弥助 信長に仕えた黒人の武士

戦国時代に天下布武を掲げて戦った織田信長の元に黒人の家臣がいました。

名前は弥助でテレビやゲーム「仁王」や「信長の野望」で名前を見たことがあり、存在を知っている方は少なからずいるかもしれません。

また、海外では段々人気になり始め、映画化される噂もあります。

しかし、実際に何をしていたのかという生い立ちは詳しくわからない方の方が多いと思います。


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今回は謎の多い黒人の武士、弥助の生涯を紐解いてみたいと思っております。

生まれは北東アフリカ

弥助の出身地は定かではありませんが、モザンビークまたはエチオピアといわれていますが、有力視されているのはエチオピアとされています。

それは弥助の出身部族がディンゴ族とされているからであり、ディンゴ族の特徴として平均身長が高いことがあげられ、身長が約188㎝あった弥助はこの部族に該当しています。

そして、弥助は奴隷商人によってインドにやってきます。インドでは北東アフリカの奴隷を「ハブシ」と呼んでいました。ハブシの特徴として戦闘技術が高く、忠義に篤いので主君を裏切ることは決してないことが挙げられます。

また、ハブシのことをポルトガル語でカフル(アフリカ人の意味)と呼んでいるのですが、ルイス・フロイスの書簡でも弥助のことをカフルと呼んでいますので、インドでハブシとして生きていたことがわかります。

弥助

その後、ヴァリニャーノの従者としてインドから日本へ向かいます。島原半島にあった町、口之津港に着いたヴァリニャーノと弥助は2年間九州で布教活動をしたとされています。日本語はその期間で覚えたとされ、物覚えが良い弥助は日本の文化と日本語を覚えました。

九州で2年間を終えた後に当時日本最大の実力者だった信長に会うためにヴァリニャーノと共に京都へ行くことになりました。

信長に仕えてから

当時、京都で黒人が街中を歩いていたことは話題になり、弥助見たさに見物人がごった返してしまい、怪我人や喧嘩が起こるくらい人気となっていました。その騒動の張本人を見たいと思った信長は本能寺まで弥助を呼びつけました。

初めて黒人を見た信長はその肌が人工であることを信じて弥助の体を洗わせましたが、色が落ちなかったので肌が本物だと理解すると弥助に関心を示すようになります。

弥助を気に入った信長は百両という破格の待遇で引き取りました。これは南蛮の文化に寛容だった信長だからこその対応だと思います。そして、日本語を話し怪力だった弥助は珍しいもの好きの信長にはたまらかったと考えます。

弥助は信長から「弥助」という和名と武士としての身分と刀を貰います。この和名は武士の身分なら必ずあるはずの苗字がないため、弥助の本名を漢字に当てはめたものと思われます。

気になる弥助の本名は「イサク」または「ヤスフェ」と考えられており、本名が濁って弥助と名付けられたとされています。

武士階級になった弥助は信長の小姓として側近くに仕えていました。さらには住居を与え、いずれは城主にしようと思っていたくらい信長に気に入られていました。


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本能寺の変後、どこへ?

天正10年(1582)2月から3月の間で行った甲州征伐でも弥助は信長につき従いました。そして、同年6月に起きた本能寺の変では小姓として本能寺で宿泊していました。

本能寺に明智軍が襲来すると信長と共に戦い、信長の死を見届けると報告のため二条御所にいる織田信忠の元へ向かいました。信忠と明智軍に立ち向かいましたが、信忠は自害し弥助は捕らえられました。

弥助の処遇に関して明智光秀は殺す価値がないと判断し、イエズス会に返しました。この行為から光秀は弥助を高く評価していないことが読み取れます。

その後の弥助の消息は分からなくなりますが、フロイスの『日本史』によると天正12年(1584)に起きた沖田畷の戦いで黒人の存在が確認されています。有馬晴信に味方し、大砲を扱っていた黒人は弥助ではないかと推測されています。

(寄稿)拾丸

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