源範頼の解説 源義経の次に処罰された源氏

源範頼

源範頼とは

源範頼 (みなもと の のりより)は、鎌倉時代初期の武将で、河内源氏源義朝の6男として、1150年頃に生まれました。
母は、池田宿(磐田市)にいた遊女とされますが、地元有力者の娘とも考えられています。
異母兄弟に、源頼朝源義経阿野全成などがいます。
源範頼は、遠江国蒲御厨(かばのみくりや)(浜松市)で密かに養育されました。
蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれています。


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1159年、平治の乱で父・源義朝が横死し、源頼朝が伊豆に流刑となると、経緯は不明ですが、1161年以降、公卿・藤原範季(ふじわら の のりすえ)が源範頼を引き取り、自分の子・藤原範資と一緒に育てました。
1180年、兄・源頼朝が挙兵し、石橋山の戦いで敗れるも鎌倉を占領します。
源範頼が、いつ合流したのかはわかっていませんが、1183年2月、常陸の志田義広が3万余騎を率い鎌倉を攻める兵を挙げた際に、源範頼の名が見受けられます。
<注釈> 小山朝政と志田義広の戦いにて源範頼が初めて登場することから、下野の最大勢力である小山朝政が源範頼を匿っていたとする説もある。

志田義広は別名を源義広と言い、同じ河内源氏・源為義の3男、すなわち、源頼朝や源範頼から見ると祖父の子です。
鎌倉に入った源頼朝とは連携せず、常陸国信太荘(茨城県稲敷市)にて、独自の行動を取っていました。
源頼朝は、下河辺行平と小山朝政に対応を託すと、下野国にて志田義広(源義広)と、野木宮の戦いになっています。
この時、鎌倉勢としては、八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが援軍として駆けつけて、足利有綱・佐野基綱父子、浅沼広綱、木村信綱、太田行朝ら志田義広(源義広)勢に勝利しました。
その後、志田義広(源義広)は木曾義仲の軍勢に加わっているため、背景には木曽義仲との勢力争いがあったようでして、別説では、この頃、八田知家らが推していたのは、源頼朝ではなく源範頼であり、源範頼と志田義広(源義広)の対決であったとする場合もあります。


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1184年1月になると、源頼朝の代わりとして、源義仲(木曽義仲)討伐の大将となり、大軍を率いて上洛すると、先に行動していた源義経と合流しています。
そして、宇治・瀬田の戦いなどで勝利しましたが、先陣争いで、他の御家人と乱闘になるなどしています。
1184年、一ノ谷の戦いでは、源範頼が、梶原景時や、畠山重忠など3万の本隊を指揮して、平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を討取りました。
源義経と安田義定は遊軍1万を率い、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経を討取っています。
その後、鎌倉に戻った源範頼は、上洛の際の乱闘騒ぎで、謹慎処分となりましたが、何度も源頼朝に謝り、3ヶ月後には、戦功から三河守として三河国の支配を認められています。

そして、九州に逃れた平氏討伐においては、出陣に際して、源頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられています。
源範頼は、北条義時足利義兼、小山朝政、小山宗政、小山朝光、武田有義、藤原親能、千葉常胤千葉常秀、下河辺行平、下河辺政能、浅沼広綱、三浦義澄三浦義村、八田知家、八田知重、葛西清重、渋谷重国、渋谷高重、比企朝宗比企能員和田義盛、和田宗実、和田義胤、大多和義成、安西景益、安西明景、大河戸広行、大河戸行元、中条家長、加藤景廉工藤祐経、工藤祐茂、天野遠景、一品房昌寛、土佐房昌俊、小野寺道綱などを従えて、原田種直などを破り博多・太宰府に進撃したため、平氏の本隊は長門国彦島(下関市)にて孤立する結果となりました。
そのため、源義経が海から、源範頼は陸から攻撃し、屋島の戦いにて、平家は滅亡したと言う事になります。
その後、源範頼は戦後処理にあたり、神剣の捜索と、平氏の残党狩りなどを行いました。
その頃、独自の考えで行動する源義経と、源頼朝は隊列するようになっており、源頼朝は、源範頼にも自分で勝手に判断せずに相談するようにと、くぎを刺しています。
そのため、源範頼は、こまめに鎌倉へ報告もしています。
また、源頼朝は源義経を殺すようにと、源範頼に命じましたが、それを断ったことにより、源範頼の立場も悪くなってきたともされます。


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なお、鎌倉幕府から与えられた領地は、武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)で源範頼館があります。
正室は、有力御家人・安達盛長の娘(亀御前)です。

1189年7月、源頼朝が自ら出陣した奥州合戦でも、源範頼は参じましたが、最後の参戦となりました。

曾我兄弟の仇討ち

1193年5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った「曾我兄弟の仇討ち」が発生しました。
このとき、鎌倉には、源頼朝が討たれたとの誤報が初報が届きます。
嘆いた北条政子に対して、源範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたと言います。
この発言が、将軍の座を狙っていると言う、謀反の疑いを招いたともされ、源範頼は忠誠を誓う起請文を源頼朝に送りました。
しかし、書状に「三河守源範頼」と、源姓を記載していたため許されなかったと言います。
ただし、吾妻鏡では、謀反を疑った理由について、記録はされていません。


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そのため、源範頼は、家人で武勇名高い当麻太郎を、源頼朝の寝所の下に潜りこませます。(命令ではなく当麻太郎の独断だったともされます。)
当麻太郎は、源頼朝に気配を感じられ、結城朝光らによって捕まりました。
尋問に対して、源頼朝の本心を確かめようと、忍び込んだと弁明しましたが苦しい言い訳でした。
そして、源範頼は尋問されると言い訳をしなかったため、1193年8月17日、伊豆・修善寺に流刑となります。
修禅寺に幽閉されて、狩野宗茂、宇佐美祐茂が監視しました。

当麻太郎は、源頼朝の娘・大姫が病気だったため、恩赦があり死刑を免れ、薩摩に流されています。

その後の源範頼に関しては諸説ありますので、ご紹介してみます。
幽閉された翌日、源範頼の家人である橘太左衛門尉、江瀧口、梓刑部丞らが、浜の宿館に籠もって武器の手入れをして、不審な動きを見せたため、結城朝光、梶原景時、梶原景季仁田忠常らによって討ち取れたとあります。
修禅寺の東にある、日枝神社の下付近にあった信功院にて、自刃したとも伝わります。
更に、曽我兄弟の同腹の弟・原小次郎は、源範頼の縁座として処刑されました。
4日後、大庭景義岡崎義実が出家していますが、曽我兄弟の仇討ちに関連したものと推測されます。

源範頼の墓

と言う事で、源範頼の墓が、修善寺にあります。
源範頼の墓と伝わる場所から骨壺が発見され、明治に現在の場所に墓所が整備されました。

源範頼の墓

修善寺温泉の中心地から西側にある観光バス駐車場から北側の山に登って行く徒歩で登れる狭い道が、数本あり、案内に従って進むと、源範頼の墓がありました。

源範頼の墓

ちなみに、修善寺には、源頼家の墓もあります。

なお、源範頼の生死に関して、討死したのは家来であって、本人は越前へ落ち延びたとする説、領地の吉見観音に隠れ住んだという説、安達盛長の領地である武蔵国足立郡石戸宿(埼玉県北本市石戸宿)に逃れたとする説などがあります。
他にも、出家したとされる鳥取市河原町片山の霊石山中腹にある最勝寺跡にも、源範頼の墓とされるものがあります。
また、修禅寺から逃れた源範頼は、海路、横須賀から上陸して、横浜市金沢区の太寧寺にて最後を遂げたともあり、ご本尊が源範頼の念持仏だとする薬王寺があります。
横須賀市の上陸地点は、現在の「追浜」で、鎌倉勢に追われていたため、この地名がついたとされます。

他にも、伊予の河野氏を頼った、北陸に逃れた、吉見観音に隠れ住んだともあります。
<注釈> 吉見観音に匿われたのは幼少時とも伝わる。

吉見観音

また、埼玉県北本市の伝承では、石戸館にて余生を過ごし、1200年に亡くなったと言う話もあります。

石戸館

吾妻鏡では、源範頼が修善寺に幽閉されたことが書かれていますが、そのあと、自刃したとは記載されていません。
源範頼の妻(安達盛長の娘・亀御前)は、夫の訃報を聞いて荒川付近で自刃したともされますが、いずれにせよ、亡くなった亀御前の墓が、戸石館の北方にありますので、戸石館が領地だったのかも知れません。

亀御前の墓

が、源頼朝の乳母でもあった比企尼の嘆願にて、子の源範圓・源源昭は助命され出家し、横見郡吉見庄を分与され、源範圓の子が吉見為頼になったとされます。
<注釈> 比企尼の娘・丹後内侍は、安達盛長の妻であった。


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吉見(よしみ)氏の嫡流は謀反を企み途絶えますが、吉見為頼が、能登守護となった北条朝時に従ったようで、文永年間(1265年~1275年)に武蔵から能登に下向しています。
そして、能登・吉見氏は、鎌倉幕府滅亡時に足利尊氏に属し、南北朝時代になると、吉見宗寂・吉見頼顕・吉見頼隆・吉見氏頼が能登守護となりました。
他にも、1282年、吉見頼行が石見・津和野の吉見氏居館に入り、のち津和野城(一本松城)が築かれ、戦国時代には、吉見頼興・吉見隆頼などが石見守護も務めました。
吉見広頼は、毛利元就から大江広元の1字を与えられて広頼と称し、毛利隆元の娘・津和野局を正室にしています。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源範頼を俳優の迫田孝也さんが演じられます。

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コメント

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  1. 磯部 光昭

    源範頼についての詳細が記されていることに感動しまして、コメントをさせて頂きます。

    私の父の実家は浜松の神立町にある蒲神明宮の一番近くにありました。その周辺は磯部家と鈴木家が多いです。その中で、私の実家は、戦前までは「もりさん」と磯部ではない呼び方をされていたそうです。蒲神明宮の社のもりさんなのだろうと当時の父は思っていたそうですが、源範頼のお守り役のもりさんの意味で呼ばれていたようです。
    源義朝は東海道沿いに、熱田神宮に源頼朝を産ませ、蒲神明宮に範頼を産ませたと思える節があります。磯部は伊勢神宮から蒲神明宮に平安時代初期に開発領主たる鈴木氏に呼ばれたとの伝承が残っています。伊勢と熱田神宮は密接な繋がりがあります。大海人皇子を天武天皇に押し上げた支持勢力です。
    蒲の開発領主たる鈴木氏は藤原家で、蒲神明宮でお守りした源範頼を義朝亡き後、京都で保護させたとの話は有り得ると思います。
    蒲神明宮での源範頼の伝承が、お守りをした後は亡くなった後、範頼の首を愛馬が蒲へ持ち帰ったとしか残されていないことから、京都以降は範頼は蒲と縁が無かったのではないかと思えます。

    影の薄い範頼を詳細に調べて頂き、誠にありがとうございました。乱文ごめんなさい。