小田氏の存亡~常陸・小田家の命運


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小田家最後の大名・小田氏

 戦国時代末期に小田氏は滅びることになるが、その最後の当主となった第15代小田氏治(おだうじはる)について、記録を残しておきたい。
 小田氏治(1534年~1602年1月6日)は、父である第14代・小田政治の子。
 小田氏治の子には、小田友治、小田守治がいる。

 1548年に父・小田政治が死去(享年56)。小田氏治が家督を相続。しかし軍事行動を積極的に行い戦国大名へとなんとか発展することができ、器量ありと言われた父・小田政治と小田氏治は正反対で、暗愚(あんぐ=愚か)と呼ばれ、政治力・統率力も低く、戦もうまくないと良い所は1つもなかったようで、実際、戦国シュミレーションゲームに登場する小田氏治もレベルは最低の部類に入る。
 父の晩年に上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍に加わり、小田原・北条氏康軍に負けた川越夜戦(1546年)以降、既に小田氏の衰退は始まっており、より一層激しくなる戦国末期、戦いに明け暮れる消耗戦となる。
 小田氏治の時代になると小田家臣・菅谷勝貞の土浦城には、信太範宗の三男で前沢家に養子に入っていた信太重成が入った。
 菅谷勝貞と政貞の父子は土浦城を出て藤沢城に移り、宍倉城は一族の菅谷隠岐守がそのまま在城した。
 菅谷政貞は小田氏治の右腕として、弱小になっても小田家を良く盛り立て、特に外交で手腕を発揮。他国でも名を知られる存在となる。

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小田氏滅亡の年表

 小田氏滅亡に関しては、常に戦をしていたことがわかるよう、年表としてご紹介したい。ただし、下記の年月日、また内容は、不明瞭な点も多く、文献でも同じ戦が別の年代で表現されたりと、真実と異なる部分もある為、随時加筆・修正を行っている。また、おかしな点はなにとぞご了承願いたい。

 1555年、川越の戦い以後、小田原北条氏に傾いていた結城政勝を以前からの盟主上杉勢と共に攻めたが敗戦。

 1556年、北条氏康は小田氏攻略を結城政勝と打ち合わせし、2月下旬、北条氏家臣の遠山綱景・太田資正古河公方義氏下命の壬生綱房・千本義通・佐野氏・茂呂氏、それに小山高朝、多賀谷政経(下妻)、真壁久幹(真壁)・水谷治持(下館)・山川直貞らの諸氏が加わり、小田領の海老名城・平塚長信を攻撃。
 3月5日、小田氏治は救援を送るが山王堂(明野町)で敗戦し海老名城は落城。(第1次山王堂の戦い=海老ケ島の戦い)結城勢は勢いに乗り小田城も攻め小田氏治は敗走し、家臣の菅谷氏の土浦城に撤退する。手子丸城主・赤松則定ら討死。
 4月5日、結城政勝は小田氏の所領中郡42郷、田中庄、海老ヶ島、大島、小栗、沙塚、豊田などの地を占領した。
 8月23日、土浦城に逃げていた小田氏治は、小田城を攻めて結城勢を追い払い奪還。海老ヶ島城も回復し、旧領を取り戻す。

 1557年、下妻城(多賀谷政経)を攻めるが、佐竹義昭の援軍を受けた多賀谷氏に大敗を喫して土浦城に逃れる。

 1558年、長尾景虎(上杉謙信)が、関東に影響力を持とうと上野に進出。上杉側の力添えを得た佐竹・多賀谷氏は、この年小田城を3度攻め、小田氏治は3度土浦城に撤退する。 3月10日、太田資正が小田城を攻めて小田氏治と戰い、小田方の菅谷範政の嫡子・菅谷政頼が32歳にして討死。

 1559年、土浦城主・菅谷政貞の活躍で小田城を奪回するが、3月5日、小田氏治は結城氏に侵略されたる旧地を回復せんと、飯塚氏、赤松氏、岡見氏、只越氏らを率い結城晴朝を攻める。小山城主・小山高朝、下館城主・水谷治持、水谷正村、真壁城主・真壁久幹、羽石盛長等が結城城に籠って迎撃。小田勢が撤退すると、結城晴朝は水谷氏を先陣として小田に向い、小田方の属城である北條城を取る。佐竹義重、多賀谷政経らはこれに乗して小田方の海老ヶ島城を攻め奪う。
 9月には小高城主・小高氏が一族である玉造城主・玉造宗幹や手賀城主・手賀景幹らと内紛を起し、小高氏は菅谷貞次を通じて小田氏治に加勢を求める。小田氏治は後詰加勢として、小高城の南方に出陣したが、石岡府中城主・大掾貞国が玉造氏や手賀氏側に加勢して小田領内に出兵し、小田方の属城二城を攻略し、また山田治広、武田通信、江戸忠通らも大掾貞国に人質を送っていた為、小田氏治は北部を通って退陣したが、途中、青柳において追撃されて敗北する。
 小田氏治は長尾景虎に降参し、長尾景虎の斡旄によって佐竹義昭と和議を結ぶ。

 1560年、小田氏治は佐竹氏と宇都宮氏に近づき、結城政勝の甥晴朝が結城氏17代目となり、結城晴朝が関宿城に在城する古河公方・足利義氏のもとに年賀拝礼に出かけた留守を狙い、1月4日、小田氏治・佐竹義昭・宇都宮広綱らは出陣する。
 1月6日、結城晴朝はすべての家臣・兵を結城城に集める。
 1月7日上杉方勢が結城城を攻撃、下妻の多賀谷政経の謀反もあり、下妻の多賀谷重政、多賀谷政経父子は青谷瀬々より攻め、小田氏治、佐竹義重らは北門より攻め、宇都宮広綱は南門より、榎本の兵は西ノ宮口より結城城を攻める。結城城は落城寸前になるものの古河公方の調停で和睦した。これによって海老ヶ島城は再び小田氏に戻り、平塚大輔が城主となる。
 佐竹義昭は小田原北条氏の関東北進を阻止する為、長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣を要請。長尾景虎は北関東を転戦し上野を制圧。厩橋城で年越しする。
 (1560年は今川義元が桶狭間で戦死)

 1561年3月13日長尾景虎は小田原城を総攻撃。この小田原攻めには佐竹氏も参陣。小田氏、宇都宮氏・真壁氏・多賀谷氏・水谷しら北関東諸将らも参加した。小田原北条氏の進出を避けたいと言う点では利害が一致したようだ。小田氏筋では宍戸・筑波・柿岡・岡見らの小田一族、信太・田土部・福田・菅谷らの小田氏家臣も出陣する。
 3月16日、佐竹義重、小田氏治、下野国の宇都宮廣綱等の勧めにより、長尾景虎は小田原城攻めの包囲を解きて鎌倉に引揚げる。
 同じ3月16日、小田勢の宍戸四郎は結城勢の海老ヶ島城主・佐野氏を攻め破り、宍戸四郎は更に下妻城を攻め豊加美村の古沢において多賀谷政経と戦うものの敗北。

 1562年、勝倉城主・勝倉俊幹は水戸城主・江戸重通に従って山王堂において小田氏治と戦う。
 また、この頃、佐竹氏は真壁氏に接近し小田氏攻略を目指す。

 1563年9月、小田氏治は上杉輝虎との約束を破り、北條氏康、那須資長、結城晴朝らに通じ、小田原北条勢に味方することを約束し、小田原、小田、那須、結城が連合して、小田原北条(小田氏)X上杉謙信(佐竹氏)と言う構図ができあがった。

 1564年、上杉謙信は厩橋城に入り、1月27日、佐竹義昭・宇都宮広綱ら8000でが海老ケ島城を攻略。海老ケ島城主・平塚自省は討死。
 小田氏治は、敵を動揺させる為、手薄な敵地をつく姿勢を見せ、岩槻の坂戸城に出陣する。坂戸城主・小宅尚時は城を出て高森原にて迎撃したが敗北。坂戸城に籠城し、宇都宮城主。宇都宮広綱に援兵を願い、直ちに芳賀左ヱ門尉を始め川崎城主・塩谷朝定、仙波朝家らが加勢に出る。しかし、小田勢は信田頼範を大将として坂戸城を攻め、宇都宮の援軍の到着前に坂戸城は落城。小宅尚時父子は小栗城に逃げた。
 1月29日、小田氏治は海老ケ島への援軍として、菅谷政貞を先鋒に3000騎を率いて出陣し山王堂(明野町)で上杉輝虎・佐竹義昭・宇都宮広綱らと戦うが敗戦し、菅谷政頼らが討死。小田城も捨てて、藤沢城へ逃れ、さらに土浦城へ逃れた。
 その後、小田氏治は小田城に復帰したが、佐竹氏の攻撃を受けてまた土浦城に敗走し、小田領の30余ヶ所を奪われる。
 小田勢の小宅尚時らは坂戸城を奪還した。信太頼範は坂戸で討死したとも、小田城に戻っていた為、小田城陥落の際に自刀したとも言われている。
 1月30日、上杉輝虎は佐竹勢の多賀谷氏、真壁氏らに小田城を渡し、佐竹義昭に授けて帰陣する。
 8月、佐竹義昭は小田氏の旧領である坂田、田中、本郷、高岡、磯部の5ヶ所を大山十郎に与える。
 11月15日、佐竹義重は北條義則を小田城代にし、更に真壁や行方の諸族に命じて小田城を修繕を命じる。
 また佐竹義昭は石岡府中城主・大掾貞国を守る為に石岡府中城に入城して居住し、小田氏治を牽制する。

 1565年8月、佐竹義昭が石岡府中城で病死。佐竹義重が16歳の若さで家督を継いだ。すると、小田氏治は佐竹義昭が亡くなったのに乗じ、藤沢城から小田城の北條義則を夜襲して、小田城を奪還。更に木田余城も回復する。小田城代・北條義則は逃れて真壁から太田城に入った。
 上杉輝虎は小田氏治が小田城を奪還したことを大変怒り、大敵・上杉氏を敵に回すことになる。上杉謙信は越山して上野から下野佐野に出陣して越年する。

 1566年2月16日、上杉謙信は佐竹義重とともに小田城を総攻撃。小田氏治はまたまた小田城から敗走。春中捕虜の人身売買が行われ、一人二十銭、三十銭程で売られたと言う。 小田氏治は関東で完全に孤立することになったが、そんな小田氏にも優秀な武将が身を寄せることになる。
 5月、越後に居た太田三楽斉は、梶原政景を引連れて常陸・下野両国を流離し、小田氏治の家臣上幡城主・上曽氏俊を頼って小田氏治に仕えることを頼み、小田氏治は太田父子を召抱え、それぞれ1000貫の知領を与えて、太田三楽斉に片野城、梶原政景に柿岡城を守らせた。また、梶原政景を梶原景国と改名させて、信田重成、菅谷政貞らと共に小田家の重鎮と成った。太田三楽斉、梶原政景は共に武勇・智将として後世の評価が高い。
 しかし、その名将振りを見抜いていたのか、小田氏の待遇が低かったのか、小田氏治の力量を見限ったのか、すぐの6月に佐竹義重の誘いに応じて佐竹の家臣になる。佐竹義重は、真壁氏幹の娘をて梶原景国に嫁がせ、自ら太田三楽斉の娘を側室に迎えた。
 小田氏は、太田三楽斉、梶原景国に恨みを覚えることになる。一方、佐竹は名将を得て、両国拡大が加速する。

 1567年5月、小田氏治は稲川輝正忠遣いに出して、甲斐の武田晴信に始めて佐竹討伐の援助を願う。武田晴信も甘利左ヱ門尉の重臣をあてて接待したが、丁重に断わる。
 武田の援助は得られなかったが、小田氏治は北条氏康と同盟を結び、佐竹領となった旧領の回復に意欲を燃やし小田城の奪回も果たしている。
 しかしながら、上杉謙信の小田氏包囲陣の手は、緩められなかった。

 1568年、小田氏治は上杉輝虎に、城壁の修復をしない事を誓って上杉輝虎に降服する。

 1569年1月16日、佐竹義重は梶原景国、真壁氏幹、多賀谷氏らを出陣させて小田領の海老ヶ島城を攻め、城主平塚刑部大輔を降伏させる。
 1月21日、佐竹勢は筑波に侵入して三村(つくば市佐)に布陣。小田城の小田氏治を攻め、城外に放火して小田領の郷村を残らず焼き討ちし、数日後に帰陣する。
 前年より武田は駿河の北条領に進出しており、小田原北条氏に対抗する為、武田晴信と佐竹義重が4月6日軍事同盟を結ぶ。5月3日には、上杉輝虎と北条氏康が盟約を結ぶ事になる。
 5月15日、佐竹勢は若森に布陣。小田城を攻撃し、近辺の若森で麦作を残らず荒したが、小田氏治はこれを迎撃する。(久しぶりの勝利か?)佐竹義重は北恵悟を派遣し密かに小田城の地景を調べさせる。別の説では、佐竹義重が小田城を攻めたが、小田氏治は城外で迎え、佐竹勢に多大な損害を与たともある。
 10月2日、武田晴信が小田原城を包囲するものの、10月4日撤退。10月5日、三増峠の戦いになる。
 11月22日、佐竹勢の片野城主・太田三楽斉、真壁城主・真壁久幹らが、本腰で小田氏治を滅ぼさんと計画する。まずは、新治の上曽氏俊や小幡道三らに内通を勧めたが、上曽や小幡らは応じない。そこで、太田三楽斉は、上曽と小幡らが小田氏治に逆心を抱いていると流言を放つ。
 11月24日、上曽・小幡に逆心ありと小田氏治の耳に入ると、大いに怒り3700騎を率いて青柳山の手這坂(手葉井、手配、手這とも書く)を越えて小幡(八郷南部)に出陣。小田勢は柿岡に火を放ち、片野城の太田三楽斉を追い詰める。
 上曽氏俊、小幡道三らは部下の足立豊後守を使者として小幡山の小田氏治に使わせ、逆心の無き旨を伝へたが小田氏治は認めなかった。
 一般的には小田氏治が片野城攻めの為、動いたと言われているが、相手が太田三楽斉であることから、裏には上記のような策略があったと言う説をここでは採用した。
 片野城主・太田三楽斉、柿岡城主・梶原景国らは城を出て上曽・小幡勢を攻めた。
 また、真壁氏幹が増援に送った部隊が到着し始めたのが見えた為、小田勢は手這坂を下って一旦退却したが、真壁勢が増えないうちに片野城主・太田三楽斉、柿岡城主・梶原景国を攻略する方針に変更し、降りてきた手這坂をまた登り、夜明けを待って太田三楽斉・梶原政景父子らを討つ作戦に変更した。
 田伏(信太)兵庫・田土部弾正・信太伊豆守(治房?)らは、兵も疲れており、このまま小田城に引き返すことを提案したが、小田氏治の子・小田守治は「ひとまず引き返す気持ちは分かるが、梶原の首を取らずにおめおめと帰れぬ」と聞き入れなかった。これに対し、信太は戦を知らぬ揚言と笑い、小田守治はこの信太の態度に怒った。
 真壁勢と合流した太田三楽斉、梶原景国らは最新兵器の鉄砲3丁を小田勢に発射。谷田部城主の岡見治資が討ち取られると、小田勢は混乱する。それを見た佐竹勢は手這坂の上から一気に討って出て、小田勢は手這坂の下と地理的にも不利なことがあり、総崩れ。 信太兵庫・田土部弾正ら300騎以上の者が討死。これが手這坂の戦い(てばいざかのたたかい)と言われており、別名では手這山の戦い、手這山の合戦、手這坂の合戦、手這坂合戦とも言う。
 11月25日、真壁本隊は筑波山の西を南下し、手薄な小田城を落城させ篭城する。鹿島、玉造、手賀の諸族に花室城を守らせ、真壁久幹の子・真壁氏幹に小田城を与えようとしたが、元は小田家に組していた真壁氏幹が辞退した為、太田三楽斉の子・梶原景国(太田資正)に与えた。   
 小田氏治は藤沢城へ敗走。手這坂の戦いで大敗を喫する。

 1570年3月、佐竹勢の多賀谷政経、宍戸友秋、坪井内膳正らが小田領内に進出。多賀谷政経は筑波の大曽根、若森、山木、田中などの小田領を占領。そのうち大曽根に築城し、部下の白井全洞に守らせる。
 5月19日、佐竹義重は自ら小田城を視察し、城郭の修理・拡張を指示。太田三楽斉に小田城を預ける。
 8月13日、結城城の結城晴朝は宇都宮城の宇都宮国綱と同盟し、結城晴朝は小田城を攻める為、多賀谷、水谷、長沼らを先陣に6000騎を率いて出陣。
 石毛、豊田から筑波に侵入し小田領の大曽根城主浅野五郎左ヱ門、同藤右ヱ門、水守城主水守六郎、山木城主山木七郎、若林城主左藤弥左ヱ門、玉取城主左藤勘左ヱ門、同甚七郎、君島城主菊地隼人、田中城主長田主膳、蓮沼城主蓮沼庄司、口ノ堀城主三村三郎大夫らを次々に破って、平塚原に進み、酒丸の安楽寺に結城晴朝本陣を据える。
 10月20日、小田氏治は藤沢城の菅谷正光、強清水城の沼尻家忠らと共に平塚原へ反撃と出る。菅谷、沼尻は兵を3隊に分け、一手は猿壁より西に進み敵の中央を突き、一手は高田と酒丸の間に陣して敵の連絡を断ち、一手は中根、口堀から進んで敵の北方を突く。
 結城軍は不意を打たれて敗北し、吉沼に逃れ、各武将は居城に帰った。
 その後、小田氏治は土浦城を拠点として、前衛を藤沢城と甲山城として、鶴翼の陣を張る。

 1571年11月、小田氏治は上杉謙信に佐竹義重討伐を訴え、佐竹氏と上杉氏は対陣する。 1572年2月、上杉謙信と佐竹義重は和平。
 また1572年の冬までには、再び小田城を小田氏治は奪還していたと考えられ、12月、小田城では毎年大晦日に城内に家臣を集めて、新年を酒で祝いながら連歌の歌会を行いうと言う情報を得て、太田三楽斉は秘かに真壁久幹と相談し、佐竹氏、多賀谷氏にも加勢を願い、太田三楽斉、真壁久幹、多賀谷政経、岡谷縫殿介、根本太郎、白井全洞らが宴会に乗じて夜中小田城を攻める計画を立てる。

 1573年1月1日、小田城攻略の為、佐竹勢は3手に分かれて筑波に侵入。小田氏一族の北条城主・北条治高が佐竹勢に内通する。佐竹勢は小田城を攻め、小田勢を大島へ撃退し、更に追撃するが、小田勢の河合源五郎が佐竹勢の千田刑部少輔を討取り、佐竹勢を座王山に撃退する。藤沢城主り菅谷政貞は大島に出陣し、江戸山氏らと合流する。小田氏治と小田守治父子は小田城から脱出して一ノ矢の八坂神社に逃れた。
 1月3日、小田氏治は木田余城で軍議を開き、直鍋台に福田山城守、小野塚台に赤松三河守、虫掛館に中根主膳、神立台に塙山城守、坂田台に真家大成大夫、後陣の備へに木田余坂下に志筑左近大夫、木田余登城口に谷田部刑部らを配備する。
 1月4日、小田氏治は5500騎の軍勢を5手に分け、一隊は江戸山城守、二隊は志筑左近將監、三隊は菅谷左ヱ門大夫、四隊は小田三郎兵ヱ尉、五隊は長峰左近將監と定める。
 1月5日、小田氏治は中條出羽守を総大将として出陣させ、江戸山城守、志筑左近將監、菅谷左ヱ門大夫、小田三郎兵ヱ尉、福田山城守、長峰左近將監、原大学之介、月岡播摩守、平岡周防守、只越尾張守らが小田城を占領していた佐竹勢を包囲する。
 1月7日、手子生城(天児生城)主・矢口伊重は江戸山城守と共に奮戰して討死。
 1月10日、小田勢の長峰左近將監は小田城の南口門を攻めたが討死。小田勢は小田城の総攻撃を開始するものの、総大将の中條出羽守は太田口に撤退命令を出す。
 1月11日、佐竹勢は秘かに小田城をあとにして、山口や平沢を通って太田城に撤退する。
 1月12日、小田勢は小勢となった小田城を奪還。木田余城の小田氏治、小田守治父子は小田城に戻る。一説には、1月17日、木田余城の小田氏治が佐竹勢を退けて小田城を取り戻すともある。
 1月20日、佐竹義重が下妻城の多賀谷政経、下館城の水谷信濃守、片野城の太田三楽斉らを集めて、小田氏攻略の評定を開く。
 1月20日、小田勢の忍者である、頭目小田切頼昌が小田城に戻り佐竹勢の様子を報告する別記に、2月初旬、小田守治は木田余城に家臣を集めて評定を行い、大雪の降る中を急ぎ兵を率いて木田余城より出陣し、小田城を襲撃。菅谷左ヱ門尉、月岡大隅守、大藤、小幡らは小田城内に切り込み、佐竹勢は城を棄てて敗走したとある。
 2月7日 佐竹義重は下妻城の多賀谷政経に命じ、上大島城の平塚周防守を夜襲させて討取る。
 2月7日、小田氏治の次子・小田重治が討死。清滝観音別当清滝寺に埋葬する。
 4月11日、太田三楽斉、梶原景国、北条治高、真壁久幹、息犬太郎らは石田主水、大島藏人らに小田城を守らせて、藤沢城を攻める為出陣。藤沢城の小田氏治は小田守治、菅谷左ヱ門、由良憲綱、戸崎大膳亮、行方貞久、海上武経らと共に、田戸部川に出向き迎撃する。
 4月11日、武田信玄死去。
 4月24日、上杉謙信は小田守治に書状を送り、織田信長徳川家康らと共に、武田信玄を滅して、北条氏政も滅亡させようと図る。
 7月、佐竹義重が木田余城を攻めようと、まず宍倉城の菅谷勝則を攻め破った。菅谷氏は佐竹に人質を出して降服した。
 8月15日、藤沢城の小田氏治はより防御の高い土浦城に入る為、沼尻家忠を遣わせて土浦城主・信太重成に、城を草々に明け渡すようにと命ずるが、信太重成は先祖代々の城の為、拒否したとされ、菅谷範政(菅谷正光)に信太暗殺を命じ、信太氏は滅亡。小田氏治は土浦城に入る。
 8月25日、佐竹義重は小田領の戸崎城を攻め、戸崎長俊を降伏させる。
 9月30日、佐竹勢の太田三楽斉、梶原景国らは藤沢城の小田氏治・小田守治父子を攻め、同時に、北条治高、真壁久幹らは土浦城の菅谷正光を攻める。
 小田守治、由良憲綱、戸崎長俊、行方貞久、海上武経、小貝川輝賢らが藤沢の城外にて、太田三楽斉や梶原景国を迎へ撃つものの小貝川輝賢が討死。小田勢の河合弥五郎は佐竹勢の鈴木半藏を鉄砲で撃ち、兄源五郎の仇を討つ。
 10月20日、小田守治は藤沢城の外で陣取っていた太田三楽斉、梶原景国らを夜討して、小田城へ撤退させる。土浦城では菅谷氏、加茂兵藏、沼尻又五郎、片岡七郎左ヱ門、沼崎播摩らが討って出て、北条治高、真壁久幹らを破り、苅間まで追撃して土浦城に戻った。 太田三楽斉、梶原景国、北条治高、真壁久幹らは藤沢、土浦の戦いに敗北し。小田城・北条城の両城に戻り、佐竹義重に後詰めの加勢を願う。
 藤沢城の小田氏治は土浦城に移り、由良憲綱、戸崎長俊らを、藤沢城に入れる。
 10月28日、加勢に来た佐竹義重は、小田領小高館の小月輝正、永井館り前野七郎大夫、本郷館の井坂右近將監などを攻め破って攻略し、大志戸の甲山城・小神野経憲を攻めて包囲する。小神野経憲の父子は小勢にて防戦したが、頼みの浜野隼人、浜野太郎次郎父子を始め多くの部下が討死。甲山城を放棄して土浦城に逃れる。
 11月19日、佐竹勢の額田義房、塩井信行、太田三楽斉、梶原景国、北条治高、真壁久幹らが藤沢城を攻め、由良憲綱、戸崎長俊、平手伊賀守、足高加賀守、志筑左近、横山彈正、岩崎勘解由、甲崎四郎左ヱ門らが防戦するものの、足高加賀守、甲崎四郎左ヱ門、横山彈正、岩崎勘解由らが討死。平手伊賀守は谷田部城に敗走。志筑左近は志筑城に落ちる。由良憲綱、戸崎長俊らは生死不明に。藤沢城は落城した。
 11月24日、佐竹勢の額田義房、塩井信利、梶原景国らが土浦城の大手を攻め、海上武経が城を出て奮戦。太田三楽斉、真壁久幹らは搦手を攻め、小田守治、由良信濃守、岡見氏らが迎い撃つ。
 別記に、11月25日、小田氏治が片野城を攻めたが敗北して、小田城は太田三楽斉に攻略され、小田氏治は土浦城に退くとある。また一説に、11月26日、行方城の行方貞久が土浦城内に病死。佐竹勢は土浦城を包囲したとある。

 1574年2月24日、佐竹勢が土浦城を総攻撃。野中氏兼は小田氏治と篭り、沼尻播摩守は小田守治の身変りと成って土浦城で防戦。小田氏治・守治父子は土浦城から脱出し、秘かに片岡氏の中館城に落ちる。野中瀬鈍斉、沼尻播摩守らは土浦城に火を放ち、切腹。
 菅谷正光、由良成繁、岡見宗治、沼尻家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、雨宮、天野、吉原、木村、石堂などの16騎は、佐竹勢に斬り込みて生死知れずと成り、土浦城は落城する。
 8月25日、佐竹義重は小田氏治の属城である宍倉城主・菅谷勝則や戸崎城主・戸崎長俊らを攻め、城を奪う。
 小田家臣の江戸崎監物は裏切って佐竹方に寝返りする。
 小田友治は相模国入りし、関東公方足利義氏を通じて北条氏政に救援を懇願。 北条氏政は次男・北条氏房をして常陸国に出陣させ、佐竹家臣となっていた土浦城主・菅谷範政を攻める。菅谷範政は佐竹に降参していたが、それでも小田家に忠義を尽くしており、直ちに北条氏房に降伏。北条氏政は更に大道寺政繁、山角氏などに小田城主・梶原景国を攻撃させるものの。反撃にあい退いている。

 1577年、小田氏治は手子生城を奪還・入城し、飯塚美濃守に木田余城を、菅谷左ヱ門尉に土浦城を、平塚弥四郎に海老ヶ島城を守らせ、天羽三河守入道源鉄を軍師として白子谷、小張、手這山などににて佐竹勢や太田三楽斉と戦い、江戸山城守、大藤小太郎らの功績もあり領地の一部を回復する。

 1578年、木田余城が梶原景国勢に攻略され、小田氏治はすぐ近くの土浦城に逃れる。木田余城は土浦城主・菅谷範政によって一時回復されるが、ふたたび佐竹義重によって攻め落された。
 (1578年上杉謙信死去)

 1583年2月、小田氏治は孫の金寿丸を人質として佐竹氏に出し、佐竹氏の軍門に下った。
 以後1590年まで、佐竹に強力して、佐竹勢として出陣もしているが、100%佐竹の属国と言うことではなかったようで、独自に佐竹家臣の太田三楽斉、梶原景国らを攻撃したり、旧領奪還の為、単独の軍事行動も起こしている。

 1588年9月、佐竹勢の太田三楽斉、梶原景国、太田資武らは手配山の麓に出陣し、小田氏治と戦い、小田勢の先鋒である江戸山城守、大藤小太郎らが討死。
 
 1589年11月、小田氏治・小田守治父子は佐竹氏の白川攻めから、手子生城(てごまるじょう)に帰陣。回文を旧臣らに出したが、苅間城の板橋豊前守ら、わずか500騎だけだ加勢しただけだった。

 1590年1月29日、手子生城の小田氏治は自ら軍を率いて小田城奪還を図る。小田城外の樋口にて梶原景国、太田資武らと戦い破るが、片野城の太田三楽斉が樋口に援軍・救出して小田城内に篭城する。小田氏治は手子生城に引き揚げた。

 1590年、豊臣秀吉の小田原北条氏攻め。佐竹・宇都宮氏らは秀吉のもとに参候し、常陸国旗頭として54万石を領する大名を認められた。
 しかし、のちの関が原の戦いに参戦しなかったことから、徳川家康によって出羽久保田20万5000石に転封された。

 ※小田氏の行動などに関しては諸説あり、年表もその諸説が入り混じっておりますので、正確ではない点が多々ありますが、ご容赦願います。

その後の小田氏など

 小田城はのち、佐竹氏の一族・小場義宗が城主になったが、1602年佐竹氏が秋田移封になると小田城は廃城となった。

 小田氏治の長男・小田友治は、小田氏治の長男であるが、庶子であったため、小田氏治が北条氏康と同盟を結んだとき、その人質として小田原北条氏に赴いて、そのまま北条氏の家臣となり、北条氏直の代も仕えた。
 1590年、北条氏滅亡後は豊臣秀吉に1000石で仕えた。文禄の役(朝鮮出兵)の際、1592年3月、豊臣秀吉は中村一氏に命じて小田友治を赤穂船奉行に任命。その功績もあり、伊勢国の羽田邑を加増され、新町、麓、中山、開土、東、別名、新開などの8村を合せて3100石を知行。羽田の地名を小田氏旧来の名である「八田」と改め、八田伊勢と称し、自らも八田友治と改名し、以後は豊臣秀次に近侍として仕えた。しかし、関白・豊臣秀次が誅殺された時、小田友治は同座した責めを問われ知行地没収。
 1598年、堀尾茂助吉晴を通じて徳川家康に拝謁し、徳川家康の次男・結城秀康(松平定勝)に出仕したが、徳川家康の威感にふれ、1601年には暇を願いて大和石の額安寺に居住。1604年京都で死亡(57歳)したと言われ、子の八田義治は左京と名乗りし、後に豊臣秀頼に仕えた。

 一方、小田氏治と小田守治の父子は、1590年8月10日、会津にて浅野長政を通じて豊臣秀吉に小田原に参陣しなかったことを謝罪したが、領地没収が決定。小田氏治は娘が側室であった縁もあり結城秀康の客分扱いとなることは許され、結城秀康は小田氏治に300石を与える。これにより、大名・小田氏は消滅した。
 1590年9月、小田氏治、小田守治父子は金田覚太夫を通じて豊臣秀吉に直接仕えたいと願い出たが、共に許されず。
 関が原の戦いのあと、結城藩10万1000石は、越前北庄67万石への転封となると、結城氏に随行し越前国に入った。また結城秀康の3男・松平直政の家に、結城秀康の側室になった小田氏治の娘の子(善治)が仕えたと伝えられている。

 小田氏随一の智将だった菅谷政貞の子・菅谷範政は、小田氏が佐竹に降伏すると、佐竹家臣になったが、佐竹家臣のときでも小田氏治に忠義を尽くしていた事が評価されて、関が原ののちに真壁に入った浅野長政の推挙を受け、1596年徳川家の旗本に取り立てられ、上総国の平川邑に1000石を知行。
 1603年には領地替で筑波郡のうち5000石を有して、手子丸城に居住。幕末まで続いた。

総評

 小田氏治は1度や2度でない。簡単に奪われるほど防御拠点として向かなかった小田城を奪われては奪い返し、戦力・財力・人材を消耗していった。しかも、何度も何度もで、最後まで小田城に固執し、のち佐竹勢によって強固な城となった小田城を奪還することはできなかった。
 先祖代々の居城と言えばそれまでだが、時代は戦国。名門といえども何度も奪われる拠点に固執するのではなく、もっと地理的・物理的にも有利な土浦城や多気山城(城山城)を本拠地にするくらいの柔軟性や知力・戦略があったら、もっと違った史実になっていたかも知れない。
 画期的な新しい施策が功をなす戦国時代、古いやり方に固執した者は敗れている。武田信玄、北条氏政も結局は古い軍事力=農兵動員であり、職業軍人と言う新しい軍事力を築いた織田信長、豊臣秀吉には勝てなかったのと同様だ。
 もっとも地元の古文書に「源頼朝公以来の領主で百姓町人まで譜代である小田氏である為、新領主が小田を治めても年貢を出すことをしぶり、密かに旧主の小田氏のもとに運んでしまう。だから一年も立たないうちにまた取りかえされてしまうのだ」と記述がある。小田氏治は人望まで衰えてはいなかったようで、何度も城は落ちても地元経済界からの支持はあったようだ。

結城秀康とは~文武両道の福井城主も若すぎる死を遂げる

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