中原親能の解説【鎌倉殿の13人】朝廷・公家との交渉役

中原親能





中原親能とは

中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉時代初期の貴族で、1143年に中原広季(藤原光能?)の子として産まれました。
この中原氏は、儒学者を輩出する家柄で、儒学の研究を行っていましたが、法律の専門家でもあります。
父親に関しては、藤原光能(みつよし)とする説もあり、母が中原広季の娘であったため、中原広季の養子になったしています。
公卿・藤原光能との交渉は、源頼朝の親しい文覚と言う僧侶が行き来して、やり取りをしていました。
藤原光能は、源頼朝のために、後白河法皇平清盛追討の院宣を出すよう、進言しています。



幼い頃、中原親能は、波多野義通の弟で相模国足柄上郡大友郷(小田原市東大友)の大友経家(大友四郎経家、波多野経家)から養育を受けたとされます。
そのため、伊豆に流罪となっていた源頼朝とも、古くから知遇を得たようです。
また、中原親能は、大友経家の娘(波多野経家の娘)を室に迎えました。
この波多野経家の3娘・利根局は、伊豆にて、源頼朝の侍女を務めていたようです。
そして、八重姫よりも早い、1172年には、源頼朝の側室になったとあります。
その後、利根局は、京にて源雅頼の家人を務め、斎院次官(さいいんすけ)だった、中親能原の妻になりました。
そのため、利根局が産んだ、大友能直は、源頼朝のご落胤とする説もある次第です。

木曽義仲が京に入ると、鎌倉勢は討伐軍を派遣することになり、1183年10月、源義経の軍勢が上洛します。
この時、京にて法律の専門家であった中原親能(40歳)が、源頼朝の代理として、鎌倉から上洛して、公家・朝廷との交渉を担当しました。
ただし、中原親能が、どのような経緯で、すでに鎌倉にいて、早くから源頼朝の仕えていたのかは、わかっていません。

源頼朝が挙兵してから4ヶ月後の1180年12月6日早朝、平時実(平時忠の子)が中原親能を尋問するため、京の邸宅を捜索したとあります。
しかし、もぬけの殻であったことは、わかっています。

2人の父ともされる後白河天皇の近臣・藤原光能の妻は、1160年、平治の乱で源義朝に従った足立遠元の娘であり、また中原広季の娘も藤原光能に嫁いでいます。
そのため足立遠元・安達盛長と、中原親能・大江広元の4名は親類と言え、この関係で、源頼朝に仕えるため、鎌倉に向かった可能性があります。

1184年1月にも、再度入京して、後白河法皇や貴族などとの交渉を行い、鎌倉に戻ったあとは、平家追討軍の奉行として再び上洛するなど、東西を奔走しています。
なお、5歳違いの弟とされる中原広元(大江広元)も、この頃から、鎌倉に下り、兄弟で源頼朝の側近となり、公文作成業務などを行いました。
鎌倉幕府公文所別当に大江広元が就任し、中原親能・二階堂行政・足立遠元・中原秋家・藤原邦通は、公文所寄人(よりうど)となっています。



鎌倉幕府における公文所(くもんじょ)と言う意味は、幕府の政務・財政、文書の管理などを担当したと言う事が言えます。
なお、公文所や政所と言う機関は、鎌倉幕府だけが用いていたと言う事ではありません。
本来の公文所は、全国各地の国衙・荘園などにも設置されていて、公文作成の業務やその公文書管理などを担っています。
その後、鎌倉幕府の公文所は「政所」と名称が変わります。
これは、親王、従三位以上の公家であると、政所(まんどころ)を開設できる権利があることから、1190年、源頼朝が従二位で公卿になった際に、鎌倉幕府に政所が設置され、公文所の実務が引き継がれ、一般政務・財政管理ょ行ったと言う事になります。
ただし、公文所じたいが無くなった訳ではなく、公文書の保管は、引き続き、公文所にて行いました。
話がそれてしまい、申し訳ありません。戻します。

1185年、中原親能は、源範頼の参謀となって、北条義時足利義兼千葉常胤三浦義澄八田知家・葛西清重・小山朝光・比企能員和田義盛工藤祐経天野遠景らと陸路から平氏を追い詰め、海路からの源義経らと、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
そして、鎌倉に戻ると、幕府の中枢にて引き続き活躍します。
1186年、源頼朝の次女・三幡が誕生すると、中原親能の妻(波多野経家の娘?・亀谷禅尼)が乳母になっています。



1191年1月15日、政所の公事奉行人となり、朝廷と幕府の折衝役を長く務めたことから、京都守護とも称されました。
1194年、源頼朝が奈良・東大寺大仏殿内の二菩薩と四天王の造像を行った際に、中原親能は虚空蔵菩薩像の寄進を担当しました。

1199年、源頼朝が死去し、源頼家が2代鎌倉殿になると「十三人の合議制」のひとりに、大江広元と共に選出されています。
1199年6月25日、三幡が危篤になると、京から鎌倉へ駆け戻ったとあり、京から医師・丹波時長も呼び寄せています。
6月30日に、三幡が亡くなると出家し掃部頭入道寂忍と号しました。
亡くなった三幡は、中原親能の鎌倉屋敷があった、亀ヶ谷(扇谷)に建てた亀谷堂に葬られたともされます。
下記は、鎌倉・亀ヶ谷(扇ガ谷)にある、大姫関連の岩船地蔵堂ですが、この付近に屋敷があったようです。

岩船地蔵堂

1205年10月には、嫡男・中原季時(なかはら の すえとき)が、京都守護に任じられ、山門騒動の鎮圧などに活躍が見られます。

1209年12月18日、中原親能は、京都滞在中に死去しました。

京にいたと推測される、妻の亀谷禅尼は、大津の石山寺にて余生を過ごしたようえで、宝塔院を建立して源頼朝の菩提を弔ったとされます。

大友氏との関係

なお、中原親能の妻の妹・利根局が産んだとされる子に、相模国足柄上郡大友郷を領した大友能直(おおとも よしなお)がいます。
この大友能直は、早くに父を無くしたことから、中原親能が養子に迎え、一時、中原能直と称しました。
養子になった時期は、源頼朝が挙兵する前あたりの年代だった可能性があります。
中原能直(大友能直)は、源頼朝の近習も務め、曾我兄弟の仇討ちでは、源頼朝の身柄を守りました。
大友氏は、筑後国守護であり、戦国時代臼杵城主・大友宗麟に繋がります。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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