北条義時とは 鎌倉幕府の第2代執権の生涯

北条義時




北条義時(ほうじょう-よしとき)は、北条時政の次男として、平安時代の末期である1163年に、伊豆にて生まれました。
母は正室である伊東祐親の娘です。
幼名は江馬小四郎。
兄に北条宗時、姉に北条政子がおり、弟に北条時房、北条政範、阿波局、北条時子などがいます。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では北条義時が主役で、俳優の小栗旬さんが演じられます。


北条義時が生まれた時、伊豆には流罪となっていた源頼朝は17歳に成長していました。
蛭ヶ小島(ひるがこじま)にて生活していた源頼朝は、安達盛長・河越重頼・伊東祐清・佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱らが従っていました。
北条時政は、当初、流刑の身である源頼朝を監視する平家側でしたが、長女の北条政子が源頼朝と恋仲になってしまいます。
北条時政が大番役で京へ上っていた間の出来事とされ、最初こそ、反対した北条時政でしたが、結局は認めて、北条義時が15歳の頃(1177年頃)に、源頼朝(31歳?)と北条政子(21歳?)は結婚しています。
そんな折に、1179年、罪によって伊豆に流された山木兼隆が、伊豆の最高権力者と言える平時兼(諸説あり)と親しかったことから、山木兼隆が伊豆目代に任命されて勢力を強めてきました。
この山本氏に危機感を抱いたのは、北条氏など伊豆の豪族たちです。

平清盛によって幽閉された後白河天皇ですが、その第三皇子である以仁王(もちひとおう)が、1180年に、平家打倒のため挙兵します。
以仁王は、木曾義仲など各地の源氏に令旨を発し、源頼朝も受け取りました。
当初は静観していた源頼朝ですが、以仁王は源頼政らと宇治の戦いで敗死し、逆に平氏から討伐を受ける可能性も出たことから、源頼朝は挙兵を決意して、関東の豪族らに協力を呼びかけました。

こうして、工藤茂光土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉、堀親家らが源頼朝に協力しますが、北条時政も嫡男・北条宗時、そして北条義時と共に、山木兼隆より伊豆の実権を回復するべく賛同します。
そして、1180年、韮山にある山本兼隆の屋敷を襲撃し、討ち取りました。
その後、源頼朝らは、味方を約束した三浦義明・三浦義澄らと合流するため、相模・土肥郷(湯河原)に向かい、北条氏の一族も従いました。
ところが、源頼朝の挙兵を鎮圧するべく、伊豆に向かってきた平家勢の大庭景親、伊東祐親らと、石橋山の戦いとなってしまいます。
この合戦で、敗れ、兄・北条宗時は、伊東祐親の軍勢に包囲されて、小平井久重に射られて討死しました。
源頼朝らは真鶴から安房に脱出し、北条時政と北条義時も、別行動にて安房へ向かって合流しました。
北条時政と北条義時は、劣勢を挽回すべく、甲斐の源氏である武田信義・一条忠頼に接触して支援を得て、源頼朝は上総広常と千葉常胤らの加勢により武蔵に入ると、更に足立遠元、葛西清重、畠山重忠、河越重頼、江戸重長など、坂東武者が加わり大軍勢となって鎌倉入りを果たしました。
平家は、平維盛を大将にして討伐軍を派遣しましたが、富士川の戦いにて源氏が大勝利を収め、源頼朝は鎌倉での政治を本格化させ、和田義盛を侍所の別当に任命しました。
1183年、北条泰時は、加地信実の娘とされる阿波局との間に、長男・北条泰時を設けています。
源義経も加わった源氏は、先に京に入った木曽義仲も討ち、1184年には一ノ谷の戦いで勝利を収めます。
そして、源範頼を大将に、北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景、三浦義澄らは源義経と合流し、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いで勝利して、1185年、平家を滅亡させました。
その間、公文所(のちの政所)の別当に大江広元が就任しており、着々と鎌倉幕府も体制が整備されています。

1189年、父・北条時政の後妻である牧の方が、北条政範を産みますが、生母を失っていた北条義時の立場は、一時、悪くなっていた可能性があります。
北条義時は、平泉藤原泰衡への討伐にも参加し、やがて、源頼朝の若手側近となり、寝所警護衆(家子)を務めました。


1192年7月12日、即位した後鳥羽天皇によって源頼朝が征夷大将軍となり「鎌倉殿」と呼ばれました。
その年の9月25日、比企朝宗の娘である姫の前が、北条義時の正室となり、1193年に次男・北条朝時、1198年には3男・北条重時が産まれています。
源頼朝の乳母は比企尼であり、その一族が姫の前と言う事になります。
この姫の前(ひめのまい)は、源頼朝の大倉御所に勤める女官(女房)だったそうで、吾妻鏡でも大変美しく、並ぶ者のない権勢の女房であったと明記されています。
また、源頼朝が2人のあいだを取り持ち「絶対に離縁しない」という起請文を書かせたともされています。

1198年12月27日、源頼朝は完成した相模川の橋からの帰路にて、体調を崩して落馬したともされ、1199年1月13日に死去しました。享年53。

鎌倉幕府第2代将軍(第2代鎌倉殿)には、北条政子の子である源頼家が就任しますが、まだ18歳でした。
急な政権交代でもあったことから、情勢が不安視され、有力御家人による「十三人の合議制」が敷かれます。
鎌倉殿の13人のメンバーは下記のとおりです。
大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、三浦義澄、和田義盛、そして北条義時となります。

妹である阿波局(北条時政の娘)は、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と言ったことを聞いて、将軍・源頼家に重用されたていた梶原景時に伝えます。
梶原景時は、結城朝光を咎めようとしますが、その一方で、阿波局は結城朝光に対して「梶原景時があなたを殺害しようとしている」と、話を盛って両者をそそのかします。
そして、今や権力も強い梶原景時が結城朝光を殺害しようとしていると聞いた御家人らは怒り、三浦義村、和田義盛ら66名によって、梶原景時排斥を求める連判状を将軍・源頼家に提出しました。
梶原景時は、一切弁明せず一族と相模・一ノ宮の館(梶原景時館)にておとなしくしましたが、幕府での居場所を失ったと感じ、1200年1月に梶原景時は一族らと相模を立ち、西国を目指しました。
しかし、駿河にて吉川友兼に補足されて、一族33人が討死し、梶原景時も自刃しています。(梶原景時の変)
もしかしたら、幕府にて権力を得たい父・北条時政の策略かも知れません。

こうして、将軍・源頼家と、北条家は対立するようになり、1203年5月、源頼家は阿波局の夫・阿野全成を謀反人の咎で殺害します。
さらに阿波局を捕縛しようとしましたが、母・北条政子が拒否しました。
その後、1203年7月、源頼家が病に倒れると、北条時政は、源頼家の乳母の父・比企能員を自邸に呼び出し、仁田忠常らを使って謀殺します。
また、比企氏の館も襲撃して比企氏を滅ぼし、姫の前と離別しています。(比企能員の変)
更には、源頼家から鎌倉殿の地位を剥奪し、伊豆・修善寺へ追放しました。
そして、北条政子らは朝廷に、源頼家は死去したという虚偽の報告を行い、源頼家の弟で、阿波局が乳母を務めた源実朝(12歳)を元服させて、鎌倉幕府3代将軍(第3代鎌倉殿)に擁立しています。
翌年、北条時政は手勢を送り、源頼家は入浴中に殺害されました。享年23


このようにして、大江広元と並んで北条時政は政所別当に就任し、幕府の実権を握りました。
北条義時は相模守になっていますが、北条義時も有力御家人排除には協力していたようです。
なお、継室・伊賀の方が、1205年に5男・北条政村をもうけています。

畠山重忠の子・畠山重保が、北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争うと、牧の方は北条時政に畠山重忠を討つよう求めます。
そのため、1205年6月、北条時政は、北条義時・北条時房と共に思案し、北条時政の娘婿である稲毛重成が、まだ若い将軍・源実朝に謀反を訴え、畠山重忠の討伐が決定しました。
鎌倉に滞在していた畠山重保は謀略にて殺害され、虚偽の呼び出しを受けて、菅谷館から鎌倉に向かっていた畠山重忠は、二俣川の戦いにて、愛甲季隆に討ち取られました。(畠山重忠の乱)
ただし、畠山重忠殺害に関して、北条義時は反対していたともされます。
更に、牧の方は、夫・北条時政と共謀して、将軍・源実朝を殺害して、娘婿・平賀朝雅を新たな鎌倉殿に擁立し、政権を独占しようと計画しました。

これを知った北条政子と北条義時らは、あまりにも強硬な策だと、反感を抱きます。
北条政子・北条義時らは、結城朝光、三浦義村、長沼宗政らを派遣して、北条時政の屋敷にいた源実朝を保護して、北条義時の屋敷に迎え入れます。
鎌倉御家人も北条時政のやり方を快く思わなかったため、多くが北条義時に味方し、北条時政は失脚して、牧の方と共に出家しました。
その翌日には、鎌倉から追放され伊豆・北条の旧領にて幽閉されています。
平賀朝雅は京都守護でしたが、滞在していた京にて、幕府の命を受けた山内首藤通基が殺害しました。(牧氏事件)
牧の方と、先妻の子である北条義時・北条政子との確執があったのも間違いないでしょう。

1212年5月、姫の前が産んだ次男・北条朝時が、将軍・源実朝の怒りをかったため、駿河に蟄居させ、将軍家や北条政子に配慮しています。

北条時政は、そのまま伊豆にて1215年に死去しました。
牧の方は、その後、平賀朝雅の正室だった娘が、再嫁した権中納言・藤原国通を頼って上洛し、京都にて余生を過ごしています。


鎌倉幕府での最有力者となった北条義時は、政所別当・大江広元、安達景盛らと連携し、幕政の実権を握りました。
やがて、北条義時は「執権」(しっけん)と呼ばれるようになり、独裁的政治を開始して執権政治を進めていきます。
ただし、第1代執権は、父・北条時政とされる場合が多いです。
北条氏による有力武士の排除は続き、守護職の世襲を改める方針を打ち出すと、侍所別当・和田義盛と意見が合わなくなりました。
1213年、和田義盛を挑発して、鎌倉での和田合戦にて滅亡させ、三浦氏・横山党・渋谷氏なども没落しています。
この時、駿河で謹慎していた次男・北条朝時は和田合戦に加わっており、勇猛な朝比奈義秀と果敢に戦い、復帰を許されました。
そして、北条義時は侍所別当も兼ねて、事実上、執権は鎌倉幕府の最高職となり、1216年には従四位下・右京大夫となって、父の官位も超えるました。

1219年1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、源実朝の右大臣任官の祝賀(拝賀)が行われました。
この帰りの境内で、2代将軍・源頼家の子である公暁(くぎょう)によって、将軍・源実朝が暗殺されます。
この時、北条義時と間違えられた源仲章も殺害されました。
予定では、北条義時が拝賀式で、源実朝の太刀持ちをするはずでしたが、吾妻鏡によると、体調不良で源仲章に後退してもらっていたと言います。
北条義時は、自邸で休んでいたため、難を逃れましたが、暗殺事件後の対応などから、裏で操っていたのではともされ、真相は不明です。
いずれにせよ、源実朝は子がいなかったため、源氏の正統は途絶えました。
ちなみに、北条氏は桓武平氏を称していますので、このように源氏一族を滅ぼして、平氏の世の中に逆戻りしたとも言えます。

執権・北条義時は、後鳥羽上皇の雅成親王(六条宮)を将軍として迎える工作を行うも拒絶され、源頼朝に縁がある摂関家・藤原頼経を鎌倉幕府第4代将軍として迎え入れますが、当時、藤原頼経はまだ1歳の乳幼児でした。
そのため、北条政子が「尼将軍」として、源頼経の後見を務め、鎌倉殿の地位を代行しています。
その北条政子を、北条義時が補佐して実権を握る執権政治が確立しました。

源頼朝の死後、鎌倉幕府に対して強硬な姿勢だった後鳥羽上皇ですが、1219年、内裏守護・源頼茂が、西面武士に襲撃されて討死する事件が起こります。享年41。
なんでも、源頼茂が将軍職に就くことを企てたしたと言う理由のようですが、恐らくは、後鳥羽上皇の倒幕計画を察知されたためと推測されます。
こうして、後鳥羽院政と鎌倉幕府の対立は深まり、執権・北条義時は1220年2月に、義兄の伊賀光季と娘婿・大江親広を京都守護として上洛させて警戒しました。


これに対して、1221年5月14日、後鳥羽上皇は平安京にて「流鏑馬揃え」を行うとして諸国の兵を集めました。
北面武士・西面武士、近国の武士、大番役の在京の武士、尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義など1700余騎が集まります。
京都守護の大江親広も加わりましたが、同じ京都守護の伊賀光季は拒んだため、伊賀光季の屋敷が襲撃されて討死しました。
そして、後鳥羽上皇は三浦義村・小山朝政・武田信光・小笠原長清などの有力御家人に対して、北条義時追討の院宣を発します。(承久の乱)
この朝廷挙兵の変事が鎌倉に伝わると、御家人らは「朝敵」になったことに動揺します。
そのため、尼将軍・北条政子が声明を出して団結させ、北条義時、北条泰時、北条時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らは軍議を開きました。
大江広元の策にて、幕府軍は京へ出撃することを北条政子が承認し、北条義時は嫡男・北条泰時を総大将にして軍勢を向けました。
次男・北条朝時と弟・北条時房は越後から北陸を経由して京へ向かい、東山道(中山道)からは武田信光が進んでいます。
武田信光は、北条政子の演説に心動かされ、鎌倉が勝つのであれば鎌倉につくとして味方しました。
進軍する幕府軍は、各地で加勢を受けて、最終的には19万騎にもなったとされます。

藤原秀康を総大将とした幕府軍は1万7500余騎で美濃に兵を進めましたが、武田信光・小笠原長清ら東山道の5万騎に敗れて、京は大混乱となりました。
後鳥羽上皇は比叡山に登りましたが、比叡山の僧兵が味方しなかったため、京に残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣します。
しかし、朝廷勢は敗走し、幕府軍は京へなだれ込むと、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ちました。

後鳥羽上皇は、今回の反乱は、謀臣である藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らの企てであったとして、倒幕の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を新たに発します。
見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは、東寺にて籠城しましたが、三浦義村の軍勢に攻められて三浦胤義は自刃しました。
山田重忠は逃亡先の嵯峨・般若寺(はんにゃじ)山にて自害し、藤原秀康は河内にて捕縛されました。

鎌倉幕府は、後鳥羽上皇の膨大な荘園を没収して隠岐島へ配流し、順徳上皇は佐渡島へ渡りました。
そして、鎌倉幕府に近く後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣となり、幕府の意向にて朝廷を主導します。
倒幕計画に参加した一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は、鎌倉に送られる途中、美濃・岩村や、足柄の早川などで処刑されました。
北条泰時・北条時房は京の平清盛邸の跡地である六波羅に滞在して戦後処理に当たり、京都守護に代り新たに六波羅探題となりました。
更に、仲恭天皇は廃されて、行助法親王の子が後堀河天皇となると、朝廷は幕府に完全に従属し、鎌倉と京都の二元政治が終わり、武家政権を確立しました。

また、西国で朝廷に加担した御家人らの所領をたくさん没収したため、戦功があった御家人に給付でき、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固なものとなりました。
こうして、多くの御家人が西国に移り住むことになり、幕府の支配も全国に及ぶようにもなっています。


しかし、承久の乱(承久の変)の翌年、1223年になると、北条義時は陸奥守と右京権大夫を返上して無官となりました。
そして、1224年6月13日、北条義時は死去。享年62。
北条義時の墓は、伊豆・北条寺の境内で、霊屋は鎌倉の北条義時法華堂跡と推定されています。

北条義時の死は急だったことから、後妻・伊賀の方が毒殺したとの噂も流れたようです。
また、伊賀の方は、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようと図ったことから、北条政子によって伊豆北条へ流罪となっています。(伊賀氏の変)

北条義時は、積極的に勢力拡大を望んだとは言い難く、自分の身や親族を守ろうとした結果、敵対する者と戦い続けるしかなかったと感じます。
そして数々のトラブルも乗り越えた結果、自然に、最高権力者になってしまったと言う印象を受けます。

北条義時の死後は、六波羅探題の北条泰時が、北条政子の指名によって急きょ鎌倉に戻り、鎌倉幕府第3代執権を務め「御成敗式目」を制定しました。

源頼朝の生涯【鎌倉幕府・征夷大将軍】旧相模川橋脚も
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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