公暁(こうぎょう)とは~なんで源実朝を殺害したのか?わかりやすく解説(鎌倉殿の13人)

公暁(くぎょう)

公暁

公暁 (こうぎょう) は、鎌倉時代前期の僧侶で、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の次男(または3男)として1200年に生まれた。
<注釈> 公卿は「「こうきょう」「くぎょう」と呼ぶ場合もある。
幼名は善哉(ぜんざい)。
母は諸説あり、下記の通り。
足助荘の尾張・三河源氏である足助重長の娘(加茂重長の娘) 辻殿 ~吾妻鏡
比企能員の娘・若狭局 ~尊卑分脈
三浦義澄の娘 ~縣篤岐本・源氏系図
兄弟には源一幡、栄実、禅暁、竹御所がいる。

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、俳優の寛一郎さんが公暁を演じられる。


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源頼朝の死後、2代将軍になった父・源頼家は、北条時政らの有力御家人と対立し「十三人の合議制」が敷かれ、専制政治を有効に発揮できずにいた。
そんな折り、父・源頼家を支えていた比企能員が、1203年9月、比企能員の変にて滅亡し、長兄・源一幡も殺害された。
失脚した父・源頼家は鎌倉から追放されて伊豆・修禅寺に幽閉されると、箱湯(筥湯)での入浴中に、北条氏が放った刺客・金窪行親に暗殺されている。
こうして、源頼家の弟である源実朝が3代将軍に就任した。

血筋から行くと、兄が死去したため本来であれば公暁が次期将軍になってもおかしくはないのだが、この頃、善哉(公暁)はまだ5歳くらいだったため、どうすることもできなかった。

1206年、7歳になった善哉(公暁)は、祖母・北条政子の屋敷に移ると、乳母夫・三浦義村に付き添われ叔父である源実朝の猶子となった。
<注釈> 公暁の乳母は三浦義村の妻であり、三浦義村の子・駒若丸(三浦光村)はのちに公暁の門弟になっているが、この1206年頃に後見役として乳母夫に任命された可能性もある。
1211年、善哉は12歳のとき、鶴岡八幡宮の別当・定暁のもとで出家して僧侶になると公暁の法名を授けられた。
そして、上洛して園城寺にて公胤の門弟となり、源頼朝の3男である貞暁(ていぎょう)の弟子として修行している。
これらの配慮は北条政子の意向によるものとされ、1217年、鎌倉・鶴岡の3代別当・定暁が死去すると、18歳の公暁は鎌倉に戻り鶴岡八幡宮の別当に就任した。
<注釈> 別当(べっとう)と言うのは、その機関のトップと言う事なので、公暁はこの若さで鶴岡八幡宮で一番偉い人になったと言う事。

しかし、公暁は別当に就任したその日から、突然「一千日の参籠」を開始している。
すなわち、寺に籠って1000日連続で祈り始めたので、別当としての職務を放棄したとも言え、髪の毛もおろさなかったので不審に思う者もいたようだ。
1000日と言えば約3年間であり、何か大きな宿願を達成したいと言う固い決意があったのだろう。


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1218年、北条政子は熊野を参詣したあと京にて後鳥羽上皇の乳母の卿局・藤原兼子と会談。
このとき、源実朝の後継者としては後鳥羽上皇の皇子・頼仁親王を迎えると言う相談がなされたとされる。
またこの年、源実朝は武士としては初めて右大臣に昇格した。

源実朝を殺害

1219年1月27日、この日の鎌倉は大雪で約60cmの積雪があったと言う。
そんな中、多数の公卿や御家人らが列席し、源実朝の右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮にて行われた。
夜になりその帰り、鶴岡八幡宮の石段を下りた広場に、見送りの参列者の中に公卿もいた。
そして、公暁は源実朝を襲い「親の敵はかく討つぞ」と叫び頭を斬りつけ首を取った。享年28。
源実朝は、公家の正装である束帯の下に着用する下襲(したさがね)の裾を、後ろに長く引きながら歩いていたので、踏まれて転倒したところを討たれたと言う。
また、仲間の法師ら3~4名が、執権・北条義時と間違えて源仲章を斬っている。

北条義時は、この場にいなかったのだが、吾妻鏡によると、御所を出て八幡宮の楼門にところで北条義時は体調不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲ったとある。
愚管抄によると、北条義時は源実朝の命にて、太刀をもって中門に留まり同行しなかったとある。
儀式の際に、武装した兵はすべて鳥居の外にいたため、気が付かなかったと言う。

本懐を遂げた公暁は、源実朝の首を持ち、雪下北谷(ゆきのしたきたがのやつ)に住む後見人・備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の屋敷に入り食事を取ったがその時も首を離さずそばにおいていたと言う。
そして、乳母夫・三浦義村に使者を送って下記のように伝えた。
「将軍に欠員ができたので、我こそ関東の長の当たるのだから、早く計略を巡らせよ」
この知らせを受けた三浦義村は「迎えの使者を送ります」と返答した一方で、このことを北条義時に報告した。

北条義時は公暁を誅殺する判断を行い、三浦義村に「阿闍梨(公暁)を誅し奉るべし」と命じらので、三浦氏は家来で勇敢の器と称される長尾定景と5名の郎党を差し向けている。
三浦義村がなかなか来ないので、待ちきれなくなった公暁は、備中阿闍梨の屋敷を出て鶴岡八幡宮の裏山・大臣山(だいじんやま)に登ったところで討手に遭遇する。
そして、三浦義村宅の塀を乗り越えようとした所で公暁は殺害された。享年20。

公暁の首は、三浦義村によって運ばれ北条義時が首実検が行ったと言う。
その後の公暁の墓などは不明だが、これで鎌倉幕府における源氏の正統は途絶えた。

公暁が挙げていた源実朝の首は、鎌倉幕府としては行方不明扱いとなっており、首の代わりに髪を胴と共を入棺して、勝長寿院に葬られた。
<注釈> 愚管抄によると岡山の雪の中から源実朝の首が発見されたともある。
なお、一説によると公暁に向けられ刺客のひとりである武常晴(たけ-つねはる)が源実朝の首を持ち去り、波多野氏を頼ると、源実朝の首塚として供養したと言う。


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鎌倉幕府の4代将軍からは、京都の貴族が呼ばれてお飾りの将軍となり、執権である北条氏が幕府を統治して行った。

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