曽我兄弟の仇討ちの分かりやすい経緯~工藤祐経と伊東祐親の遺恨


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工藤祐経(くどう-すけつね)は、伊豆の伊東荘の領主・工藤祐継(工藤滝口祐継)の嫡男として生まれたが、父が幼い頃に亡くなると、その後見人として叔父・伊東祐親(いとう-すけちか)(河津祐親)が面倒を見る。

しかし、そもそも伊東祐親の祖父・工藤祐隆が、本領の伊東庄を後妻の連れ子であった工藤祐継に継がせ、伊東祐親には河津庄が与えられていたことから、不満を持っていた。

そのため、工藤祐経が元服して平重盛に仕えて上洛している間に、伊東荘を伊東祐親は占拠した。
この時、工藤祐経の妻・万劫御前(伊東祐親の娘)をも、早川荘の土肥遠平に嫁がせた。

京にて押領に気が付いた工藤祐経は、訴訟を起こして平家に訴えるも、平清盛からの信頼も厚かった伊藤祐親の根回しによりうまく行かなかった。
伊東祐親を恨んだ工藤祐経は、1176年10月、伊豆奥野の狩り場から戻る途中、郎党の大見小藤太と八幡三郎によって、伊藤祐親の嫡男・河津祐泰を弓にて射殺させた。(享年31)

河津祐泰の遺児となった5歳の一萬丸(十郎)と3歳の箱王(五郎)の兄弟は、母の満江御前(横山時重の娘、工藤茂光の孫)に連れられて、再嫁先の相模我荘の領主・曾我祐信のもとで養育された。
この兄弟が、のちに「曾我兄弟」と知られる、曾我祐成と曾我時致である。

1159年に源頼朝(14歳)が伊豆・韮山の蛭ヶ小島に流されると、北条時政と共に監視役を命じられる。
そんな中、伊東祐親が大番役で京の治安に当たっているとき、3女・八重姫(やえひめ)が、源頼朝と通じ、やがて千鶴丸(千鶴御前)と言う男の子を産む。

千鶴丸(千鶴御前)が3歳になった時に、伊豆戻ってこれを知った伊東祐親は激怒し、1175年9月、平家に露見することを恐れて、千鶴丸を松川に沈めて殺害した。
さらに源頼朝の暗殺も図ったが、源頼朝の乳母・比企尼の3娘を妻とし源頼朝とも親交があった、次男・伊東祐清は源頼朝に危険を知らせた。
そのため、源頼朝は闇夜に紛れて熱海の伊豆山神社へ逃げ込み、窮地を脱している。
その後、源頼朝は北条時政の館に匿われて無事に保護されたが、伊東祐親はこの前後に出家したと言う。

このように、北条時政の元で暮らすようになったため、今度は北条政子が源頼朝と恋仲になったものと推測できる。
そして、北条政子と源頼朝が結ばれたのを知った伊東八重(八重姫)は、入水して自らの命を絶ったと言われているが、千葉氏などへ嫁に行ったなど諸説ある。
なお、北条時政の本拠地である守山の麓には、八重姫を祀った真珠院がある。

1180年8月、源頼朝が挙兵すると工藤祐経の弟・宇佐美祐茂(うさみ-すけしげ)は協力。
それに対して伊東祐親は、大庭景親らに味方して石橋山の戦いにて源頼朝らを撃退した。
しかし、勢力を盛り返した源頼朝は、富士川の戦いにて伊東祐親を捕虜とし、伊東祐親の娘が嫁いでいた三浦義澄に預けた。

三浦義澄は、伊東祐親の助命嘆願を行い、一命を許されたが、伊東祐親は娘・八重姫が産んだ子を殺害した事として「以前の行いを恥じる」と言い、自害した。

この時、挙兵前に自分の命を救ってくれた、伊東祐親の跡取りである伊東祐清に、源頼朝は恩賞を取らせようとしたが、父が敵であった以上、恩賞は受け取れないと拒んだだけでなく、暇乞いを願い出て、以後、伊東祐清は平家に味方し、北陸道にて討死にしている。

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一方、工藤祐経は京から鎌倉へ赴いて源頼朝に臣従すると、伊東祐親に奪われていた伊東庄に復帰。
工藤祐経の子・伊東祐時は伊東氏を称して、伊東家を継いだ。

そして、源義経らの活躍で平家を滅亡させた源頼朝が鎌倉幕府を開く。

亡き伊東祐親の孫である曾我兄弟は、厳しい生活を強いられるも成長すると、兄の一萬丸は曽我家を継いで、曾我十郎祐成と称した。
弟の箱王丸は、父・河津祐泰の菩提を弔うため、箱根権現社にて修業を積んだ。

1187年、源頼朝が箱根権現を参拝した際に、箱王丸は随行していた工藤祐経を見つけ、復讐しようした。
しかし、逆に工藤祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を与えられたと言う。
なお、出家を嫌った箱王丸は、縁者でもある北条時政を頼ると、烏帽子親になってもらい元服し、曾我五郎時致と名乗った。

1193年5月、源頼朝は、数多くの御家人を参加させ、富士の裾野にて盛大な巻狩(軍事訓練)を開催。
父の仇討を忘れていなかった曾我兄弟は、1193年5月28日、に酔って遊女と寝ていた工藤祐経の寝所を襲撃し、ついに工藤祐経を討ち果たした。

下記は曽我兄弟が隠れていたとされる岩。

曽我兄弟の隠れ岩

下記写真は、白糸の滝近くにある工藤祐経の墓。

工藤祐経

この騒ぎに集まった武士に、曾我兄弟を取り囲まれるも10人斬りの働きをしたが、兄・曽我祐成が仁田忠常に討たれた。
弟・曽我時致は、源頼朝も暗殺しようと宿所に入ったところを、女装していた五郎丸により、捕縛された。

翌5月29日、源頼朝の面前で仇討ちに至った経緯を述べた曽我時致に対して、源頼朝は助命しようとした。
しかし、工藤祐経の遺児・犬房丸(伊東祐時)が泣いて訴えた為、曽我時致の身柄は工藤祐経の一族に引き渡されて、結果的に斬首されている。

なお、曾我兄弟には、もうひとり弟がいた。
父・河津祐泰が弓で討たれた5日後に生まれた子で、源頼朝の暗殺計画を知らせて窮地を救った、伊東祐清の妻(比企尼の3女)が引き取っていた。
その後、夫・伊東祐清が北陸で討死したあと、妻だった比企尼の三女は平賀義信に再嫁し、この時、この遺児も伴っていた。

その遺児は出家して「律師」と号していたが、曾我兄弟の仇討ちのあと、兄に連座して鎌倉へ呼び出されている。
そして、1193年7月2日に、甘縄で自害して果てた。
また、同じく河津祐泰の子である原小次郎も、源範頼の連座で8月20日に処刑されている。

曾我兄弟の養父・曾我祐信も連座を恐れたが、兄弟に同意したり促した証拠はないとして、源頼朝より許された。
そればかりか、曾我兄弟の菩提を弔うよう命じられ、曾我荘の年貢が免除されている。
曾我祐信の墓は妻と曾我祐成・曾我時致と共に神奈川県小田原市の城前寺にある。

下記は、芦ノ湖湖畔の箱根神社境内にある曽我神社脇の供養碑。

曽我神社脇の供養碑

箱根神社に関してはこちら

曽我兄弟の供養碑

なお、この曽我兄弟の仇討で最も得をしたのは、伊東祐親や工藤祐経がいなくなったあと、伊豆にて勢力を拡大することが容易となった北条時政と言う事になる。

曽我兄弟の隠れ岩と工藤祐経の墓の場所

下記の地図ポイント地点は、白糸の滝の近くにある曽我兄弟の隠れ岩の場所。
その隠れ岩から東に100mほどのところに、工藤祐経の墓がある。

曾我祐信の墓

曾我兄弟の養父となった曾我祐信の墓は神奈川県小田原市内にあります。

曾我祐信の墓

上記の小道を入ったすぐのところに曾我祐信の墓がありました。

曾我祐信の墓

この辺りは高台で展望も素晴らしいところです。

曽我梅林からの展望

曾我祐信の墓がある場所ですが、下記の地図ポイント地点がクルマを止められる場所となります。

車を止められる場所は、もう使われていないような道の上で約1台分となります。
周りは梅林となっており、結構、急な坂を上がったところとなりますので、カーナビで指定して行くと良いでしょう。
有名な曽我梅林は麓となり、梅の季節は道路が渋滞します。

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