平盛国(たいらのもりくに)~平家第一の家臣

2012年のNHK・大河ドラマに登場する、鱸丸(すずきまる)は、実在した人物とされています。
大河ドラマ『平清盛』では、もともとは漁師であった鱸丸(すずきまる)という、平清盛より少し年上の青年が、やがて平清盛の計らいで平盛康の養子となり、平盛国として平家一門に加わったとしています。要するに、漁師が武士になったという設定で描かれます。
平盛康は、平忠盛に仕えながら、平清盛の後見人として、平清盛が何か問題を起こす度に、皆に詫びる姿がドラマでは描かれています。


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平盛国

平盛国(1113年~1186年)の父は、諸説あり、平盛康、または平盛遠、平季衡など、詳しくはわかっておりません。
 
平清盛の側近として仕えると、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)と、平家一門衆の要となる武士として、嫡男・平盛俊と共に戦い、多くの功績を挙げています。

平家貞の死後は、平盛国が平家第1の家臣となり、平氏宗家の家令(執事)としての役割も担っています。

1157年10月、信西による大内裏造営での功により、右衛門尉、ついで左衛門尉と昇進。
1164年、厳島神社に奉納された平家納経の製作に加わっています。
1165年1月、検非違使に補任。
1166年10月、憲仁親王の立太子に伴い、東宮の主馬首を兼任し、主馬判官と呼ばれました。
承安年間には関白・松殿基房の賀茂詣に供奉するなど、検非違使・左衛門尉としての務めが多く見られています。
1173年、平清盛一門が厳島神社に舞楽面を奉納。その舞楽面が9面が、現存しており国宝に指定されているが、そのうち2面の裏面に朱漆で「厳嶋社二面承安三年八月 日 盛国朝臣調達」と銘が記されているとの事です。
鹿ケ谷の陰謀では、平清盛邸に赴いて密告した多田行綱の応対をしており、平家打倒の陰謀に激怒する平清盛の動きを案じ、当時の平氏棟梁・平重盛に知らせたと言われています。
1180年、戦わずして平家が敗走した富士川の戦いの戦後には、責任を問われた伊藤忠清を弁護もしました。
1181年、平清盛が息を引き取った場所は、九条河原口(賀茂川東岸)の平盛国の屋敷だったとされています。


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その後、平盛国は、平家の新しい棟梁になった平宗盛に仕えました。
1184年2月の一ノ谷の戦いで、息子・平盛俊が討ち死。
1185年3月の壇ノ浦の戦いで、平家が滅ぶと、捕虜となっていた、平宗盛らと共に、4月26日に京に護送される。そして、5月7日、源義経に連行されて鎌倉へ向けて出発し、5月16日、鎌倉に入ったと考えられる。逗子付近に暫く軟禁されていたようだ。

6月7日、平宗盛は敗軍の将として、源頼朝の前に引き出され、源頼朝と会談するものの、泣いてばかりで、ひたすら自分の助命を請うたとされ、集まった者から、それでも平清盛の子供かと非難・嘲笑されたという。
それに反して、平盛国は黙して語らない姿勢を貫いたとされ、源頼朝は平盛国を助命し、岡崎義実の屋敷に身柄を預けました。
1185年6月9日、平宗盛・平清宗の父子は京都に送還され、6月21日、源義経の命を受けた橘公長の手により、近江国篠原宿で斬首された。平宗盛の嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑され、平宗盛の血統は途絶えた。

平時忠は源義経と行動を共にしたが能登国へ流罪となり、当地で死去。建礼門院は出家し大原に隠棲。
 
平盛国は、その後も一言も話すことなく、法華経に向かい、断食。
平家と行動を別にしていた、平清盛の弟・平頼盛が1886年6月9日、死去した報に触れたかどうかは、わからないが、平盛国は1186年7月25日に餓死したと言われます。享年74。

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