覧願えますと幸いです。

北条五代を大河ドラマに

今川氏親と北川殿~今川家の危機を乗り越え遠江を手中に収めた絆は強し
興国寺城~巨大な堀切と高い土塁に囲まれたココから戦国時代が幕を開けた
葛山城と北条氏や武田氏にも深くかかわった葛山氏一族の栄華
北条氏規と韮山城~激戦を物語る煙硝曲輪などの韮山城訪問記
早雲寺~北条5代の墓がある北条家菩提寺【箱根湯本】
北条幻庵~実は文武両道の名将である北条家の長老と北条幻庵屋敷跡
三浦道寸(三浦義同)~三浦義同と三浦氏
三浦道寸と相模・岡崎城の遺構~岡崎四郎義実の墓
小田原城とは~戦国時代の北条家遺構と総構え、江戸時代の遺構 訪問記
箱根神社と箱根権現~関東屈指のパワースポットで開運UP
伊豆韮山の北条家関連や源頼朝・北条政子の史跡巡り駐車場情報など

 

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コメント

    • pandama
    • 2016年 3月 21日

    大変読み応えある記事堪能しました。ありがとうございます?

    • 高田哲也
    • 2016年 3月 21日

    pandamaさま、ご覧頂きまして、誠にありがとうございました。御礼申し上げます。

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