平頼盛(たいらのよりもり)の解説 源頼朝を救った池禅尼の子

平頼盛とは

平清盛から15歳離れた平頼盛(たいらのよりもり)は、平安時代1133年の生まれで平忠盛の5男。
父は平忠盛で、母は藤原宗子(正室)。平清盛とは母が違う異母弟となる。
1149年に、藤原宗子(正室)の子である兄の平家盛が病死すると、平氏の後継者の1人として注目されるが、平清盛の方が15歳年上であったため、後継者から外れた。
しかし、平頼盛はただ一人の正室の子と言う事もあり、家中では優遇されたようで、17歳にして常陸介に任じら、平頼盛は平氏一門の中でも平清盛に次ぐ存在だったようだ。


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平家一門とは特異な行動を取った平頼盛

平清盛の活躍もあり保元の乱の後らは、平頼盛は兄・平教盛と共に昇殿を果たし、平頼盛は平清盛の知行国であった安芸国を受領した。それまで平頼盛が知行していた常陸国は兄・平経盛が任される。平教盛は淡路守であり、平氏は兄弟で合計4つの知行国を得た。
1157年、信西が大内裏の再建を行い、平頼盛が貞観殿の造営を担当。その功により従四位下に叙せられた。
1158年8月には2回目の常陸介となり、10月には藤原顕長と知行国を交換し三河守となった。この年には平清盛の長子・平重盛も遠江守となっている。
平頼盛と平重盛は、叔父と甥の関係だったが歳の差は5歳で仲もよかったとされ、平氏棟梁である平清盛が全体をまとめ、平頼盛・平重盛が支える形となった。

1159年、藤原信頼と共に、源義朝(源頼朝の父)が内乱を起こす(平治の乱)。この時、平頼盛は27歳、平重盛は22歳。平治物語では平重盛の活躍が華々しく記載されているが、平頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦に参加。
平頼盛は源義朝との郁芳門での戦いには敗れたが、藤原信頼らを仁和寺で捕えた功により尾張守となった。そして、1160年2月、平頼盛の郎等である平宗清が、東国に逃亡中の源頼朝(14歳)を尾張国で捕らえる。
しかし、平清盛は池の禅尼(宗子)の助言もあり、源頼朝を助命。この事から源頼朝は、池の禅尼(宗子)を命の恩人とし、池の禅尼の子である平頼盛に対しても、今後危害を加える事はしないと誓ったようだ。

平治の乱の後、平清盛は平氏一門で初めての「公卿」に出世した。
その恩恵を受ける形で、1160年、平清盛の子である平重盛は従四位上・内蔵頭となり、1162年には正四位下、1163年には従三位、1164年には正三位、1165年には28歳で早くも参議と出世を続けるが、その一方で平頼盛は33歳でも正四位下・修理大夫と、平家一門の中でも存在感が薄らいだ。
しかし、1165年に二条天皇が崩御し、1166年に摂政・近衛基実が亡くなると、二条親政派は崩壊し、後白河院政派が復活した。
これにより、1166年7月に、平頼盛は大宰大弐となり、8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。
11月頃、当時としては異例な事となるが平頼盛は京を離れて、大宰大弐として大宰府に赴任しているが、長期間、九州に滞在するのは不可解な行動であった。しかし、宗国との貿易を盛んにする事は、平氏にとっても悪くない事から黙認されていたようで、1167年正月に六条天皇が院御所に行幸すると、平頼盛は九州にいたにも関わらず正三位に叙せられている。
そして、4月には京に戻ったようだ。


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1167年5月10日に、東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が、平重盛に対して下されたことで、平重盛は国家の軍事・警察権を正式に委任される立場となり、1167年5月17日には平清盛が太政大臣を辞任。これにより、平清盛の平氏棟梁の地位は、平重盛に継承されることになった。
1167年8月には平重盛の弟・平宗盛が参議に昇進して、平氏4人目の公卿となる。
1168年8月、平頼盛より位階が下の兄・平教盛が参議に任じられ、平氏5人目の公卿となる。平頼盛は正三位だったが、この時点でも参議にはなっていなかった。そして10月18日に悲願だった参議に、平頼盛が就任。
しかし、わずか一月後の11月28日に、子の平保盛と共に、全ての官職を解官されてしまう事態となった。

解官理由として、平保盛に関しては五節の節会で舞姫参入・御覧の儀式の勤めを、後白河法皇の指示に従わず、毎度怠ったこと。
平頼盛に関しては、3月26日の滋子の代始めの入内に奉仕しなかったこと。休暇願いを出さずに無断で厳島神社に参詣したこと。鎮西を知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役を勤めなかったこと。
これらは、高倉天皇の即位や妻の滋子に関することであったため、後白河法皇の怒りを買ったようだ。

しかし、それ以外にも12月には平頼盛の家人6名が解官され、平頼盛は軍事行動力を失った。
この時期、健康が優れず、平重盛が権大納言を辞任しているので、解官の背景には、独自行動を取っていた平頼盛のクーデターなどを警戒した、平清盛の思惑があったのかも知れない。
約1年間失脚したが、1169年11月になると、平頼盛は出仕が許された。

復帰後、平頼盛は平清盛に従順する行動を取るようになり、平清盛も、平頼盛を完全に排除するのは得策でないと判断したようで、以後は積極的に活用したようだ。
1169年12月の嘉応の強訴では、平頼盛は、平重盛・平宗盛とともに京都防衛にあたり、平頼盛・平重盛が京都防衛の要だったことが伺える。

1172年に、平頼盛の嫡男・平光盛が誕生。平頼盛の正室は八条院の女房である大納言局だが、婚礼時期はわかっていない。
八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られ大きな財力と武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。
八条院とは美福門院以来のつながりがあり、平頼盛の邸宅も接していた。二条親政派が失脚したとは言えその勢力は衰えず、後白河法皇や平氏にとっては敵に回すとやっかいであったことも考えられ、そのため、平頼盛は一目置かれる存在になった。
 
1174年8月、平頼盛は近衛基通の従三位叙位の拝賀に、平清盛の指示で付き従い、1176年3月には、後白河法皇の50歳の祝賀として法住寺殿で催された式典に、平家一門として出席するなどしたが、官位は正三位・参議のままだった。


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1176年7月に建春門院が死去すると、今まで隠されていた後白河法皇と平氏の対立が表面化する。
そんな対立のさなか、1176年12月5日に平頼盛は権中納言に昇進したが、この昇進には後白河法皇の意向が大きく反映されており、後白河法皇と平氏の対立の中でも、平頼盛は後白河法皇側として存在している事を物語っている。

1177年、平重盛は左大将、平宗盛は右大将となり、後白河法皇は福原も訪問。
しかし、加賀国目代・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光であったことから、本寺にあたる延暦寺が、4月に加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こすと、後白河法皇は藤原師高の父・西光の進言で延暦寺の天台座主・明雲を解任、伊豆国配流を命じた。しかし、延暦寺の僧兵が明雲を奪還した。兵を率いる平重盛・宗盛が「清盛の指示がなければ動かない」と出動を拒否したため、後白河法皇は福原から平清盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じる。平清盛はやむを得ず出兵を承諾するが、内心では事態の悪化を招いた後白河院と西光を快く思ってはいなかったようだ。
その攻撃直前の6月1日、多田行綱の密告により平氏打倒の陰謀があることが発覚。(鹿ケ谷の陰謀)
これにより、西光は平清盛によって処刑され、その謀議に加わっていた法勝寺執行・俊寛が、平頼盛の妻・大納言局の兄弟だったことから、平頼盛も疑われたようだ。
この事件により後白河法皇は有力な近臣を失い、政治的地位の低下を余儀なくされる。

1178年、中宮・徳子が懐妊し、徳子出産に関連する行事には、平重盛・頼盛・時忠・維盛の4人が多く参仕していたことが確認できる。このうち平重盛は徳子の養父であり、平時忠・平維盛はそれぞれ中宮権大夫・権亮なので参列も不思議ではないが、平頼盛は徳子とこれといった関係はなく、鹿ケ谷の陰謀も冷めやらない中で、平清盛の疑念を払拭するための行動とも考えられる。
1179年に平重盛・盛子が死去すると、後白河法皇はその知行国・荘園を没収。特に盛子は前摂政・近衛基実の未亡人として膨大な摂関家領を相続していたので、平氏にとっては大きな経済的損失となった。
そして、平清盛の意向を組む基通ではなく、関白・松殿基房の子・師家が権中納言に就任したことで、11月14日、平清盛はクーデターを起こした(治承三年の政変)。


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この結果、近衛基房は関白を罷免されて追放、反平氏公卿・近臣39名が解官、後白河法皇は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止された。
この時、平頼盛も兼官の右衛門督を解官され、京では平清盛が六波羅にいる平頼盛を討つという噂が広がったり、平頼盛の所領が全て没収されたという噂も出たりしたようだが、平頼盛は平清盛に逆らう意思はなく、1180年正月には早くも出仕を許された。言仁親王即位に向けて平家一門の結束が図られ、平頼盛も政権中枢に迎え入れら、4月の安徳天皇即位に伴う叙位では、平家一門で唯一、平頼盛だけ叙位され、従二位となった。このことからも、政権内部において平頼盛が重んじられたことが伺える。
しかし、一門内での平頼盛の特異な立場が変わったわけではなかった。

1180年5月、以仁王が挙兵する。以仁王は八条院の猶子であり、八条院女房で「無双之寵臣」と呼ばれた三位局を妻としていたことから、以仁王が八条院の支援を受けていることは明白だった。
この時、平清盛は高倉院政を軌道に乗せようとしており、ここで八条院と全面衝突になることは避けたかったが、八条院の支援を受けている以仁王をそのまま放置することはできず、平頼盛に捜索命令を出した。平頼盛が選ばれたのは妻が八条院の女房で、八条院との交渉には最適と判断されたためだが、平頼盛にすれば気の進まない役割。しかし、命令には逆らえず以仁王の子の身柄を確保し、出家させた。そして、以仁王を匿った園城寺を攻撃することが決まると、平頼盛は攻撃軍の大将の一人に選ばれてた。
1180年6月になると、平清盛は突如として福原行幸を強行。福原では、なんと平頼盛の邸宅が内裏となり、次いで高倉上皇の御所となった。平頼盛は邸宅を提供した功により正二位。
福原遷都計画は思うように進まず、全国各地で反乱が勃発。
11月には富士川の戦いで平家軍が大敗したという報告が福原に届き、平頼盛と平教盛が新たに東国追討使として赴いた。
平清盛は福原遷都を断念し、11月26日、京都に戻った高倉上皇は、平頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床につく。
1181年正月14日、高倉院が池殿で崩御する。後継者であった安徳帝は、まだ幼く政務をとることはできず、後白河法皇の院政再開は避けられなくなった。
平清盛は畿内惣官職を設置して平宗盛を任じ、2月17日には警衛のためという理由で安徳帝を八条に新造された平頼盛邸に遷すなど、矢継ぎ早に対応策を講じたが、閏2月4日に死去。
高倉天皇と平清盛の相次ぐ死は、国政における最高権威と実質的指導者が一挙に失われたことを意味し、平氏にとっては致命的な大打撃となった。


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平清盛の死後、平宗盛は「今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候」と表明し、後白河法皇に恭順する姿勢を示した。
この平宗盛の発言を受けて、後白河法皇は公卿議定を開催し、追討の中断を決定する。静憲が平宗盛に議定の決定を伝えると、平宗盛は追討使として弟・平重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。
静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、平宗盛は「平頼盛・平教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答。
後白河法皇と平宗盛の間には早くも不協和音が生じたが、この問題に関して平頼盛は平宗盛の諮問を受けており、平頼盛が政権にとって重要な立場にあったことが分かる。
4月10日、安徳帝が八条の平頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で平頼盛の子・平保盛が加階されることになった。
しかし、平保盛は正四位下であり、これを昇進させると平通盛(平教盛の子)・平経正(平経盛の子)より突出してしまうとして、平頼盛は平光盛に賞を譲らせた。
このように、平頼盛自身、平家一門の中での内紛を避けるために、配慮していたことも分かる。
9月には熊野で反乱が起こり、紀伊の知行国主であった平頼盛が追討使に選ばれた。しかし翌月、遠征軍の編成が行われた結果、北陸道は平知度・平清房(平宗盛の異母弟)・重衡・資盛が担当。東海道・東山道は平維盛・平清経(平重盛の子)。熊野は平頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は平宗盛・平教盛・平経盛・平頼盛・平知盛が担当することになった。
この時、平宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢であると考えられる。
平宗盛が平氏棟梁の地位を確立するために、最大の障害は平重盛の小松家だった。小松家を抑えるためには、知行国を有して半独立的な位置にある叔父たちと密接に連携する必要があり、その 叔父たちの中で、平宗盛が最も気を遣っていたのが平頼盛だった。
その為、1183年2月、平宗盛の嫡子・平清宗と、平頼盛の娘の婚姻が成立している。
平宗盛が内大臣を辞任する際には、平宗盛のもとに、知盛・重衡・頼盛・時忠・親宗が集まっているが、叔父としては平頼盛だけが出席しており、平宗盛が平頼盛を重視していたことが分かる。4月、平頼盛は権大納言に昇進。六波羅の池殿に住んだので,池殿・池大納言などと称された。しかし、平氏政権の崩壊は目前に迫っていた。


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1183年5月、平氏の北陸追討軍は木曾義仲に撃破(倶利伽羅峠の戦い)されて、平家有利の軍事は崩壊。7月24日、平宗盛は都に迫った木曽義仲軍を防ぐために、平頼盛に山科方面への出兵を要請。
7月25日未明、後白河法皇は比叡山に脱出。これを知った平宗盛は、午前中、平氏の邸宅が多くあった六波羅に火を放って都を脱出した。しかし、山科防衛に出動していた平頼盛に、都落ちする知らせは届いておらず、平頼盛は都落ちした、平宗盛のもとに子の平為盛を派遣して事情を問いただした。

平頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており、後白河法皇に保護を求め、後白河法皇は平頼盛に、八条院の常盤殿に身を隠すことを指示。この時、平資盛も後白河法皇を頼っているが、拝謁を許されず、26日早朝に都を離れている。
28日、後白河法皇は平氏追討・安徳帝の帰京・神器の回復の方策を立てるため公卿議定を開催。この議定では、平頼盛の処遇も議題に上がると、吉田経房は「帰降者を成敗した例はなく、平頼盛は都落ちには同調せず、一族であったため一時的に行動を共にしたに過ぎない」と発言し、出席者も賛同。しかしながら。木曽義仲軍が都を占拠している状況では、平頼盛は処分を免れることはできず、8月6日に他の平氏一門とともに解官された。

解官後の平頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の源頼朝と連絡を取っていたと考えられるが、後白河法皇の意向だった可能性もある。
後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を源頼朝、第二を木曾義仲とするなど、木曽義仲を低く評価し、源頼朝の上洛を期待していた。
8月14日、木曽義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張し、後白河院の怒りを買い、後白河法皇が宣旨を源頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、平頼盛逐電の情報が流れる。閏10月になると、親鎌倉派である一条能保(源頼朝の義弟)・持明院基家(平頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。


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平頼盛も木曾義仲の追及をのがれるため鎌倉に亡命。平頼盛は唐綾の直垂を着て立烏帽子を被り、息子たちと郎等2人を従え、刀剣を持たない姿で、源頼朝と対面。源頼朝は白糸葛の水干を着て立烏帽子を被り、郎等50人が背後に群居していたようだ。
源頼朝は、居館から約1日の行程にある相模国の国府を平頼盛の宿所に充て、相模の目代を世話役にしたという。源頼朝は平頼盛を父の如くもてなし、後白河法皇や八条院と太いパイプを持つ平頼盛が味方についたことをーに、心強さを感じていたようだ。源頼朝は平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと、自身の上洛を中止して弟の源義経中原親能を代官として都へ送った。
1184年になると木曽義仲が滅ぼされ、一ノ谷の戦いで平氏も屋島に撤退し、京都は源頼朝の勢力下となった。その後の平頼盛は、源頼朝のために八条院や後白河法皇に働きかけ、兼実を摂政にするよう工作したようだ。4月、源頼朝は平頼盛に荘園33ヶ所を返還したが、この荘園の返還は源頼朝による本領安堵であり、平頼盛はこれによって鎌倉との主従関係に組み込まれたとする見方もある。

その後、平頼盛は一旦帰京したようだが、5月3日に改めて正式に関東に下向。この時、平頼盛は平宗清にも同行を命じるが、平宗清は固辞。5月21日、源頼朝は高階泰経に書状を送って、平頼盛と子息の本官還任と源範頼・源広綱・平賀義信の国司任官を要請。
6月1日、源頼朝は平頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。宴には御家人の中から「京都に馴るるの輩」が集められ、銭別として、金作剣一太刀・砂金一袋・鞍馬十疋が贈られた。源頼朝は平宗清のためにも銭別を用意していたが、姿を見せないので残念がったようだ。平頼盛は源頼朝に、平宗清は病気のため到着が遅れると伝えていたとのこと。1184年6月5日、平頼盛は帰京すると正二位・権大納言に還任。子の平光盛は侍従に、平保業は河内守となった。

京都に戻った平頼盛は、再び朝廷に出仕。12月16日には後白河法皇が八条室町の平頼盛邸に御幸し、摂政・近衛基通の春日詣の行列を見物している。平頼盛の地位は安定したかに見えたが、法住寺合戦を前に京都から逃亡したことや鎌倉で厚遇を受けたことで、院近臣の反発を買い、朝廷内で孤立したと推測される。12月20日、平頼盛は権大納言を辞任、平光盛を近衛少将に任じることを奏請した。
1185年3月、平氏一門は壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡。それから程なく源頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得ると、平頼盛は5月29日、東大寺で出家して法名を重蓮と号した。翌月、後白河法皇は播磨国・備前国を院分国として、知行権を平頼盛に与えた。この措置は源頼朝の要請によると見られ、平頼盛は藤原実明を播磨守、平光盛を備前守に推挙した。
これ以降、平頼盛は八条室町の自邸に籠居して表舞台にほとんど姿を見せなくなる。
1186年正月に後鳥羽天皇の方違行幸が行われた時、八条院の邸宅が地震により破損が著しく修復も済んでいなかったため、隣の平頼盛邸に白羽の矢が立ったが、平頼盛は「家に穢れがある」と称して固辞した。あるいは、すでに健康を害していた可能性もある。


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1186年6月2日、平頼盛は54歳で死去。この頃、幕府の京都守護・一条能保は源義経の捜索に没頭していた。
九条兼実も平頼盛の死を日記に記すことはなく、その死は周囲から忘れ去られたひっそりとしたものだったと言う。

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