小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易となる

横手城

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小野寺義道(おのでら-よしみち)は、1566年8月8日、小野寺輝道(小野寺景道)の次男として生まれました。
母は、鮭延氏の娘(佐々木貞綱の妹)とされます。

小野寺氏と言うのは、もともと「一所懸命」の地として平安時代に下野国都賀郡小野寺を領したのが始まりとされます。
ちなみに、一所懸命の土地 (いっしょけんめいのとち)と言うのは、命をかけて最後まで守り抜く覚悟を持った土地と言う意味で、一生懸命の語源とされています。
そして、小野寺氏は南北朝時代に広大な所領である出羽雄勝郡の出羽・稲庭城に移住し南朝として活躍し、室町幕府においては京都御扶持衆となり中央とも繋がりを持ちました。


こうして、父・小野寺輝道は、出羽の戦国大名として最盛期を築き、1583年に家督を小野寺義道に譲ります。

この頃、最も敵対していたのは山形城主の最上義光であり、1585年最上義光が大宝寺義興の尾浦城を攻めると、小野寺義道は最上領へ侵攻しました。
しかし、1586年、最上義光や戸沢盛安らが小野寺領内に侵攻を開始したため、1587年、出羽・角館城主の戸沢盛安とは和睦し、仙北七人衆をしたがえて秋田城秋田実季と戦っています。
ところが、その隙を突いて、最上義光から攻められ、小野寺義道は秋田攻めと、最上勢の対処と2局面で同時に戦いました。
そのため、兵力を分散させた結果、両方で手痛い敗北を喫して一部の所領を失い、最上勢の先鋒・鮭延秀綱の調略により、寝返る武将が続出します。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにおいては、小野寺義道は、西馬音内主・小野寺茂道らと参陣要請に従ったため、所領安堵となっています。
しかし、奥州仕置においては太閤検地に反発した家臣らが一揆衆と「仙北一揆」を起こします。

仙北一揆(せんぼくいっき)では鍋倉四郎ら2万4000人が増田城・山田城・川連城などに籠ったため、上杉景勝らが鎮圧しています。
小野寺義道は、一揆に加担していませんでしたが、責任を問われ所領の3分の1を失い、31600石となりました。
この時、庶子だった兄・小野寺光道(浅舞城主)が責任をとって自害したともされています。(諸説あり)
なお、没収された地が小野寺氏にとっては先祖伝来の地であったため、以後、旧領回復を試みることになります。

しかし、1595年、最上義光の謀略によって、楯岡城主・楯岡満茂が、小野寺家の軍師・八柏道為が最上家に内通していると言う偽文書をばら撒きます。
そして、疑心暗鬼となった小野寺義道は八柏道為を横手城に呼び出して、大手門前にある中の橋にて、殺害しました。
この機に、最上義光は楯岡満茂を総大将にして出羽・湯沢城を攻略させています。

横手城

湯沢城が落城し、次の目標が岩崎城で間違いないと推測した岩崎義高は、主君・小野寺義道に援軍を要請しましたが、最上勢は今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城などを攻撃します。
そして、前森城主・原田大膳が岩崎城に夜襲をかけ、岩崎義高も討死し、最上氏の城となりました。

このように、小野寺氏は衰退を続けましたが、1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方しました。
そのままであれば、よかったのですが、上杉景勝が最上家を攻撃すると、旧領回復を目論んで、上杉家に味方したため、本荘城主・六郷政乗らから反撃を受けています。
そのため、小野寺義道は所領没収・改易となり、弟・小野寺康道とともに、石見・津和野城に流罪となり、坂崎直盛が身柄を預かりました。


その後、長生きしますが、小野寺義道は津和野で40年以上の余生を過ごし、1645年に死去しています。享年80歳。
なお、次男・小野寺宮内の家系は津和野を離れて、笠間城の浅野家に仕えており、その子孫が赤穂浪士のひとり小野寺十内(小野寺秀和)であると伝わります。

小野寺輝道(小野寺景道)とは
八柏道為 小野寺氏を最盛期に導いた軍師
楯岡満茂とは
出羽・六郷城 六郷道行と六郷政乗
横手城 小野寺氏が本拠地にした出羽の拠点
出羽・湯沢城 小野寺経道の本拠地で佐竹南家が整備した山城
最上義光とは~羽州の狐・虎将と呼ばれた勇将
出羽・稲庭城 スロープカーで行く山城への登城
本荘城 楯岡満茂が整備した由利の一大拠点
秋田実季とは
小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士

 

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