大道寺政繁とは~松井田町新堀・補陀寺にある大道寺政繁の墓


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大道寺政繁(だいどうじ-まさしげ)は、河越城主・大道寺重興の子として、1533年に生まれたとされる。

大道寺家は北条家臣の中でも「御由緒家」と称される重臣で、大道寺政繁も河越城主として治水・金融・城下町育成など内政にも優れた武将であった。

1584年、坂戸に新宿を開設。(坂戸宿)
父とされる大道寺重興の死後は、鎌倉代官も務め、領内の寺社統括も担当したとされている。

1569年の三増峠の戦いでは武田信玄と戦った大道寺政繁(大道寺駿河守政繁)は1570年に38歳で家督を継いだ。
また、滝川一益との神流川の戦いなどでも「河越衆」を率いて参陣しており、北条家の戦のほとんどに参戦している。

1582年、武田家が滅亡したあと、北条氏直(北條氏直)らは碓氷峠から信濃に侵攻する天正壬午の乱となったが、この時、占領した信濃・小諸城主を大道寺政繁が任されている。
その後、北条氏直が信濃から撤退すると、松井田城には大道寺政繁、河越城には養子の大道寺直英が入った。
大道寺直英は、大道寺政繁の継室である遠山綱景の娘が舎人経忠との間に設けていた子となる。


1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際には、中山道からの敵進入に対応するため、上野・松井田城に入って守備した。
この時、北国軍である前田利家上杉景勝真田昌幸らを碓氷峠にて迎撃しようとした。

与良与左衛門ら800を碓氷峠に派遣したが、豊臣勢は上杉景勝1万、前田利家1万8000、真田昌幸3000、松平康国4000の大軍。
物見に出た真田信幸(真田信之)と激しい戦闘となり与良与左衛門が討死するが、真田信繁(真田幸村)も大道寺勢に突っ込んで壊乱させると言う活躍を見せている。
なお、真田信繁(真田幸村)の名が見られるのはこの時が初めてのため、真田信繁(真田幸村)の初陣ともされている。

碓氷峠で食い止めるのに失敗すると、4倍規模にと大改修を施して堅固な要塞とし、籠城には自信のある松井田城に大道寺政繁ら2000とも3000ともは籠って抵抗した。
養子の大道寺直英、長男の大道寺直繁、大道寺直次らも松井田城にて父を補佐している。
また、武田勝頼が鉄砲不足だったのを教訓にして、鉄砲大将には源藤内蔵、木部官兵衛、矢野七郎左衛門らを据えて600丁を配備していた。

豊臣秀吉は松井田城を強固な守りの名城だと考えており、得意の「付城」を築いて松井田城を攻撃・包囲するよう命じ、豊臣勢は周辺を放火し、兵糧を焼くなどして北条勢の士気を低下させる作戦に出る。

北条勢の早川六左衛門、木部官兵衛や、参謀・児玉利久(児玉五郎左衛門利久)らも必死に抵抗するが、次々と郭・曲輪も落とされ、ついには水の手も奪われた。
このように、籠城は約1ヶ月も続き、最後には家臣の多くも討死しただけでなく、側室や姫も井戸に身を投げるなど凄惨を極め、大道寺政繁は城兵の命と引き換えに開城降伏。

その後、大道寺政繁は北国軍の「道案内」をするよう命じられ、5月22日に武蔵・松山城、6月14日には鉢形城、6月23日に八王子城攻めでも、豊臣勢の「先陣」に加わって攻城戦に加わった。
また、忍城にも石田三成らを案内している。

しかし、7月5日、小田原城が開城すると、北条氏政北条氏照・松田憲秀らと同じく切腹を命じられて、7月19日、大道寺政繁は河越城下の常楽寺(河越館)にて命を絶った。享年58。
埼玉県川越市の常楽寺に供養塔があり、群馬安中市の補陀寺に大道寺政繁の墓がある。

また、大道寺政繁の養子・大道寺直英が、徳川家臣を経て津軽為信に仕えたため、青森県弘前市の貞昌寺にも、大道寺政繁の供養塔と大道寺直英(大道寺隼人)の墓が並んでいる。

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大道寺駿河守政繁の墓所

―群馬県安中市松井田町新堀・補陀寺(ほだいじ)

▼松井田城の築城は1560年頃安中氏によるもので、その後武田信玄の手に落ち、織田信長(滝川一益支配)、小田原北条へと支配者が入れ替わり、北条家の宿老・大道寺政繁が、川越城と併せた18万石の領主として守備に入りました。

▼1589年の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、信州から関東に侵入する北陸勢の猛攻を支えたのが猛将・大道寺(大導寺)政繁で、松井田城のふもとにある曹洞宗のお寺、補陀寺に大道寺の墓所があります。
ここは松井田城の一部で、在城当時の大道寺の居館址といわれます。

大道寺政繁の墓

▼東海道筋から相模に侵入した秀吉本軍に呼応して、前田・上杉・真田らの北陸支隊3万5千人は信州から上野国に侵入、このときの碓氷峠での戦いが、真田幸村(信繁)の記録にある初陣とされます。

▼碓氷峠の合戦で敗れた大道寺勢は松井田城まで引き、ここで約一ヶ月の間、大軍を支えましたが力尽き降伏しました。
その後北国勢を先導して関東の北条氏支城を転戦したものの秀吉に許されず切腹。
家臣がひそかに首を持ち帰り、ここに埋葬したということです。
補陀寺は戦国時代の松井田城址の一部で、城主大道寺の居館があったところといわれています。
裏山には曲輪の跡と思われる削平地が残ります。

補陀寺にある大道寺政繁の墓

と言う事で、補陀寺(ほだいじ)さんに柳生さまと一緒に訪問させて頂きましたので、追記致します。

中山道の北側に補陀寺があります。

補陀寺前の中山道

1582年から大道寺政繁が松井田城主として赴任した訳ですが、この安中・補陀寺を自らの菩提寺としました。
山門もかなり立派です。

補陀寺の山門

下記は「大」の字が、中山道近くの境内足元にある石畳に刻まれていますが、その由来や意味は不明ですが、柳生さまにその存在を教えていただきました。

補陀寺にある大の字

補陀寺は松井田城の山に繋がる場所であり、境内の敷地もなかなか広いです。

補陀寺の中門

松井田城を一大要塞に大改修しましたが、補陀寺の境内も城郭となったようで「補陀寺郭」と呼ばれていたようです。

安中・補陀寺の本堂

下記の方向、本堂の左手奥が、大道寺政繁の墓所となります。

補陀寺

豊臣秀吉の小田原攻めの際、北国軍の攻撃を受けた大道寺政繁は降伏して、そのあと北条家が降伏するまで、北国軍の道案内や先陣として八王子城攻めをさせられたり散々利用されたあげく、最後には「切腹」の命を受けました。

大道寺政繁の墓

そのため、江戸時代に加賀・前田家の大名行列が、この中山道を通過すると、大道寺政繁の墓には詳しいからか「汗」(水滴)が現れていたと伝わります。

大道寺政繁の墓

大道寺政繁の墓の傍らには、大道寺家のご子孫の墓だけでなく、大道寺政繁の家臣だった小板橋下総守のご子孫が建立した先祖の墓もある補陀寺でした。

補陀寺

下記は松井田城の遠景です。
これは地元の地理に明るい柳生さまだけに、さすが写真が撮れる場所を良くご存じでして、ご案内頂いたJR信越本線の西松井田駅前から撮影したものでございます。

松井田城の遠景

補陀寺の駐車場は、下記の地図ポイント地点となります。

今回は夏場と言う事もあり、松井田城までは登りませんでしたので、冬季にまた再訪させて頂きたく存じております。
この場を借りて、柳生聡さまには改めて深く御礼を申し上げる次第です。

(補陀寺寄稿)柳生聡

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