正親町天皇の解説 戦国時代をうまく切り抜けた天皇

正親町天皇

正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、戦国時代の第106代天皇です。
後奈良天皇の第一皇子として1517年に生まれました。
母は藤原栄子です。

三条西公条・三条実枝に和歌・古典の指導を受け、和歌御会などを頻繁に開催しています。
1557年に父・後奈良天皇が崩御すると践祚(せんそ)しました。


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当時の天皇家や公家は、お金がなく困窮しており、後奈良天皇の葬礼費も、三好長慶が洛中棟別を課して徴収して工面しています。
また、正親町天皇が即位するにしても「即位の礼」を挙げることができませんでした。
そのため、永禄2年(1559年)に、安芸・吉田郡山城の毛利元就が、即位料・御服費用として銭2000貫を献納し、1560年に即位の礼を挙げることが出来ています。

献金と言うと、本願寺顕如も莫大な額を寄付しており、正親町天皇は「門跡」の称号を与えました。
その影響からか、永禄8年(1565年)、正親町天皇自ら、キリスト教宣教師の京都追放を命じています。

永禄11年(1568年)、上洛した織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分にて、京都に入り支配権を確立しました。
そして、朝廷の財政は、織田家の財力によって回復傾向となります。

また、織田信長は、敵対勢力に対して、天皇より講和の勅命を出させるなどして、天皇の権力も活用しています。
特に、1570年の朝倉義景浅井長政との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年の石山本願寺との戦いでは、正親町天皇の勅命によって停戦に持ち込みました。
しかし、1573年頃から、織田信長は興福寺別当の人事を巡り対立します。
そのため、正親町天皇に対して譲位を要求し、誠仁親王を天皇にしようと考えたとされています。(正親町天皇が自ら譲位を考えていたとする説もあります。)
譲位(じょうい)と言うのは、天皇の座を辞めて、譲る事を言います。
ただし、退位後の生活場所になる「仙洞御所」が用意できていなかったことから、なかなか譲位も実現しませんでした。


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そんな折り、1582年、明智光秀による本能寺の変がおき、豊臣秀吉が権力を握ります。
豊臣秀吉は、御料地や黄金を天皇に献上し、政権の後ろ楯にしたので、窮乏状態を脱した皇室の権威は高まったと言います。
皇居の修理、伊勢神宮の造営や遷宮、朝儀の復興などにつくし、豊臣秀吉を関白に任じます。
その翌年、天正14年(1586年)、正親町天皇は、孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退し、太上天皇と号しました。
のち、文禄2年(1593年)1月5日に崩御。享年77。
墓所は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)。

2020年NHK大河ドラマでは正親町天皇を歌舞伎役者の坂東玉三郎さんが演じられます。
また、正親町天皇の弟・覚恕法親王も、ドラマに登場する予定です。

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