平清盛【謎の出自】 ~年表付~平家の棟梁の姿を追う


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平清盛 なにをした人?

平清盛(1118年~1181年)の功績は、貴族(藤原氏)が中心に行っていた日本の政治を、武士が中心の政治へと変化させたことにあるだろう。
貴族同士の争いごとを武士が武力を持って解決する世の中になり、平清盛は出世し中央政権で重職に就き、そして天皇の政治を補佐するだけでなく、自ら政権運営行い、天皇や貴族は形式ばかりの存在となった。要するに、政治の権力が貴族から武士へ移ったのである。

しかし、権力を握った平清盛は貴族社会の中で政権運営したせいか、武士から貴族化して行くのである。この事が同じ武士からは大きな反感を買った。
そして、将来有望とされた長男・平重盛(たいらの しげもり)が若くして亡くなる事により、平家は衰退し、源氏の攻撃に対して、甘んじることになるのであった。
しかしながら、平安時代である当時、海外貿易にも目を向け、日本を豊かにしようと努力したことも伺え、国際感覚もある平清盛であったのだ。

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■平清盛の出自

平清盛(たいらのきよもり)は、平忠盛の嫡子として1118年に伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれた。母は、祇園女御の妹(名は不明)とされている。
父・平忠盛は、平氏一族の一つである伊勢平氏の棟梁で、播磨・伊勢の国守として豊かな財政を背景に武力面で活躍し、伊勢平氏で初めて昇殿を許されるなどした。播磨守は受領の最高峰といえる地位であり、軍事貴族から公卿への昇進も目前となるまでに、伊勢平氏を盛りたてた。

平忠盛が23歳の頃に平清盛が誕生したことになる。母とされる祇園女御の妹は、平忠盛の正室ではない。
白河法皇の晩年の寵妃であったとされる祇園女御と言う祇園に住んでいた女性(氏素性不詳)がいて、尚且つ、その「妹」が平清盛を生んだとされている。
ただ、その母も平清盛が生まれてまもない、3歳の頃に亡くなり、平清盛は祇園女御の猶子になり、育てられたようだ。
なお、平清盛自身は、生涯に渡り、母については何も語っていない。あれほど出世した人物でありながら、珍しいことで「尊卑分脈(諸家大系図)」での平氏系図でも、平清盛の母についての記載が空白なのだ。
その為、出生については、今でも色々な憶測をよんでおり、様々な説がある。

1129年1月16日、34歳になっていた父・平忠盛が従四位上となった際、12歳であった平清盛は従五位下左兵衛佐に叙任。
僅か12歳で、いきなり従五位下に任じられるのは極めて異例。更に、平清盛はこのあと、1131年従五位上、1135年正五位下、従四位下。1136年中務大輔と、中央政界における唯一の武門として、異例の出世を続け、本来であれば上流貴族しか任命されない従一位・太政大臣にまで登りつめた。
そして、平清盛の長男・平重盛は近衛左大将、次男・平宗盛は近衛右大将と、左右の武官の最高位を独占し、平清盛は平氏の棟梁として、西国500余りの荘園を持ち、30カ国を領国として、全盛を誇り栄華を極めたのである。
貴族が政治を行う時代に、身分が低かった武士出身の平清盛が、これだけの出世を遂げることができたのはなぜか?

■平家物語

現代において、白河法皇(白河上皇)は知名度の高い天皇ではあるが、実際は遊び人であり、皇位継承とは無縁と目され、帝王教育を受けることもない、中継ぎ役であった。女性関係が乱れていただけでなく、関係を持った女性を次々と寵臣等に与えていた。
平家物語の記載によると、「祇園女御」は白河法皇の寵妃の一人であったとされる。
雨の日に白河法皇が鬼と遭遇して危険な目にあった際、北面の武士として天皇家の警護の任にあった平忠盛が、白河法皇の危機を救ったとされる。

その際、白河法皇は平忠盛が鬼(実は老法師とも?)を、殺さずに、危機を打開したことを感服して、自分の愛人の1人であった祇園女御を、平忠盛に与えた言う。しかし、そのときすでに祇園女御は、白河法皇の子を宿していて、のちに生まれたのが平清盛だと「平家物語」では伝えている。

祇園女御のもとで育ったことからも、本当の父は白河法皇だったのではと、当時すでに噂され、疑われてもいたようであり、明治になるまで、平清盛は白河法皇のご落胤と信じられてきた。

別の説では、祇園女御に妹がいたことにして、その妹が平清盛を生んだ事にし、祇園女御の妹は子を産み、3歳で亡くなってしまったと物語を作ったとたも考えられている。

■海運に目をつけた

平清盛は、伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれたとされる。
津市と言えば、現在は三重県の県庁所在地。なんどもこの日本歴史人物伝の記事内にて触れているが、「津」と言うのは「港」と言う意味。いわば、昔から「海上交易」の活発な地で生まれたのだ。
いくら強い武士と言えども、大きな兵力を持たないことには活躍できない。大きな兵力を持ち、維持・運用するには、それなりの財力が必要となる。平家は水軍も運用していた。
要するに、商業が活発であるなどの地盤が必要なのだが、伊勢平氏の子となったことは、最初から恵まれた環境であったと言える。

そんな環境で育ったためか、平清盛は、大輪田泊(現在の神戸)の大修築(1173年)や、瀬戸内海航路の開発を手掛けて海上交易を活発化させ、さらに海外との貿易も手がけて日宋貿易を行うなど「海」を中心にした、新しい日本の活性化を模索している。
大輪田泊の改修は、いわば国家事業であり、港付近の海上に人工島を築いて、その島陰に安全な碇泊地を確保し、宋からの貿易船(大型船)が入港できるようにした。そして、対岸にある福原には大規模な都市を構築。1180年には、都が福原に移転(福原遷都)したのである。
当時としては、極めて高い国際感覚を持った人物であったことが伺える。

■平清盛の死因

平家物語では異様な高熱と、激しい悪寒・震えに襲われる発作が、何日かおきに繰り返し起こり死亡したとしている。
一般的には「マラリヤ」にかかったと解釈されているが、発症したのは2月4日(今の暦で3月20日頃)。マラリヤの潜伏期間は約2週間なので、マラリヤが蚊により媒介したと考えると、どうしても季節的に疑問が残る。小生は医者ではないので、推測になってしまうが、恐らくはインフルエンザか、肺炎を患ったのではないだろうか?

■平清盛 年表

1118(元永元)年 【1歳】   平清盛、生まれる
1129(大治4)年 【12歳】   武士としては異例の出世をし、従五位下の位を与えられる
1132(長承元)年 【15歳】   父・忠盛が貴族でも難しい宮中清涼殿への昇殿を武士としてはじめて許される
1135(保延元)年 【18歳】   海賊討伐の褒章として従四位下の位を得る
1146(久安2)年 【29歳】   安芸守になり瀬戸内の制海権を握る
1153(仁平3)年 【36歳】   父・忠盛死去。平家の棟梁になる
1156(保元元)年 【39歳】   保元の乱勃発  後白河天皇につき勝利する
1159(平治元)年 【42歳】   平治の乱勃発  源義朝らとの戦いに勝利する
1160(永暦元)年 【43歳】   正三位に出世し政府高官となる
1162(応保2)年 【45歳】   福原の大輪田泊を修築  経ヶ島を造営開始
1164(長寛2)年 【47歳】   後白河上皇の命により蓮華王院本堂(三十三間堂) 創建
1167(仁安2)年 【50歳】   太政大臣となるも3カ月で辞任
1168(仁安3)年 【51歳】   時子とともに出家
1169(嘉応元)年 【52歳】   後白河上皇出家、法皇となる
1171(承安元)年 【54歳】   娘・徳子が高倉天皇のもとへ嫁ぐ
1177(安元3)年 【60歳】   反平家勢力による鹿ヶ谷の陰謀発覚
1178(治承2)年 【61歳】   娘・徳子が皇子(後の安徳天皇)を出産
1179(治承3)年 【62歳】   嫡男・重盛死去  クーデターを起こし後白河法皇を幽閉(治承三年の政変)
1180(治承4)年 【63歳】   安徳天皇即位  以仁王の乱勃発   源頼朝、伊豆で挙兵
平家、富士川の戦いで頼朝軍に敗北
1181(治承5)年 【64歳】   平清盛、熱病で死去
1183(寿永2)年        倶利伽羅(くりから)峠の戦いで平家大敗     平家、都落ち
1185(元暦2)年        壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、平家滅亡

平清盛の銅像

下記は厳島(宮島)にある平清盛の銅像です。

平清盛の銅像

フェリーを降りて、厳島神社へと向かう広場の海岸近くにあります。

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