村井貞勝  織田家随一の能吏も本能寺で散った「都の提督」

村井貞勝




村井貞勝(むらい-さだかつ)は、戦国時代織田信長京都を統治した際
京都所司代として、朝廷との交渉・行政・治安維持・建築物の造営など
京都統治のすべてを統括した能吏です。

当時の京都を領有することの目的のひとつに、
朝廷・将軍家の伝統的な権威を背景にして、
自軍の正当性を周囲に認めさせること(他勢力を賊軍にできる)
があげられます。


朝廷、将軍家が京都を領有する勢力を認め
官位・役職を与えるのは、実力もそうですが、
民衆からの支持も重要な要素でした。

古くからの権威と円滑な関係を築きながら、善政を敷き
民衆からの支持を得る。これが朝廷・将軍家に認められることであり
その結果権威がつき、天下を治めることに近づくことになります。

貞勝が務めた、京都所司代というのは、
「戦略的な京都統治」という観点からも非常に重要な役割でした。

最後は、本能寺の変で信長の嫡男:信忠と一緒に戦死してしまう
織田家随一の能吏の人生を見ていくことにしましょう。

織田家の尾張統一~美濃攻略時代

出身は近江国(太閤記)とされ、生まれた年ははっきりとわかりませんが
1520年前後だと考えられています。娘は、佐々成政前田玄以福島高晴
に嫁いでいます。
早くから信長に行政・事務の能力を認められ、
徐々に活躍の場を広げていきます。とくに、この勢力拡大期においては、
敵勢力との交渉で名をあげます。

(尾張統一期/弟の信勝謀叛)
1556年。
弟の信勝が謀叛を起こします。
この時は、島田秀満とともに信長、信勝兄弟の生母・土田御前に仲介を頼まれて
末森城まで赴き、林秀貞、柴田勝家らと和平交渉を行っています。


(美濃攻略時代)
1568年。
斎藤龍興を見限り信長に内通した美濃3人衆(稲葉良通安藤守就、氏家ト全)。
この時に、3人衆からの人質を受け取りに出向いています。

やっと勢力地盤が固まりつつある当時の織田家では、
その兵力や威信を背景に交渉を有利に進めることもままならないはずです。
状況の分析や相手の心理状態を読むことのできる能力も
必要だったのではないでしょうか。

足利義昭の招聘~京都での政務

1569年。
美濃攻略後、信長は京都攻略を本格的に開始します。
まずは「将軍からの上洛要請」という名分を得るため
越前へ足利義昭を迎えるため、貞勝を使者に立てます。

義昭は無事に美濃へ迎え入れられ、
織田軍は上洛戦を開始。畿内を平定させ京都を領有します。
ここで、朝廷との折衝・行政・治安など、「京都の統治」が
課題となります。


信長自身は、京都に常駐することができないので、貞勝をはじめ
佐久間信盛丹羽長秀、木下秀吉、明智光秀らに京都市中の行政
や朝廷との折衝を命じました。

(京都滞在時代)

1569年に織田軍が上洛を果たしてから、1573年に室町幕府が
滅亡するまで、貞勝は京都市中で行政・建造・得意の交渉などで
織田軍の京都領有を支えることになります。

▼対足利将軍家
織田軍の京都占拠後、将軍家への反対勢力である
三好三人衆が義昭を襲撃する事件が起こります(六条本圀寺の変)。
義昭の命を保護する必要があるため、信長は二条御所の着工に
とりかかります。貞勝はこの時、奉行に任命されます。
近国の14ヵ国から人夫が動員される大規模な造営工事となったが、
着工から2カ月弱で、完成したという記録があります。

▼対朝廷
信長は、朝廷工作として京都御所の修築を行います。
この時、貞勝は内裏修理の奉行を務めることになります。

▼軍事への対策
貞勝と明智光秀は、
大軍勢の移動と物資の円滑な輸送を目的とし、
要地である京都の山崎の道路拡張工事を監督します。

▼浅井・朝倉との和睦
近江の志賀で対陣した、浅井・朝倉連合軍との
和睦調停は将軍と天皇が仲介をすることになりました。
両人を動かす工作を行ったのは貞勝の可能性があります。


このようにして貞勝は、行政官・交渉役として存在感を増していきます。
同時に、織田家の京都領有も軌道に乗り出していました。
しかし、信長の勢力、権威の拡大をおそれた将軍義昭との関係は
徐々に狂い出し、決裂。信長と義昭は数度に渡り戦をすることになります。

信長は、実子を人質に差し出し誓書を提出するという
条件で和議交渉を貞勝にさせますが、義昭がこれを拒絶。
武力衝突の末、義昭は敗北し京都を追放され、
ここに室町幕府は滅亡します。

京都所司代就任

1573年7月、貞勝はこれまでの実績を認められ「天下(京都)所司代」
となり京都に常駐することになります。

明智光秀、松井友閑らの行政官僚らと共に、
・京都の行政、治安維持
・朝廷、公家への対応
・各寺社との交渉、
・諸大名との交渉窓口 
等を担当。京都の復興と発展に尽力していくことになります。
ここから、貞勝の活動は加速します。

▼対朝廷
長引く京都での戦乱により、公家は困窮していました。
これを救うため、公家の旧領を返還させる徳政令を出します。
貞勝は丹羽長秀と、土地に関する文書の調査、係争の調停を担いました。

▼対諸勢力窓口
奥羽の伊達輝宗伊達政宗の父)よりの使者の接待を行いました。
(この少し前に、正六位下・長門守に叙任)

▼統治対策
新しい二条城の建造を貞勝が務めました。


▼対朝廷
貞勝は、担当していた御所の修繕が終わりつつあるので、
仕上げとして、御所の築地塀の修復に協力するよう町人に命じました。
貞勝はこれを進めるうえで、人数をいくつかの班に分け作業を競わせます。
作業と合わせて、歌や踊りが披露され、周辺は大変な賑わいとなりました。
これを正親町天皇や公家衆も見物した、という記録もあります。

▼統治対策
信長は、自身の京都での居住場所を本能寺とします。
貞勝が普請を務めました。

活動の範囲が多岐に渡るため、多忙により「病気がちであった」
という記録も残っています。

本能寺の変

1581年、貞勝は出家して村井春長軒と号し、
家督を息子の貞成に譲っています。

この隠居後に、貞勝は三職推任問題の対応をしています。
「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍いずれにするのか」
という織田家のこれからに非常に重要な交渉です。

しかし、この交渉の答えが出る前に、
1582年6月本能寺の変が起きます。

6月2日。京都の統治をする仲間であった明智光秀が謀叛。
本能寺に宿泊していた信長は、
明智光秀の軍勢に包囲され自害して果てました。

貞勝自身は、本能寺向かいの自邸にいましたが、
信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に逃げ込みます。
京都の多様な建造物の普請に関わっていた貞勝は、
本能寺にいる信長は手遅れであると判断。
嫡子の信忠に、守りやすい二条新御所
での防戦を提言し、信忠もそれに従って防戦の準備を整えます。
奇しくも本能寺・二条城の普請に貞勝が関わっていました。


明智軍との兵力の差は埋めるべくもなく、
敗色が濃厚になる中、貞勝にはやるべき最後の仕事が
残っていました。

実はこの二条新御所は昨年、信長が皇太子に譲渡しており、
この籠城時には皇太子・誠仁親王が滞在していました。

はからずも、二条新御所への籠城で皇太子を巻き込んでしまう
ことになっていたのです。
長年に渡り、京都の復興と発展に身をささげてきた貞勝。
この時、皇太子を逃すべく明智光秀と人生最後の交渉を
行い、誠仁親王を逃すことで合意を得ることができました。

一時停戦となり皇太子は解放され、
それを見届けた明智勢の攻勢は再び始まります。
信忠勢は明智勢を何度か押し戻したと伝わりますが、
兵力の差を埋めることはできませんでした。
最後は、織田信忠と共に二条新御所において自害して果てました。


信長の天下統一を支えていたのは、
「他から奪う」存在の武将だけでなく、
奪った領地を「維持する」行政手腕を持つ能吏も
重要な存在でした。

ルイス・フロイスが貞勝のことを「都の総督」と呼んだと記録されています。

(寄稿)渡辺綱

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渡辺綱

投稿者プロフィール

日本史を中心として、東アジア史全般(中国、朝鮮、満州)に興味あり。 
好きな作家:司馬遼太郎、黒岩重吾、陳舜臣、海音寺潮五郎、今東光、
      吉川英治、山岡荘八、宮城谷昌光

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