津軽為信(大浦為信)と戌姫~南部家から独立し津軽統一を果たした智将

津軽為信(大浦為信)

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津軽為信

津軽為信(つがる-ためのぶ)は、大浦城を継いで戦国時代に津軽地方を統一し、初代の弘前藩主となった武将です。
生まれたのは1550年1月1日で、幼名は扇ですが、出自については諸説あります。

最初の名は久慈為信ともされ、父は南部氏の支族である久慈信長(下久慈城主・久慈守信)とも、大浦城主の大浦守信の子ともされますが、不明な点が多いです。

いずれにせよ、大浦城主・大浦為則が養子として迎え、娘の阿保良(戌姫、お福)と結婚させ、後継者にしたようです。

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大浦氏も宗家・南部晴政と縁がある一族でしたが、津軽支配は石川城石川高信が任されておりました。

養父・大浦為則が1567年に死去したあと、津軽為信が家督を継承したようです。
そして、津軽での勢力拡大を目指して、元亀2年(1571年)5月5日未明、支城の堀越城から出撃し、板垣将兼ら150騎が石川城(大仏ヶ鼻城)を奇襲攻撃しました。
堀越城と石川城は、直線距離で僅か3.5kmと近いです。
この時、大浦為信は、堀越城を修復すると石川高信に申し出ており、修復すると見せかけて兵糧や武具、兵を引き入れて、戦いの準備を整えていました。
そして、堀越城の改修が終わった宴を行うとして、同じ南部家の石川高信の家臣をもてなしたと言います。
この隙に、80余騎の兵にて石川城を奇襲し、石川高信を討ち取ったとも、自害に追い込んだとも、毒殺したとも、生き延びて1581年に病死したともされていますが、いずれにせよ、石川城主は板垣将兼(いたがき-まさかね)が任されています。
板垣将兼は武田信玄の重臣・板垣信方と同じ一族のようです。
なお、石川高信の次男・石川政信(いしかわ-まさのぶ)が石川家を継承したとする説もあり、1572年に津軽為信は妹・久を、その石川政信の愛妾に差し出しましたが、その石川政信は討たれたとも、呼び出されて毒殺されたともあります。

天正3年(1575年)には大光寺城滝本重行を攻めましたが、この時は敗退するも、翌年・1576年には落城させました。
天正6年(1578年)7月には、知略を用いて、間者を潜り込まして浪岡城内から放火させ、混乱した浪岡御所を攻撃。
北畠顕村(浪岡顕村)を自害させ、名門の浪岡氏(浪岡北畠氏)を滅ぼしました。

まぁ、こんなことをしていたので、当然のように安東氏・南部氏・浪岡氏の残存勢力との関係は悪化し、1579年7月4日、六羽川の戦いとなります。

六羽川の戦い

檜山城主・安東愛季の命を受けた比山六郎・比山七郎の兄弟が津軽に侵攻すると、滝本重行、北畠顕則(浪岡顕則)らも参加わり、総勢1000になったと言います。
比山・北畠・滝本連合軍は、乳井建清の乳井城・乳井茶臼館・乳井古館を攻略します。
その後、沖館城を攻めますが、阿部兵庫介の奮戦により撤退され、比山勢は占領した乳井茶臼館に本陣を置きます。
これに対して、大浦為信・兼平綱則・乳井建清・森岡信元・小笠原信浄・北畠利顕ら大浦勢は大坊・岩館に陣を敷きました。
そして、六羽川の畔(平川市)にて合戦となります。
戦いは夕暮れまで続きましたが、大浦勢は次第に劣勢となり、津軽為信の本陣も、北畠利顕などほとんどが討死したとされています。
そこに、大浦勢の田中太郎五郎が、津軽為信であるとして比山勢に突撃したため、比山勢は津軽為信を討ち取ったと思い込みました。
この隙に、油断した比山勢に対して、大浦勢は反撃に出て、比山六郎を討ち取ると、総崩れとなった比山・北畠・滝本勢は敗走して大館に退却したと言います。

津軽為信の身代わりとなった忠臣・田中太郎五郎の嫡子・田中宗右衛門は100石が加増されています。

1582年に、南部晴政が死去すると、南部家では後継者問題となり家中が分裂します。
南部家の家督は、結局、石川城主だった石川高信の嫡男で、南部家に養子として出されていた石川信直が跡を継ぎます。
そのため、本家と更に敵対関係となった津軽為信は、織田信長の死後、勢いを増す、豊臣秀吉に接近した方が良いと、最上義光から情報を得たようです。

1585年3月には、油川城を攻略し、さらに田舎館城と飯詰の高楯城を落とし津軽統一がほぼ完了しました。
そのあと、津軽為信は上洛しようと海路出航しています。
しかし、暴風雨などにより阻まれ、自らの上洛は断念し、1589年に秋田実季と和睦すると、家臣・八木橋備中を上洛させることに成功しました。
石田三成の仲介を受けて、豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)と合浦一円の所領を安堵されています。

小田原参陣

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、家臣18騎を引き連れて、津軽為信はいち早く3月には駿河・三枚橋城にて豊臣秀吉に謁見を果たしました。

一方で、三戸城主・南部信直(石川信直)は、一歩遅れて4月に小田原参陣して豊臣秀吉の拝謁。
津軽地方は、津軽為信が横領したとして、惣無事令(そうぶじれい)違反だと訴えましたが、石田三成、羽柴秀次、織田信雄に津軽特産の鷹を贈って釈明し、津軽為信は独立大名として認知されました。
この時から「津軽為信」を名乗るようになったようです。
しかし、奥州総検地では所領4万5000石のうち、1万5000石は太閤蔵入地(豊臣家の直轄)とされてしまっています。

上洛すると、羽柴秀吉を猶子にして関白にした近衛前久に対して、津軽為信も財政支援を申し出て、津軽為信も猶子となっています。
そのため、と豊美秀吉と津軽為信は義兄弟と言う仲にもなりました。
そして、南部家の重臣・九戸政実の乱の討伐として九戸城攻めで功績を挙げ、また、朝鮮攻めの際には名護屋城に在陣しています。

1594年、大浦城から居城を堀越城へ移し改修しました。
また、慶長2年(1597年)には、不和となっていた千徳政氏の子・千徳政康の浅瀬石城を攻めたとも、堀越城に呼び寄せて殺害したともあり、千徳氏を滅ぼしたとも言います。

関ケ原

1600年、関ヶ原の戦いでは、豊臣秀頼の小姓を務めていた嫡男・津軽信建を、大阪城にてそのまま西軍につかせます。
その一方で、津軽為信は3男・津軽信枚と共に2000にて、徳川家康の東軍に参加し、本戦の際には、松平康元や堀尾忠氏大垣城の抑えを任されました。
そして、飛び地として上野国大館2000石の加増を受けています。

なお、関ケ原合戦に出陣する前に、留守の間、家中で謀反が起こる可能性が高かったため、梶仁右衛門によって久渡寺でにて、和徳城主・森岡信元を5月7日に暗殺しています。
また、2000の兵では足りないと感じたようで、国元の松野信安・尾崎喜蔵・多田玄蕃・板垣兵部将兼らに800にて追加派遣を求めました。
しかし、石田三成と親しかった板垣将兼、尾崎喜蔵、多田玄蕃らは、石田三成の勝利を疑わず、500にて反乱軍を起こし、堀越城を守備していた浪岡主馬・土岐新助・田村六左衛門らが殺害して、堀越城を占拠しました。
ただし、石田三成の敗戦が伝わると、戦意を喪失し、津軽為信の命を受けた金信則(金小三郎信則)が総攻撃して、板垣将兼と尾崎喜蔵は堀越城内にて討死。
多田玄蕃は居城・三ッ目内館にて爆死しました。

しかしながら、津軽為信自身は、石田三成に大きな恩義を感じていたようで、嫡男・津軽信建が、大阪城から石田三成の次男・石田重成と、高台院(北政所)の養女になっていた石田三成の三女・辰姫を国元に迎えています。
そして、石田三成の三女・辰姫は3男・津軽信枚の正室にしました。

1603年、新城として弘前城の築城を開始しました。

弘前城の天守

しかし、城の完成を見ずに、1607年、京都にて津軽為信は病死しました。享年58。
京にいたのは、上方にて朝廷などに対応していた嫡男・津軽信建が病に倒れたとして、見舞うために駆け付けたと言う事ですが、津軽為信よりも2ヶ月前に34歳で亡くなっています。


次男・津軽信堅(つがる-のぶかた)は、徳川秀忠の近習を務めていましたが、1597年に23歳で死去していたため、弘前藩2代藩主には3男・津軽信枚が就任しています。

東北の良妻「戌姫」

津軽為信の正室・阿保良(戌姫、お福)は、東北の良妻として語り継がれています。

子供のころから共に学問もしたと言い、1567年に結婚してからも夫婦仲は良好だったようで、津金為信が合戦に出ている間の留守中には、城を警備する家臣にご飯をつくって士気をあげたりしたとされます。
このように阿保良(おうら)姫は、面倒見の良い性格であったようで、飢饉の際には、粗末な服を着用しては、民に穀物や医薬品を配ったりと、良妻ぶりを発揮しました。

残念ながら、子を設けることはできませんでしたが、側室・栄源院との間に生まれた津軽信建・津軽信堅・津軽信枚らの養育は、阿保良が行ったと言われています。

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