葛山氏広 葛山氏元 葛山信貞 葛山氏一族の栄華

葛山氏とは

葛山氏(かつらやまし)は、駿河・駿河郡の古い土豪である駿河大森氏の庶流となります。
甲駿の国司(行政官)となっており、石橋山の戦いでも源頼朝に味方した鎌倉幕府の御家人としては、1189年に奥州討伐に参加している葛山惟重がおります。
1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)では、討死した武将に、葛山広重・葛山家重と言う名があり、駿河葛山氏の祖ともされています。
また、宇治合戦では葛山惟宗が敵将1人を討ち取ったとあります。


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その後、葛山景倫(かずらやま-かげとも、葛山五郎景倫)と言う御家人が3代将軍・源実朝の命にて、宋に渡る予定でしたが、渡航直前で源実朝が公暁によって暗殺されてしまう事件が起こります。
この時、葛山景倫は宋へ渡航するため、紀伊の由良荘(和歌山県)へ出向いていたともされ、悲報を聞くと菩提を弔う為に高野山に入りました。
そして、真言宗・禅定院の退耕行勇(たいこう-ぎょうゆう)のもとで出家し「願性」(がんしょう)と称していますので、葛山景倫は願性と言う名の方が良く知れ渡ります。
この退耕行勇は相模出身の僧で鎌倉寿福寺で修行したあと、源実朝の菩提を弔うための高野山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)を開いたと言う高僧でもあります。

のち、願性(葛山景倫)は、北条政子より忠誠心を称えられ、紀伊・由良荘の地頭職を授かり、引き続き源実朝の菩提を弔うと、のち高野山・金剛三昧院の別当になりました。
1227年には、所領の由良に西方寺(のちの興国寺)も創建しましたが、1263年(建治(けんじ)2年)4月23日に願性(葛山景倫)は死去しています。

ちなみに、創建した西方寺は、宋から日本に戻った心地覚心と、親交もあった事から1258年に住職に迎えています。
その弟子のひとりである虚竹禅師(寄竹)が宋から持ち込んだのが「尺八」で、演奏も得意だったことから、日本に尺八が広まったと言われています。
また、宋から味噌の製法が伝わり、醤油が誕生する発端となったのも西方寺(のちの興国寺)です。

1351年には、葛山惟春が新田義貞に協力して鎌倉を攻めました。


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葛山氏は庶流も多いので、どの一族かは詳しく調べる必要がありますが、鎌倉幕府の末期には執権・北条家の家臣として高い地位にあり、室町幕府の時には奉公衆(将軍の直臣)にも名を連ねています。葛山兵庫助、葛山源次六と言う名も出てきます。

葛山備中守と代々称している千福城の葛山家も葛山一族と考えられますが、足利政知が堀越公方として伊豆・韮山に入ると、葛山備中守春吉が堀越公方の影響下となります。
この葛山春吉は葛山氏堯と同一人物とも考えられており、1489年に伊勢長氏(北条早雲)を娘婿に迎えたともありますが、この部分は更なる調査が求められそうです。
実際には、側室として葛山館主・葛山推方の娘(善修寺殿)が、北条早雲に嫁いだと考えるのが妥当なような気がいたします。
そして、興国寺主・伊勢新九郎(伊勢宗瑞、北条早雲)が堀越公方を滅ぼす際に、今川氏親が援軍を出していますが、その中に葛山春吉や葛山推方・葛山推貞もいたようで、以後、葛山氏は北条早雲の伊豆・相模平定にも協力することになりました。
これは、戦国大名になるべく駆け出した北条早雲にとって、最初の頃の有力な支援者だったのが葛山氏と言う事になり、葛山推方の娘は、のち小田原・北条氏を5代・北条氏直(北條氏直)まで全ての当主を支えた北条幻庵を1493年に生んでいます。
1503年には北条早雲に従って、籠坂峠の戦い(梨木平の戦い)に小山田勢と戦い、葛山孫四郎が籠坂の南麓・梨木平にて亡くなったほか、1514年には今川氏親の求めに応じて、朝比奈氏・庵原氏・福島氏らと甲斐に出陣もしていますが、葛山家は北条家から次第に今川家の圧迫も受けていたようです。
しかし、郡内・小山田氏のように独立性も主張する領主(半独立)だったようにも感じとれ、北条・今川・武田に挟まれていると言う厳しい舵取りを強いられていたとも感じます。

葛山氏広とは

葛山氏広(かつらやま-うじひろ)は、その北条幻庵の弟?、又は・北条氏時の子など諸説ありますが、葛山推方の娘が産んだ男子であるとも言われており、のち葛山城主・葛山春吉の養子となって1516年に葛山家の家督を継ぎました。

また、諸説あり、伊勢新九郎(北条早雲)の2男である北条氏時(北條氏時)が、葛山維貞の養子となり葛山備中守氏時と名乗ったともあるほか、北条氏時が養子になって葛山氏尭と名乗ったともあり、不明な点が多いです。

葛山氏広としては、1524年1月に、家臣の関孫九郎に対して所領を与える書状が初見です。
しかし、1519年に北条早雲が没したあと、今川氏親に押されて葛山氏は今川家に臣従しており、駿府・今川館近くには葛山氏広も屋敷を与えられていました。


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1526年には、北条氏綱に従うと籠坂峠の戦いにて、武田信虎と戦ったようですが、この前後に養子の葛山氏広が北条氏綱の娘「ちよ」を迎えたようです。

その後、今川義元の代となり、甲斐の武田信虎と甲駿同盟が成立します。
これを元今川家臣の北条綱成が1536年2月下旬に駿東に侵攻し「河東の乱」(かとうのらん)となりますが、今川家の元家臣と言う立場でもあった小田原城主・北条氏綱は、その主従関係からの脱却を図ったと言えるでしょう。
この時も、葛山氏広は北条氏綱に協力していますが、1538年9月には病が重くなっていたようで、1539年4月までの間に死去しました。

その為、葛山貞氏の子である葛山氏元が葛山氏広の養子となり家督を継ぎます。

葛山氏

葛山氏元とは

葛山氏元(かつらやま-うじもと)は1520年生まれで、前述のとおり葛山貞氏の子でしたが、葛山氏広の養子となりました。

先の記述どおり葛山氏元(葛山備中守氏元)の正室として、北条氏綱の娘である「ちよ」が葛山館に入っています。

1536年、花倉の乱では、今川義元に協力したため、18貫文の加増を受けています。

1545年7月、北条長綱(北条幻庵)や清水康英が守備する長久保城を今川義元が攻めた際には、葛山氏元も北条勢として戦いました。
しかし、河越城の戦いにて苦境に陥った北条氏綱は、武田晴信(武田信玄)の仲介を受けて長久保城を今川家に明け渡す判断をし、駿東からの撤退を決めます。
すると宙に浮いた葛山氏は、再び今川氏に臣従しました。


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1546年には、後藤修理助に対して葛山氏元が沢田郷(沼津市沢田)の安堵状を出しています。
なお、植松藤太郎、植松京亮、町田郷左衛門、町田甚十郎、橋本内三、富永河内守ら葛山家臣の名も見られる。

なお、1553年には葛山綱春と言う武将が要害を構えたともありますが、こちらは葛山備中守春吉の系列と推測致します。

1559年、今川義元が織田信長攻略の為、尾張に笠寺砦を築くと、葛山備中守勝善と葛山播磨守信貞が守将となったとありますが、葛山播磨守信貞は別の人物だった可能性も否定できません。+

1560年5月、桶狭間の戦いにて、葛山氏元・葛山元信・葛山勝吉らは5000を率いて清洲城方面に進出していましたが、今川義元が倒れます。
桶狭間の戦いでは、葛山長嘉(葛山播磨守長嘉、葛山長義、葛山長吉)と言う、今川軍の後陣旗頭であった武将と、葛山元清(葛山安房守元清)も討死したようです。

その後、今川氏真と武田信玄の関係が悪化し、1567年には今川氏真の命にて甲斐への塩止めを行いました。
葛山氏元は竹之下の鈴木若狭守、神山の武藤新左衛門尉、ぐみ沢の芹澤玄蕃允に対して8月17日に塩留の指示を出しています。


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1568年12月6日に武田勢が駿河へ侵攻を開始し、今川氏真は掛川城へと逃れ、駿府は武田家が占拠しました。
この時、武田から調略を受けていた瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡ら21名の今川家臣の中に、葛山氏元の名もあります。

そして、1569年2月1日には、穴山信君と共に駿河・大宮城を攻めましたが、北条氏康の援軍もあり富士信忠に撃退されています。
また、正確な時期は不明ですが、武田信玄が蒲原城を攻撃した際にも葛山氏元が先鋒を務めています。
この時、北条勢は背後を襲って興国寺城、葛山城、深沢城などを奪っており、葛山氏元らは所領を失い甲斐へと落ち延びました。

その後、7月に武田信玄が大軍を率いて御殿場から駿河へ入ると、深沢城は落とせませんでしたが、大宮城を開城させて甲斐へと戻っています。
そして、北条氏康の目を駿河ではなく関東の防衛に注目させるため、武田信玄は9月に碓氷峠を越えて関東へ侵攻し、10月1日には小田原城を包囲します。
こうして、10月8日には三増峠の戦いとなった訳です。

甲斐に戻った武田信玄は、すかさず再び駿河侵攻を行い蒲原城は落城させて年を越すと、1570年1月に花沢城と、徳一色城(駿河・田中城)を落城させています。
駿府を掌握しますが、興国寺城などは依然として北条家の支配下でした。
8月には興国寺城と韮山城を攻撃するも落とせず、再び、1570年12月、武田信玄は興国寺城を抑えて、深沢城を包囲すると、1571年1月16日に深沢城主・北条綱成が降伏し、駿東から北条家は撤退することになりました。
これ以降、北条家の防衛ラインは、垪和氏続を興国寺城に入れて吐出する形で、韮山城、山中城足柄城河村城となっています。


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その時、葛山城も武田の支配下となったようで葛山領が葛山氏元に戻されたようです。
ただし、葛山氏元は葛山城に入ることなく甲斐に置かれたようで、武田信玄は六男・武田信貞を葛山氏元の次女・おふちと結婚させて、婿養子として送り、葛山家の名跡を継がせました。
これは、諏訪家には武田勝頼、仁科家には仁科盛信を入れたのと同じですので、葛山家もそれだけ重要視されている家柄・土地柄であったと言う事だと言えます。

また、他の話では、葛山氏元が武田に臣従した際に、娘2人が武田の人質となっており、そのうちの長女?が「葛山姓を残したい」武田信玄に訴えたことから、実子に跡を継がせる事にしたと言うような逸話もありますが、真偽のほどは不明です。

葛山信貞とは

葛山信貞(かつらやま-のぶさだ)は、前述のとおり武田信玄の6男とされており、母は側室の油川夫人とされています。
生年は不明ですが、1559年にて既に生まれていたようで、その1559年生まれと仮定すると、葛山家の家督を継いだ時は僅か12歳となります。

その為か、葛山領にて発給されている文書の多くも武田信玄の名で出されており、葛山城代としては、葛山一族で前から武田家に仕えていた御宿友綱(みしゅく-ともつな、御宿監物)が陣代(後見人)として入っていたと考えられています。

なお、先代・葛山氏元の方はこの処遇に不満を持っていたようで、1573年頃に謀反の疑いを掛けられて幽閉先の諏訪にて処刑されたと伝わります。

武田勝頼の代になっても、葛山領では武田勝頼の判物が多く、1577年の葛山勢は陣代として御宿友綱が率いているため、葛山信貞は引き続き甲斐に滞在していたと推定されています。

しかし、甲陽軍鑑では、葛山信貞は御親類衆として120騎とありますので、相当な軍勢を誇っていますし、恵林寺での武田信玄の葬儀の際には、仁科盛信に次いで3番目に名があり、位牌を持ったとされています。

そんな葛山信貞でしたが、1582年、織田信忠の軍勢が甲斐へ侵攻すると、甲斐・善光寺にて自刃して果て、葛山氏は滅亡しました。(小山田信茂と一緒に処刑されたともあります。)
1559年生まれだと仮定すると、享年24となります。


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以上、葛山氏についても不明瞭な点が多く、今後の研究で新たな発見が出て来る事を期待せずにいられません。
このように、葛山氏については、不明瞭な部分がありますので、このページに掲載されている事項はすべて確実と言う事ではありませんので、ご確認申し上げます。
現地の詳しい資料が手に入りましたので、改めて内容を検証し、加筆・修正を加える場合があります。

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