八田知家 源氏4代に仕えた常陸守護【鎌倉殿の13人】

常陸・小田城

八田知家とは

戦国時代、常陸国の名家として名を馳せていた小田氏
その祖を辿ってみると、なんと鎌倉時代に源頼朝と共に戦った御家人にまで遡りました。
その御家人は八田知家(はった-ともいえ)という人物で常陸・小田城の築城主でもありました。

今回は、小田氏のルーツである知家の生涯を紹介したいと思います。

源氏に仕え、平氏追討軍へ

知家は宇都宮氏の2代目当主である八田宗綱の4として康治元年(1142年)に生まれます。異説では源義朝の子ともされていますが、確証は有りません。仮にこの説が確証を得たのであれば、知家は頼朝と兄弟関係になります。

知家が歴史の表舞台に立つのは保元元年(1156年)に起きた保元の乱で、知家は源義朝のいる後白河天皇側につき、勲功を挙げました。そして治承4年(1180年)、頼朝が平氏打倒のため挙兵した際は早くに頼朝の元へ馳せ参じ、その功績からか下野国茂木郡の地頭職を任されます。

また、寿永2年(1183年)には頼朝に反旗を翻した頼朝の叔父、志田義広を敗走させた野木宮合戦、翌年には頼朝の弟である源範頼に従い、平氏追討軍に加わります。そして、寿永4年(1185)の葦屋浦(あしやうら)の戦いに知家は参戦し、平氏滅亡に貢献しました。

しかし、知家は九州に行く途中で頼朝に無断で右衛門尉に任官されていたので、これにより頼朝から罵倒されることになります。

それでも頼朝に付き従い、文治5年(1189年)の奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦では、東海道大将軍に任ぜられ、岩城方面から奥州藤原氏を追い詰めました。

そして、建久4年(1193年)に行われた富士の鷹狩りの直後に起きた曽我兄弟の仇討の際、混乱に乗じて常陸国の権威を巡って争っていた多気義幹(たき-よしもと)に策を巡らせました。

知家が行った策とは?

策というのは巧妙な誘導でした。

まず、知家は義幹に対して「八田氏が多気氏を攻めようとしている」という噂を流します。それを聞いた義幹は、居城に兵を集めました。

そして知家は義幹に頼朝のいる富士で仇討が起きたので共に急行するように誘います。しかし、義幹は知家が討とうとしていると思い込み、知家からの誘いを断ると、居城の防備を固めてしまいます。この様子をみた知家は「義幹は鎌倉幕府に謀反を起こそうと兵を集めている」と報告。そして、この件に関して義幹は幕府に弁明しますが聞き入れてもらえず、所領は没収されてしまいました。

この事件を「建久4年の常陸政変」と呼ばれており、この期を境に知家は本拠地を常陸に移し、常陸守護に任命されました。

十三人の合議制の1人となる

建久10年(1199年)に頼朝が没すると、鎌倉幕府2代将軍となった頼家の専制政治を抑えるために結成された集団指導体制、十三人の合議制の1となります。その後、建仁3年(1203年)には頼朝の弟である阿野全成(あの-ぜんじょう)が反頼家を形成したので、知家は頼家の命によって、謀殺しました。

そして、義朝から実朝まで源氏4代に仕えた知家は建保6年(1218年)に77歳で生涯を閉じました。

寄稿(拾丸)

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