南部晴政とは~最盛期の南部家へと発展させた有能な武将もそのあとは・・

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南部家

南部晴政(なんぶ-はるまさ)は、南部安信の子として1517年に生まれました。
幼名は南部彦三郎で、母は不詳です。
官職は右馬助・大膳亮・大膳大夫となります。
1524年、8歳の時に、父・南部安信が津軽を平定しました。
石川城石川高信が入り、南長義には五戸地方を、石亀信房には石亀城、毛馬内秀範は毛馬内城を任されており、父は南部家の支配体制を強固にしています。


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天文6年(1537年)、21歳になった南部晴政は、紫波郡で和賀義勝、斯波氏の軍勢と戦ったとあります。

天文8年(1539年)、家臣の赤沼備中が謀反を起こし、南部家の本拠地である聖寿寺館(本三戸城)に放火したため、焼失しました。
赤沼備中の美人妻を、しばしば居館に連れ込んでいたためとも言われますが、これにより、南部家に関する史料も多くが焼かれたと推定されています。

本三戸城

その直後に南部晴政は上洛して、将軍・足利義晴より1字を拝領しました。

天文9年(1540年)も敵対してきた、門屋城主・戸沢政安の勢力下にあった石城を攻めて駆逐しています。
また、高水寺城主・斯波経詮の岩手郡侵攻に対して叔父・石川高信を向かわせると戸沢政安を秋田へ追放することに成功し、岩手郡も支配に加えました。

父の死後、南部晴政はまずは謀反を起こした工藤氏を討っています。
そして、永禄年間(1558年~1570年)に、留ケ崎城(三戸城)を新たに築き、聖寿寺館と平良ヶ崎館は廃城となった模様です。

平良ヶ崎館

ただし、父からの家督継承に至る部分には謎も多く、本当に、南部晴政が三戸南部氏だったのか?など、諸説あります。

永禄8年(1565年)、子に男子がいなかったため、石川高信の子・田子信直(のちの南部信直)を、長女の婿に向かえて、南部家の養嗣子としました。
このことで、のち、南部家はおかしくなって行きます。

1566年、安東愛季が、比内の浅利氏残党・阿仁地方の嘉成一族らを中心にして、5000にて鹿角郡へ侵攻しました。
これに対して南部氏は、岩手衆の田頭・松尾・沼宮内・一方井らの諸勢を鹿角に送りましたが、狭隘な山道に阻まれ、進軍が思うように進まなかったとされます。
しかし、長牛城主・一戸友義が奮戦し、また雪が降り出したため、安東勢は退却しました。


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永禄10年(1567年)、安東愛季は再び兵を派遣して、今度は6000にて長牛城へ攻めました。
この時、南部晴政(53歳)は九戸政実や北氏、南氏、東氏らを救援として派遣し、一度は安東勢を撃退しましたが、再び長牛城が攻撃されると、一戸友義の叔父・南部弥九郎が討死するなどして、ついに落城しています。

永禄11年(1568年)、南部晴政は養子・南部信直と共に、大湯(秋田県鹿角市十和田大湯)に着陣すると、南部一族の九戸政実が保呂辺道経由で三ヶ田城(秋田県鹿角市八幡平三ヶ田)へと進行して、南北から安東勢を挟撃しました。
すると、鹿角の安東軍は降伏して奪回に成功しています。

また、分裂気味だった九戸政実の弟・九戸実親にも次女を嫁がせて、このように八戸家などの一族との関係も強化して、南部家は最盛期を迎えます。
南部晴政の手腕は優れており、シュミレーションゲーム「信長の野望」でも、武力が高い武将として設定されています。


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屋裏の変

1570年、56歳の南部晴政に、実子・南部晴継が誕生するじたいとなりました。
側室にした農民の娘が産んだとも言われています。
実の子が誕生したことにより、養子の南部信直を疎んじるようになります。

元亀2年(1571年)、南部家の重臣である大浦城主の大浦為信が、突如、南部信直の実父・石川高信を討ち取ります。
そして、大浦為信(津軽為信)は、津軽の南部家に従っている豪族を次々に滅ぼして、独立的な状況となりました。
しかし、南部晴政は自ら出陣はしておらず、八戸政栄、瀬多田石隠岐など差し向けた討伐軍は、高畑城の戦いなど何回も打ち破られています。

そして、ついに、元亀3年(1572年)、養子の南部信直が、川守田村の毘沙門堂へ参拝した際に、南部晴政が率いた手勢が襲いました。
しかし、南部信直は逆に鉄砲を放って、養父・南部晴政を落馬させます。
そこを介抱した九戸実親に鉄砲を放ちました。
ただし、このとき、2人とも命に別条はなかったようです。

こうして事態は深刻化し、1576年、南部信直の妻、すなわち南部晴政の娘が死去すると、南部信直は自ら養嗣子を辞退して、元の石川信直に戻り田子城に退きました。
しかし、命を狙われたようで、支援者である北信愛の剣吉城や、八戸政栄の根城などへと更に逃亡しています。

こうして、南部家では後継者争いとなり南部晴政と軍事に通じていた九戸実親、南部信直を支持する南長義・北信愛の連合とで、家中は対立して行きました。


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1582年1月4日、南部晴政は病死しています。享年66。

家督は嫡男・南部晴継(13歳)が継ぎましたが、その1ヶ月後に葬儀帰りの夜道、謎の死を遂げます。
そして、石川信直と九戸実親による後継者争いとなりました。

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