平宗盛とは~暗愚の汚名を着た平家最後の当主~

平宗盛

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平宗盛(たいらの-むねもり)は、久安3年(1147年)に平家の当主だった平清盛と正室・平時子の三男として生まれました。
異母兄に平重盛と基盛、同母弟に平知盛らがいます。
彼は正室の子として重く扱われており、数え11歳になった保元2年(1157年)に内裏造営の叙爵があった際、宗盛は従五位下を賜りました。


その2年後に平治の乱が起きた際に宗盛は父や兄と共に帰京して二条天皇を救出、藤原信頼と源義朝らを鎮圧した功績により、十代の若さで遠江守になる快挙を成し遂げます。
武将としてだけではなく、長寛2年(1164年)に関白である近衛基実と妹の盛子が結婚した際には摂関家政所の別当に任ぜられるなど、宗盛は政界にも台頭していました。

また、宗盛には母時子の異母妹・滋子が後白河上皇の寵愛を受けていたこともあり、彼女の猶子として仕官した事や、滋子の同母妹に当たる清子を正室として迎えるなど、彼は母方の実家による強い後ろ盾を得たのです。
この滋子と宗盛はおしどり夫婦であり、承安元年(1171年)に清子との間に長男清宗、7年後に別の女性との間に次男能宗を授かりますが、宗盛はどの妻にも先立たれてしまいます。
とりわけ能宗の母を失った時、宗盛は悲嘆して右大将の官位を返上、妻の遺言を聞き入れて男手一つで能宗を育てる程に彼女を愛していたと言われています。

平家の御曹司として栄華を極めた宗盛に不吉な影が襲ってきたのは、安元2年(1176年)に叔母滋子、治承3年(1179年)には妹盛子と兄重盛を立て続けに亡くした事で平家と後白河上皇との間に不穏な空気が流れ始めた頃です。
二人の遺領と知行国を後白河院は没収し、平家の娘婿だった公卿をないがしろにした人事を行い、それに反発した清盛との間に治承三年の政変が勃発しました。
清盛は後白河院にクーデターを起こし、院政停止や反平家勢力を押さえつけますが、宗盛個人は消極的だったと言います。

翌年、宗盛には甥にあたる安徳天皇の即位、一方で反逆した以仁王に味方する円城寺や源頼政を征伐し、その賞として長男の清宗が従三位に叙される栄誉を受けます。
これら反乱の悪化は平家一門内部にも不和の種を捲き、富士川の戦いを機に福原に都を置いた清盛と還都を主張する宗盛との間に争いが起こったほどでした。


混迷の平家一門に追い打ちをかけたのが、治承5年(1181年)に高倉上皇の崩御と清盛の逝去と言う不幸が重なったことです。
院政を再開した後白河院は関東で挙兵した源頼朝からの進言で宗盛に和平を打診するも、彼は亡父清盛の遺言に従って勅命を拒絶します。
それ以降も平家と源氏、後白河院、奥州藤原氏など諸勢力の膠着状態は続きますが、寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠の戦いで平家は木曽義仲に大敗、宗盛は六波羅に火を放つと安徳天皇を奉じ、京都から脱出して西国に向かいました。

それに対して平家から逃れた後白河院は天皇と神器を平家が奪ったとして追討宣旨を発し、宗盛は賊軍の首魁として追われる身となったのです。
平家の家人を頼った宗盛は、日宋貿易の拠点がある九州を目指しますが、交渉の失敗や敵対する勢力が待ち伏せていたのもあって九州を追われます。
こうして宗盛率いる平家は転戦を余儀なくされ、一時は和平交渉にこぎつけた義仲は戦死、寿永3年(1184年)には頼朝が送り込んだ源義経の追討軍に一ノ谷で敗れ、数多くの武将を失いました。


敗走する宗盛は、平家の切り札でもある水軍を用いて挽回を図りますが、元暦2年(1185年)に起こった屋島の戦いでは、陸の防備が薄くなった所を義経に奇襲され、味方の裏切りも起こって海上へと逃れることとなります。
最終決戦の舞台となった壇ノ浦の戦いでは平家軍は善戦するも潮の流れが変わって源氏の猛攻を許してしまい、弟の知盛はじめ平家一門と安徳天皇は海へと身を投げて自害し、平家は壊滅しました。

宗盛も入水しますが、水練の名人だったのと愛息清宗を案じるあまりに死ぬことが出来ず、義経軍に捕まって京都へ連れ戻され、鎌倉に送られて頼朝の前に引き立てられます。
その後、再び京都に送られる道中、近江国篠原宿で宗盛は斬首されました。享年39歳、我が子のことを案じながら斬られたと言われます。

後世、平宗盛は父清盛、兄重盛と正反対の無能で愚劣な人物と評されました。
捕虜になった際に泣いて命乞いした醜態を始め、頼政の息子から馬を奪おうとしたこと、安徳天皇が宗盛と建礼門院の息子と言われたこと、挙句の果てには時子が自分の娘と取り換えた傘屋の息子を宗盛と言う伝承が存在するなど、悪評はひきも切りません。

しかし、これら宗盛に関する逸話は平家滅亡後に成立した文学書や史書に記されたものであり、全てが真実かは不明です。
一方で宗盛は先述したように妻子を愛する心優しい性格をしており、強引な清盛に反対していたことを示す記録も存在します。
他にも、平家の恩を仇で返す武士を殺そうとした弟を止めたり、敵対した以仁王の遺児を許して欲しいと嘆願するなど、敵にも慈悲をかける人物でもありました。

また、政治家として活躍していた時期や戦の恩賞に預かったことなど、平家の御曹司に相応しい才覚があったとする研究もなされています。
そうした近年の風潮を象徴するかのように、大河ドラマ『平清盛』では柔弱さと苦悩を抱えつつも懸命に生きる宗盛を、石黒英雄さんが演じました。


他にも、光栄(現コーエーテクモ)の『源平合戦』や『元朝秘史』など歴史ゲームのキャラクターや、おもてなし武将隊『神戸・清盛隊』の一員として登場するなど、カルチャーの方面での宗盛の人気は決して低いものでは無く、史書や文学とは正反対です。
敗北したが故に暗愚の将として忌み嫌われた平宗盛は、現代においては優しさと人情を兼ねた温和な武人として、徐々に名誉を回復しつつあります。

(寄稿)太田

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