織田信忠~偉大な父に認められるも本能寺の変に散った26歳の命


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 織田信忠は、織田信長の嫡男。母は生駒吉乃とする説もあるが、異説もある。幼名は奇妙丸。

 織田信長の跡取りとして、合戦でも総大将として指揮を取る機会も増え、順調に成長し、武田攻めでは武田勝頼を早期に滅ぼすと言う実績も挙げた。
 この章では、織田信忠が命を落とした本能寺の変に関してのみ記述する。

 武田滅亡から僅か数ヶ月後の1582年6月2日未明、織田家家臣の明智光秀が裏切り、中国攻めへ出陣する途中だった、織田信長の宿舎「本能寺」を突如襲った。

 この時、織田信長と共に中国の羽柴秀吉への援軍として同行していた織田信忠は、本能寺からちょっと離れた妙覚寺を宿舎としていた。

 織田信長も、織田信忠も手勢は僅か数百程度で、柴田勝家は越前、滝川一益は関東、徳川家康丹羽長秀は大阪・堺を遊覧中、羽柴秀吉は中国で毛利攻めと、このような好機が無かった事もあり、積もりに積もった明智光秀は手勢15000を京に向け、織田信長を襲撃したのだ。

 明智光秀の本隊は、まず織田信長が滞在している本能寺を強襲。

 スポンサーリンク


 明智光秀謀反の報を受けた織田信忠は、すぐさま本能寺へ救援に向かおうとしたが、そのうち織田信長・自刃の知らせが入ると、明智光秀の攻撃に対して対応する為、異母弟の津田源三郎(織田信房)、側近の斎藤利治、京都所司代の村井貞勝らと共に二条城へ籠った。

 この時、皇太子・誠仁親王の居宅となっていた二条新御所に入ると、織田信忠は誠仁親王を脱出させ、わずかな将兵と共に篭城した。
 明智勢も二条城を攻撃開始し、近衛前久邸の屋根から二条御所を銃矢で撃ち、伊勢貞興の猛攻には耐え切れず、織田信忠は自害。介錯は鎌田新介が務めた。
 遺体は、二条御所の縁の板を剥がさせて隠すように命じていたとされる。
 享年26。

 父・織田信長も遺体が発見されなかったが、この織田信忠の首も明智光秀の元に届く事はなかった。

 村井貞勝は長男・村井貞成と二男・村井清次とともに討死。
 斎藤道三の子で、織田信忠の側近だった斎藤利治は、明智勢の斎藤利三らに攻められ、主を追って討死。

 なお、織田信忠の子・三法師は、本拠地・岐阜城に在城しており難を逃れいたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に警護されて、清洲城へと避難した為、のちの清洲会議にて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が「清洲会議」にて、織田家の後継者として擁立したのだ。

明智光秀の生涯についてはこちら
織田信長と言う人物に迫る~【織田信長】の性格・人柄は?
織田信忠と婚約していた武田信玄の娘・松姫
前田玄以~京の街や清洲も守り抜いた三法師の守役
安土城~それは織田信長が天下に示した最新のアトラクションだった
二条城とは~京都における徳川家康の滞在先
大河ドラマ「真田丸」の出演者キャスト一

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明…
  2. 豪姫(ごうひめ)は、織田信長の家臣・前田利家の4娘として尾張・荒子城(愛知県名古屋市)にて1574年…
  3. 立花誾千代とは立花誾千代(たちばな-ぎんちよ)は戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として筑後(久留…

人気の戦国武将

  1. 今川義元(いまがわ-よしもと)は、1519年、駿河・遠江守護の今川氏親の5男として生まれた。幼名は芳…
  2. 1535年7月23日、伊作城(本丸を亀丸城と呼ぶ)にて島津義弘が誕生。父は島津貴久で、次男として生ま…
  3. 長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康・織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が120…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る