九戸政実と九戸政実の乱~戦国時代末期に天下人に刃向かった最後の武者

九戸政実

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九戸政実

九戸政実(くのへ-まさざね)は、1536年に九戸城主・九戸信仲(くのへ-のぶなか)の子として大名館(だいみょうだて)にて生まれました。
幼名は彦三郎、母は八戸但馬の娘です。

九戸氏は、三戸南部家の祖・源光行(みつゆき)の6男・九戸行連(くのへ-ゆきつら)が分家した南部一族となり、宗家は三戸城南部晴政でしたが、九戸南部家も有力な一族でした。

特に九戸政実は優れた武将だったとされ、永禄12年(1569年)に安東愛季が津軽に侵略すると、本家・南部晴政の要請を受けて長牛城を奪い返すなどし、南部家の戦国大名化にも貢献し、二戸の加増を受けています。
また、南部政康の次男・石川高信も助けており、頼りになる南部一族として、陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)と呼ばれる九戸を領していたのです。

南部家24代当主・南部晴政には、嫡男がいなかったため、1565年、51歳のときに、石川城主・石川高信の子(南部晴政の従兄弟)とにる石川信直を、長女の婿養子として、後継ぎにしていました。
更に、1569年、南部晴政は次女を九戸政実の弟・九戸実親に嫁がせて、このように一族との関係も強化しています。

しかし、元亀元年(1570年)、南部晴政が56歳のときに、側室が南部晴継(なんぶ-はるつぐ)を産むことで嫡子争いが勃発しました。
1576年に、南部信直(石川信直)は南部家の相続を辞退しています。
※1576年に妻(南部晴政の長女)が死去したので、辞退したともあり、年代は不明。

南部信直(石川信直)は、田子城に入ると、その後、刺客の脅威から逃れるため、南部家重臣の北信愛(きた-のぶちか)の剣吉城や、八戸政栄の根城などに身を隠したと言います。

1582年に南部晴政が病没すると、その直後に南部晴政の実子・南部晴継(享年13歳)が病没しました。

こうして、南部家の本家の後継者を決める大評定が開催されると、南長義・北信愛らは南部信直(石川信直・田子信直)を押し、南部晴政の次女を娶っていた九戸実親(くのへ-さねちか)を後継にする一派と争いになりました。
そこを、北信愛は、根城南部氏の八戸政栄を調略し、第26代当主に南部信直(35歳)を強引に据えたため、南部晴継の葬儀の日に、今度は南部信直が襲撃されるなど、九戸南部家と三戸南部氏との対立が深まりました。

この南部家の混乱に乗じて、大浦城主・大浦為信は、津軽地方を切り取って行きます。

織田信長の死後、豊臣秀吉が台頭してくると、前田利家を通じて、三戸城主・南部信直(石川信直)は豊臣家に接近します。
また、大浦為信(津軽為信)が、1590年、小田原攻めの際、小田原参陣に向かった隙をついて、南部信直は津軽を狙いますが真冬と言う事もあり失敗し、自信も小田原城に参じました。

その結果、南部家は7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、遠野保?)の所領を安堵され、奥州征伐では浅野長政と共に先鋒を務めたと言う事になります。
その奥州仕置にて領主の配置換えや検地などもあり、更に、九戸政実と九戸実親は、有力一族であっても南部信直の家臣にすぎないと言う立場にされたため独立を画策し、ついに1591年1月の南部家への正月参賀を拒絶し、3月になると5000にて挙兵したのでした。

この背景には、小田原へ参じなかったために、取り潰しとなった葛西氏・大崎氏の旧臣らによる蜂起があったことも一員でもあり「ひと泡吹かせたい」と言う心意気もあったのだろう。
もちろん、九戸家に味方していた久慈備前守治義の次男とされる久慈為信が、津軽の豪族・大浦氏の養子となって、南部家から独立した勢力として、豊臣家に認められたと言う事も大きな要素だっと存じます。

九戸政実の乱

九戸政実は同盟関係にあった櫛引(くしびき)、久慈(くじ)、七戸城主・七戸家国、そして、七戸朝慶の娘を正室に迎えていた武田系七戸氏の七戸慶道(七戸伊勢守慶道)らを誘って5000にての実力行使に出ました。

九戸勢の櫛引清長が苫米地に攻撃し、南部家に組する館・城を次々に攻めたため、三戸南部家は北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦しています。
また、九戸政実は、北信愛の次男・北秀愛が守る一戸城に夜襲をかけたため、北秀愛はいち早く南部信直に反乱を伝えたとあります。
南部家の中でも円子金五郎、長内庄兵衛、種市伝右衛門ら精鋭を揃えた九戸勢は強く、南部信直は子の南部利直と北信愛を大坂城に派遣して、豊臣秀吉に救援を要請しました。

そのため、総大将・豊臣秀次徳川家康が加わり、仙北口からは上杉景勝大谷吉継、津軽方面には前田利家、前田利長、、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が進軍。
そして、伊達政宗最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らが指揮下に入、奥州再仕置軍は一揆を平定しながら、蒲生氏郷や浅野長政と合流し、8月下旬には南部領近くまで到達しました。

九戸政実は、8月23日に小鳥谷摂州ら50名にて、美濃木沢で豊臣勢に奇襲をかけますが、多勢にむぜいで、9月1日には九戸勢の根反城が落ち、九戸政実らは九戸城にて籠城しました。

そして、9月2日には、豊臣勢6万が九戸城を包囲し、九戸城の戦いとなりました。

九戸城の戦いは、九戸城紹介ページにて詳しく明記させて頂いております。

妻子や城兵は助命すると言う言葉を受けて、豊臣勢に降伏した九戸政実でしたが、九戸城を開城すると、城内の者は撫で斬りにされ、火を放たれたとあります。

九戸政実・九戸実親・七戸家国らは、三ノ迫(さんのはざま)に連行されて斬首となりました。
九戸政実、享年56歳であったと伝えられています。

言い伝えでは、斬首された九戸政実の首は、家臣・佐藤外記が密かに持ち帰り、九戸神社近くの山中に埋めたされています。

九戸氏は滅亡しましたが、九戸政実の実弟・中野康実は、豊臣家の九戸城攻めの際に、道案内した功績もあり花輪城を預かり、その子孫が、のちに八戸氏・北氏と共に盛岡藩・南部家の家老を務め、南部家「御三家」の一つとして続いています。

九戸家の家臣

吉兵衛館主・中野康実は、九戸信仲の子で九戸政美の弟。別名は中野弥五郎、高田吉兵衛。
高水寺斯波氏に入婿して高田村を知行した。
天正14年、出奔していたが九戸家に戻り、高水寺斯波氏攻めの先鋒を務めた。
高水寺城3500石になると、城名を郡山城と改名し、片寄城主ね兼ねた。
九戸の乱では南部信直を支持する側に立ち、北信愛の命を受けて浅野長政の軍勢の道案内を担当したが、のちに南部利直と不和となり、毒殺されたとされる。
子の中野正康が跡を継いでいる。

九戸亀千代は、九戸政実の子。
九戸城が落城した際して生母らと落ち延びようとしたが、蒲生勢に捕縛された。
そして、蒲生氏郷の家臣・外池甚五左衛門が首を刎ねている。
別説では佐藤外記と落ち延びたが、佐藤外記に介錯を頼んで自刃したともされるが、佐藤外記が裏切って、亀千代を斬ったとも伝わる。

佐藤外記は、九戸城落城に落ち延びた。
九戸政実が処刑されると高野山に向かおうとしたが、途中で思い直して、晒されていた九戸政実の首を奪い、それを九戸政実の妻子に引き渡したとされる。
また、長光寺薩天に九戸政実の引導を依頼したが、一説には九戸政実の遺児・亀千代を連れて逃亡するも、その途中で亀千代の介錯を務めたとも、裏切って亀千代を斬ったとも言われている。

七戸家国は、別ページにて触れていますので、ここでは省略します。

七戸城と七戸家国~姫塚伝説もある七戸南部氏の居城

櫛引城主・櫛引清長(1539年~1591年)は、南部一門で河内守。
九戸の乱に参戦して、大将分として九戸城にて籠城したが、討ち死にしたと推測される。53歳。
櫛引清政(1554年~1591年)は、櫛引清長の弟。
小笠原兵部と同一人物の可能性が高く左馬助とも言い、法師岡館に居住した。
大将分として九戸城に籠もり「九戸軍記」は最後の突撃をしたあと、自刃したと伝わる。享年38。

嶋守館主・嶋守安芸(四戸太郎左衛門)は、弟・四戸主善と共に籤引清長に属したが、八戸政栄に攻められて討たれた。
 
大里修理亮も、九戸の乱では大将分として九戸城に籠もった。
その他、大将として籠城したのは下記の武将。
円子金五郎、円子惣五郎、蛇口弥助、晴山玄蕃、宮野弥三郎、二戸一休斎、軽米兵右衛門、岩館作十郎、奥寺右馬充、夏井久膳、大野弥五郎、三日市越前、馬門小左衛門、諏訪新右衛門、小袖弥七郎、二子喜左衛門、大野彦太郎、種市伝右衛門、大森左馬之助、長内庄兵衛、泉山刑部、泉谷孫助、小田子民部、南館玄蕃、横浜左衛門尉、野辺地久兵衛、天麻館左衛門、和田覚左衛門、大浦主殿助、新館兵部、長岡伝右衛門、堀野彦兵衛、江刺家一熙斎、工藤新十郎、高坂肥前、鳴海刑部、野田金吾、坂本新吉、伊保内美濃、山根彦左衛門、花巻左近、有戸喜左衛門、戸伊良監物、梁田甚兵衛。
いずれも、いずれも討死、もしくは自刃した模様。

畠山重勝は、九戸政実が降伏を決意した際に、それを諫めるため自刃した。

他に、九戸の乱に参じて「外様衆」として九戸城に籠城した武将は下記の通り。、
美濃貞継(美濃玄蕃)、坂本仲光(坂本雅楽)、畠山師泰(畠山右衛門佐)、嶋森主膳、中野造酒正、花輪弥十郎、上野左衛門、工藤右馬助、高家将監、晴山治部少輔、いずれも討死・自刃した模様。

姉帯兼興は、九戸の乱際に姉帯城を守備したが、8月中旬に蒲生氏郷に攻められた。
敗北濃厚で城を出て、蒲生勢に突撃したが、全身14ヶ所にキズを負い、馬上で自刃したと言われている。
弟の姉帯兼信も、同様な蒲生勢に撃って出て、熊谷貞氏を斬りつたが、蒲生氏郷の甥・石黒喜助と差し違えた。

工藤業綱(工藤右馬介業綱)は、九戸勢における鉄炮の名手で、蒲生氏郷は家臣・蒲生源左衛門に的を用意させて、射抜けるか試そうと考えた。
そのとき、傘を用意した蒲生源右衛門は、九戸勢に源平合戦の頃の様に傘を射抜いて見せよと伝えたと言う。
すると、工藤業綱は、蒲生源右衛門に傘のどの部分を射抜けばよいかを尋ねると、島の部分を撃つよう言われた。
島とは傘の柄と骨とが合わさる部分で、約百間の距離から傘の島を撃ち抜き、その技量に敵味方から絶賛の声が挙がったとされる。
天正20年1月12日夜、南部信直が岩谷観音を参拝した際に、狙撃しようと待ち伏せしたが、南部家の唐式部が、灯りを南部信直から遠ざけたため、弾は灯りを撃ち、狙撃に失敗したとされる。
そして、工藤業綱は捕縛されたが、南部信直は鉄炮の技量を見込み、200石を与えて召し抱えた。
南部家では足軽頭を務めたが、このように九戸家の遺臣は約20名が南部家に再雇用されている。

武田九郎左衛門は、津軽為信の重臣・松野信安の父で、九戸の乱に参加し討たれたが、子供は津軽為信に預けていた。

天間館主・天間源左衛門は七戸家国とともに九戸の乱に加わり討死した。

大野館主・大野弥五郎は、九戸城にて討死したが、大野館も南部勢に攻めらて落ちた。

九戸氏菩提寺の長光寺住職・長光寺薩天は、九戸政実らと九戸城に籠もった。
その後、浅野長政に呼び出されると、九戸政実を説得しようとした。
僧侶らは浅野長政が武勇を賞賛していると伝え、早々に降伏すれば武勇の士として恩赦もあるだろうと述べたと言う。
そして、長光寺薩天が浅野長政の降伏勧告の書状を九戸政実に渡し、生きながらえる事が先祖への供養になると諭した。
こうして九戸政実は降伏開城を決意して城門を開いたが、城兵は根切りにされ、九戸政実も処刑されることになった。

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