戸沢盛安 鬼九郎(夜叉九郎)の異名を得るも25歳の若さで

戸沢盛安

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戸沢盛安(とざわ-もりやす)は、勇猛果敢にして知略があり鬼九郎(夜叉九郎)の異名で呼ばれた名将で、1566年2月に、出羽・角館城にて戸沢道盛の次男として生まれました。
母は本堂城主・本堂親条の娘となります。
次男でしたので、本来であれば家督を継げませんでしたが、17代の兄・戸沢盛重は病弱で仏門に入ります。
そのため、1578年に、13歳の戸沢盛安が家督を継ぎました。


戸沢氏は、平忠正の子である平維盛の流れとされますが、源氏の木曾義仲の加担して平家打倒に加わっています。
その不義もあり、平衝盛は奥州磐井郡滴石の庄にある戸沢に移り住んだと言います。
その後、源頼朝に仕えると、屋島の戦いなどで活躍し、1194年には、石を与えられました。
のち、滴石内戸沢に拠点を移し、戸沢氏を称するようになります。
戸沢兼盛のとき、1220年に門屋小館に移って出羽・小山だ代を築き、1228年には出羽・門屋城に移ると、長らく戸沢氏の本拠地とします。

出羽・門屋城

まぁ、奥州藤原氏の郎党だったと言う説など、もちろん諸説ありますので、その当たりはご理解願いますが、やがて南部氏に押されて従っています。

戸沢盛安は、南部氏からの独立を目指して、勢力拡大を図ります。
一方で織田信長にも接近を図り、1579年には大曲城主・前田薩摩守を使者として安土城に派遣しました。

1582年、檜山城主・安東愛季が侵攻したため、楢岡城主・小笠原右衛門と共同して迎撃しますが、僅か1000の兵しか出せませんでした。
しかし、3日間の野戦で戦った末、安東愛季から勝利しています。
この時、負傷した敵兵には、何もせずに帰したと言う逸話もあります。
1586年、横手城小野寺義道が、山形城主・最上義光の進出を抑えるために、みずから大軍を率いて有屋峠に向うと沼館城主・大築地秀道が留守の横手城の守備に入ります。
この隙に婚姻関係にあった楢岡城主・楢岡右衛門尉(小笠原右衛門)と3000余騎を率いて、沼館城を攻撃するべく布晒に布陣します。
大築地秀道(大築地織部)もただちに阿気野に出陣したため、阿気野の戦いとなりました。
戸沢氏の先鋒・楢岡氏は小野寺勢に崩されましたが、戸沢盛安は、500の手勢にて敵陣に突っ込み、小清水蔵人を討ち取るなどの奮戦によって、鬼九郎と称されるようになりました。
1587年には、安東愛季が3000にて再び攻めてきましたが、仙北淀川の陣中で没したため、1200の戸沢勢は難を逃れました。(唐松野の戦い)
その死を受けて、豊島城主の安東道季が謀反を起こすとその誘いに乗り、戸沢盛安は檜山城を攻撃して50日間も包囲しましたが、落とすことできず、以後は防衛に努めることになります。
1589年、湊合戦では、湊通季を支持して、秋田実季と戦っています。


1590年、豊臣秀吉小田原攻めを行い、諸将に参陣を命じると、いち早く本堂忠親らが向かいます。
戸沢盛安(25歳)も直ちに角館を発ちましたが、経路上は小野寺義道らがいたことからか、侍6人と足軽3人の供回りで商人の姿に変装したと言います。
しかし、酒田の羽前港にて路銀が尽きてしまい、酒田の豪商・加賀屋与助から7両を借りたと言う話もあります。
東海道を西に進み、大井川を渡って金谷宿に到着した際に、豊臣秀吉は既に島田におり、行き違いになったと言います。
このとき、戻ろうとしましたが、大井川が大雨で増水し、渡れないという状況のさなか、家臣の静止を振り切り、戸沢盛安は「一夜たりとも遅参してはならぬ」と提灯を掲げて根性で泳いで渡ったとされます。
そして、戸沢盛安は体が濡れたまま豊臣秀吉と対面したため、秀吉はこの盛安の参陣に満足し腰刀備前兼光の太刀を与えました。
戸沢盛安は国元から軍勢を小田原に呼び寄せて、中村一氏の軍勢に加わりましたが、無理がたたったのか、不幸にして小田原の陣中で病死しました。

嫡男・戸沢政盛はまだ4歳だったため、豊臣秀吉に弟・戸沢光盛を後継者にする許しを得て、4万4350石の所領が安堵されています。
墓所は、堀秀政の墓もある、小田原の海蔵寺にあると言いますが、現在、戸沢政盛の墓石は行方不明のようで、訪問時にも探しましたが、わかりませんでした。


弟・戸沢光盛も1592年に肥前・名護屋城に赴く途中に疱瘡となり、姫路城下にて死去しました。(享年17)
その後、戸沢盛安の長男・戸沢政盛が家督を継いでいますが、戸沢盛安は正室を持たなかったため、現在でいう妾の子と言う事になります。

戸沢政盛とは
角館城 6歳で家督を継いだ戸沢道盛の復活劇
横手城 小野寺氏が本拠地にした出羽の拠点
安東愛季 安東氏を大きく飛躍させた戦国大名
出羽・豊島城(豊島館) 畠山重村(豊島重村・豊島休心)と湊合戦
雫石城(雫石御所)とは 高原である雫石の奪い合いも
小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
秋田実季とは

 

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