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甲斐武田家の祖である武田信義について、武田信義の館跡や武田信義の墓所である願成寺も踏まえて、ご紹介させて頂きます。
武田信義は1128年8月15日、新羅三郎義光(源義光)を祖とする甲斐源氏である源清光の次男として誕生しました。
13歳の時に武田八幡神社で元服すると「武田」と名乗り、甲斐武田家の祖となました。
そして、1180年、以仁王の令旨を受けて挙兵すると、たちまち甲斐の主導権を握ります。
武田信義と館跡
そんな源信義(武田信義)が居館を構えた場所がここです。
武田信義館跡は、写真の通り現在は一角が保存されているだけで、館があったと思われる周辺は農家や畑になっていますが、付近にはお屋敷、お庭、お旗部屋・み酒部屋・的場・お堀・金精水・具足沢などの地名が残されているそうです。
武田信義は武田太郎と称して、源頼朝、武田信義、源義仲の3者が、東国における武家の棟梁とされた時代もありました。
源信義(武田信義)は源範頼や源義経と共に、木曽義仲の追討や一ノ谷の戦い、そして、平家追討の壇ノ浦の戦いにも参加すると言う、鎌倉幕府のために多大な功績を残しました。
しかし、源頼朝に取っては、武田信義の存在は目障りだったんですね。
1184年6月には嫡男・一条忠頼が謀叛を企てた容疑で誅殺されるなど、源頼朝の排斥にあい、失意のうちに1186年に病没したとされます(享年59)。
武田信義の館跡への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点の場所からに畑の中を入ります。
大きな案内板がありますので、現地に行けば分かります。
ただ、駐車場がありません。
駐車禁止の道路ではなかったので、消防車の通行妨害にもならない広い所に短時間だけ止めさせて頂きました。
武田信義の墓がある願成寺
山梨県韮崎の願成寺は、源清光の子ある甲斐源氏の棟梁・武田信義が開祖であるとされます。
そうそう、各写真はクリックすると拡大致します。
甲斐源氏は鎌倉時代に源頼朝の粛清を受けて没落しましたが、戦国時代に武田信虎や武田信玄らによって中興されました。
天正壬午の乱や、1607年の火災で寺宝などは消失したそうで、とても残念ですね。
武田家旧温会さんが建立した石碑も境内にありました。
本堂の左手に進むと、武田信義の墓所が見えてきます。
武田信義の墓所にある五輪塔は鎌倉様式ですね。
また、隣には武田家の歴代当主を弔う御霊廟もありました。
もちろん、武田信玄や武田勝頼、そして武田信勝もその名が見受けられます。
願成寺の場所ですが、下記の地図ポイント地点に舗装された大きな駐車場があります。
そこに車を止めて、駐車場の奥にあるちょっとした階段を登って行くと山門に出ます。
この付近には良質の日帰り温泉もありますので、時間があればお立ち寄りください。
→日帰り温泉情報「山梨」
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