南部信直~生き残るための戦略~【戦国人物伝8】

三戸城

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南部信直(なんぶ-のぶなお)という人物をご存知ですか?
そもそも南部氏がどのような一族か分かる方は、相当通な方だと思います。
まずは南部氏についてお話していきたいと思います。南部氏はあの武田信玄と同族の甲斐源氏です。
南部氏の祖、光行は甲斐の南部郷を領したのが苗字の由来です。
ではなぜ南部氏が東北の、それも本州最北端に領地を持つようになったのか?

これには源頼朝が大きく関わっています。

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奥州平泉に、藤原氏が独立王国を築いていました。
頼朝は弟の源義経を保護する藤原氏を滅ぼそうと考えていました。ですが藤原秀衡が生きている間は手を出せませんでした。
秀衡が死んだ後、やっと統制が緩んで圧力をかけていきます。義経を自害させ、そして藤原泰衡を攻める機会が訪れます。
頼朝は奥州征伐に乗り出し、奥州藤原氏を滅亡させるのです。
伝説では、南部氏の祖南部光行が奥州糠部5郡を拝領したとされています。
この奥州征伐が初陣であり、恩賞として授けられたとのことですが今のところ定かではありません。

実際には鎌倉時代末期、北条得宗家の所領を管理するために南部氏とその他の御家人が地頭代として派遣されていたのではないでしょうか。
南部氏の奥州になぜ領地を持つようになったのか、という問に対する答えはこのようになります。

さて、今回紹介する人物南部信直は三戸南部氏26代目です。
この三戸南部氏は本家です。
初代から数えて26代、長い年月を感じますね。
ちなみに甲斐源氏本家武田氏の武田信玄は17代目です。
同じ甲斐源氏でも人数が違います。

南部信直は、父・石川高信、母は一方井形部の娘です。
南部氏の分家、石川氏に生まれた信直は性格は人の心がよくわかる人物だったようです。
控えめな性格が幸し、とでも表現するしかないのですが南部本家南部晴政の婿養子となって、本家を順当に継ぐはずでした。
しかし、ここで事態は動きます。晴政は晩年まで娘しか生まれていませんでしたが、実子が生まれてくるのです。
そして信直に嫁いでいた晴政の娘が死んでしまうという事態も同時に起こります。

ではここから南部信直について、3つのエピソードを書いていきたいと思います。

宗家相続までの険しい道

老境に幼い我が子を授かる。心境としてどうでしょう?
養子に継がせるより、血を分けた我が子に家を継がせたいというのは人情です。
我が子がかわいいというのは、自然と伝わってしまいます。信直の心はどう感じていたのか?
まず身の危険を感じていたのではないでしょうか。晴政にとってもはや信直は邪魔者でしかありません。
まるで晩年の豊臣秀吉と同じです。

信直は一族の北信愛に匿われました。信愛は信直の危険を察知しての行動です。
信直とは娘が信直の弟政信に嫁いでいることからも、近しい関係だったのでしょう。
居城の剣吉城に匿ったのです。
この後も信愛は信直側として活躍していきます。

面白くないのは晴政でしょう。宗家の自分が嫡子に家督を譲ろうと思っているのに、一族が支持していないと。
晴政は永禄末年頃から剣吉城を攻撃し始めます。
一族は晴政派と信直派と、南部氏を二分させての争いを繰り広げていくのです。

そんな一族の争いの最中、自立を目指して策動する武将が現れます。
大浦為信-と言うよりは、津軽為信の名の方が知られているでしょう。
梟雄という言葉が似合うこの武将は、元亀2年(1571年)に蜂起します。
狙われたのは信直の実父石川高信が守る石川城です。為信は高信を油断させるため、策を弄していました。
石川城からほど近い堀越城の修復をと偽って、油断させてからの急襲でした。
高信は多勢に無勢、自害して石川城は落城しています。

石川城

翌朝には石川城から近い、和徳城も攻め落とし1日で2つの城を落としてしまいました。
津軽為信はこの時23歳、独立に向けて動き始めたのです。

南部信直は実父が殺されても、仇討とはいかない状況です。
晴政との宗家争いの真っ只中だったからです。
和睦の動きもあることはありましたが、結局動きだけで本格的な和睦にまではいたりません。
南部晴政が老いの一念、とでも言いましょうか。和睦を受け付けなかったのでしょう。

信直と晴政の争いは、その後収束していくことになります。
晴政は既に隠居していてもおかしくはない年齢(60代)でした。
元亀3年(1572)に、晴政が毘沙門堂に参詣している信直を討つべく攻めてきます。
信直は晴政が乗った馬を鉄砲で撃ち、落馬させています。この時の落馬が直接の原因かは分かりませんが、晴政はこの後表舞台には出てきません。
死亡説も落馬から半年後、天正8年(1580年)、天正10年(1582年)とあります。

南部一族の争いを尻目に独立を狙っている津軽為信。南部氏も黙って見ていたわけではありません。
ここで独立を許してしまえば、第2、第3の為信が生まれてしまう危険もあります。
瀬田氏に命じて、為信を攻めさせました。
しかし、瀬田氏はあえなく負けてしまいます。家中が一つにまとまっていない状況です、無理もないでしょう。
為信はそんな南部氏をみて、ほくそ笑んでいたと思います。
次々と城を落としてゆき、津軽肝心の要である大光寺城を落とします。
この大光寺城落城から3年後、南部氏の糠部の隣の浪岡城を落城させました。

浪岡御所と岩木山

浪岡城にいた浪岡御所は、北畠氏であり南北朝時代からの名門です。為信にはどうでも良いことだったんですね。

そんな状況の中、信直が本家の三戸南部氏の家督を継ぐ時がきます。一筋縄では決まるわけもありませんが。
晴政が死んだ後家督は晴政の晩年の子である、晴継へと継承されたようなのですが晴継も幼くして死んでしまいます。
ここで後継候補をあげます。

・南部信直(晴継姉婿)

・九戸親実(晴継姉婿)

この2名が後継候補です。条件は同じです、
血統的には信直が有利ですが、晴政と争っていた経緯があるだけにどう転んでもおかしくはない状況です。

これでは埓があきません。
信直派である信愛が、田子城へ兵を従えて迎えに行き信直をそのまま護衛して三戸城へと入らせました。

三戸城(留ヶ崎城) 

これで本家を相続し、一安心ということではありません。まだまだ信直の頭を悩ませる問題が多数あります。
津軽為信、九戸政実の問題、南部氏内部の問題が山済みになっていたのです。

津軽為信についてはお話してきたので、九戸政実について少しお話します。
九戸氏は、南部氏からの分かれであり南部氏の中では勢力が最大でした。
下克上の波と言いましょうか、本家を凌ぐ実力を持っているなら最終的にとって変わろうと考えるものです。

政実は着実に勢力を伸ばしてきました。南部宗家を飲み込みそうな勢いを示していたのです。
とはいっても、三戸城を中心とした半径約50キロの世界での話です。
限られた地域の中で信直と政実、他の分家の争いが起きていたのでした。
信直としては、自身の勢力は小さいので後ろ盾が欲しいところ。
九戸氏に並ぶ実力者は、八戸南部氏です。信直は八戸政栄へ要請をします。
何を要請したのか?それは三戸城の近くに屋敷を構えてくれないか、というもの。
後ろ盾を得たい信直は必死だったと思います。

この再三に渡る要請を受けて、政栄は屋敷を構えることになったのです。
信直は政治家として優秀だったのだと思います。
政実は戦巧者です。渡り合っていくには政治巧者にならなければなりません。
こうして争いは長期化していくのです。

秀吉への接近

南部氏本家としての信直の立場は不安定なものです。
少し目線を変えて、中央の情勢はどうなっていたのか見ていきましょう。情勢は天正13年(1585)頃です。

既にこの頃には、豊臣秀吉が天下統一をしつつありました。残るは徳川家康島津義久北条氏直伊達政宗の4強、そして東北です。
中央を制圧し地方も制しつつあるという、勢いがあります。

信直はこの状況をどう見ていたのでしょうか?次代の権力者は秀吉だと見定めたはずです。何故なら行動を起こしているからです。
信直の元に、田中清六という鷹商人が出入りをし始めます。
この清六という人物は、中央と地方を行き来する商人です。商人は情報が生命線です。
中央の情報をふんだんに持っているのです。

信直自身が招いた可能性があります。自分の立場は危ういものです、安定させるには権力者の後ろ盾を得るのが最良だと考えられます。
信直は、身動きの取れない状況にあります。北は為信、南は政実に抑えられていました。
攻める兵力もなく、もし兵力があったとしても一方を攻めればもう一方が攻めて来るでしょう。
そのストレスは相当なものだったでしょう。こうして清六を通じて秀吉とコンタクトを取り始めます。
信長とは生前コンタクトを取っていましたが、秀吉とのコンタクトはここからです。秀吉との窓口には前田利家を選びました。
北陸方面の交渉窓口になっていたのが利家だったからです。


利家を通じて、秀吉へ家臣として加わりたいと希望が伝えられます。
希望はあくまで希望でしかありません。秀吉に認められなければ意味がないのです。
信直とほぼ同時期に、政実も南部惣領を秀吉に申し出るという噂が流れます。信直の動きに反応したのでしょう。
何とか秀吉との間で、南部惣領と認められた信直は巧みにその効果を利用し、領内の平定を進めていこうとします。

九戸政実の反乱

領内における主導権争いは、秀吉を背景にした信直に軍配があがります。
戦の巧い政実は、それでも諦めずに抵抗してきます。時代が見えていなかったのです。
信直は、政実の勢力を削ごうとまずは斯波一族に的を絞ります。政実の勢力下に置かれている斯波一族。
手頃な取れそうなところから攻める。戦略にかなっていますね。

分断をさせようと、工作を信直は仕掛けて斯波一族を没落させます。
その後も精力的に、秀吉の代理としての立場を加えて近隣の平定を進めていきます。

天正18年(1590年)、秀吉は小田原征伐のため出陣します。この際、関東や奥州の大名たちにも号令がかけられています。
信直にも出陣の命令が届きます。しかし、未だ領内は政実と為信との争いの渦中にありました。どうするべきか?
信直は政栄に相談します。政栄は、留守を守ってくれることを了承してくれました。
南部のため、この決定で信直は小田原に無事参陣して、秀吉に謁見しています。
領地安堵もこの際受けています。

しかし、です。秀吉の奥州仕置は成りましたが、実行していくとなると厳しいものがあります。

➀撮り潰された大名たちは急な展開について行けていない。

➁信直の兵力では何かことが起きた後、対応できない。

➂政実、伊達政宗の元に不満の声が集約されている。

この意味するところは、反乱が起きる可能性は大ということです。
軍監だった浅野長政が奥州からいなくなった途端に、大規模な一揆が起きます。
直接の原因は、一躍30万石の大名に取り立てられた木村吉清が暴政を敷いたことです。
些細なことで、主だった30名あまりを極刑にしてしまいます。

一揆の波は瞬く間に広がっていきます。
この影には政宗も暗躍していますが、表に出てくるような真似はしません。
信直に一揆起こるとの報がもたらされます。
まずは軍監・浅野長政の一族、浅野庄左衛門が拠っている鳥ヶ崎城の救援をしなければなりません。
ここで見殺しにしてしまっては、秀吉との関係もギクシャクしてしまいます。
何とか浅野庄左衛門は救出し、三戸城へと戻ります。

そして翌天正19年(1591年)の正月、政実は三戸城へ挨拶に行きませんでした。明確な謀反の意思です。
こうして信直と政実は武力衝突という最終段階へ至ります。しかし、信直は政実に負け続けます。
この頃、秀吉によって政宗は京都へ召喚されていました。
一揆の首謀者とみなされたからです。
そして、領地の出羽・南奥5郡を召し上げられて一揆の広がっている大崎・葛西12郡を与えられます。
一揆を制圧しろということです。
自分でけしかけた一揆を自分で潰さなければならなくなるという、笑うに笑えないことになってしまいました。


伊達政宗が秀吉から一揆制圧を言い渡されてからほどなくして、信直の嫡男利直が秀吉に陳情に来ていました。
九戸政実が反乱を起こしている、救援をお願いしたいと。
秀吉は再度征伐軍を編成し、奥州へと出陣させます。
総勢5万の大軍です。怒濤の如く政実をあっという間に飲み込んでしまい、反乱は鎮圧されます。
ここに信直の南部宗家としての立場は安定します。
長かった宗家の家督争いはこれにて終わり、信直はこれより8年後の慶長4年に亡くなります。
家を安定させてからの死であり、満足しての往生だったことでしょう。

南部信直の主な家臣は下記の通りです。
南長義、南康義、南盛義、石亀信房、石亀政頼、石亀義実、泉山古康、泉山政義、毛馬内秀範、毛馬内政次、毛馬内直次、弟・石川政信、八戸政栄、八戸直栄、八戸直政、北信愛、北愛一、北秀愛、北直継、北愛邦、北信景、東政勝、東直義、桜庭直綱、奥瀬重之、中野康実。

最後までお読みいただきありがとうございます。

参考文献

陸奥 南部一族 七宮 けいぞう
逆説の日本史11 井沢 元彦

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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和泉守@nao歴史の探求者

投稿者プロフィール

名前 nao
性別 男
歴史好きな三十路です。好きな作家は北方謙三さん、高田崇史さん、井沢元彦さんなど多数います。
<編集部より>
アクセス数貢献により、従六位下・和泉守となりました

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