覚恕法親王の解説 比叡山延暦寺「天台座主」

覚恕法親王

覚恕法親王(かくじょほうしんのう)は、戦国時代に天台座主になった僧侶で、1521年に生まれました。
父は後奈良天皇で、母は壬生雅久の娘・伊予局となり、覚恕(かくじょ)は第三皇子にあたります。
兄に方仁親王(正親町天皇)がいたのと、母の身分が低かったことからか、4歳の1525年には、僧となって、延暦寺曼殊院門跡において得度しました。
そして、1527年、6歳にて曼殊院門跡を相続し曼殊院覚恕法親王となっています。
この曼殊院(まんしゅいん)には、古今和歌集(色紙・国宝)、源氏物語・池坊専好立花図・古今伝授関係史料(国の重文)など、文芸の書籍が伝世しています。


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1557年(弘治3年)、准三宮となると金蓮院准后と称しました。
准三宮(じゅさんぐう)と言うのは、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇にすると言うものです。

和歌・連歌等を好んだようで、常に禁中の御会などには常に出席していたと言います。
また尊鎮流の書もたしなみ、著書に「覚恕百首」があるようです。

1570年(元亀元年)、覚恕は、比叡山延暦寺、166世・天台座主となります。
この時、甲斐の武田信玄からは、お祝いの品としてり「猿図」(東京国立博物館蔵、国の重要文化財)が贈られています。

戦国時代の比叡山には数多い坊舎があり、僧侶は妻子らと暮らしていました。
自らの権力を守るため、僧侶は武装化しており、その数は数万と、大大名並みの軍事力も有していました。
延暦寺と言う建物はありませんが、比叡山にある全部の寺院の総称が、延暦寺(えんりゃくじ)と言う事になります。

そんな折り、蜂起した三好三人衆軍と石山本願寺織田信長は、野田城・福島城の戦いとなります。
その最中に、浅井長政朝倉義景は3万の大軍にて、織田信長の背後を突くため琵琶湖の西岸を南下しました。
織田勢は近江・宇佐山城にて防衛し、森可成、織田信治、青地茂綱などが討死するも、主を失ったあとも家臣の各務元正らが奮闘し、落城は免れています。
そして織田信長が宇佐山城に入ったため、浅井・朝倉勢は、比叡山の覚恕に支援を頼み、壺笠山城や比叡山など籠ったため、2ヶ月膠着状態となっています。
そのため、織田信長は、朝廷と足利義昭に和睦の仲介を依頼して、正親町天皇の仲介を受けた朝倉義景らは、冬になり雪で退路を閉ざされる前に撤退しています。


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織田信長は敵対する勢力を勝利するためには、まずは比叡山を攻略する必要があると考えます。
1571年(元亀2年)、織田信長は、天台宗の比叡山を焼討ちしました。
この時、覚恕法親王は、比叡山・延暦寺にいなかったため、難を逃れています。
しかし、織田信長より責任を追及され辞任すると、甲斐の武田信玄を頼って逃れました。
そして、戦功があった明智光秀坂本城を築かせて、比叡山を監視しました。

覚恕は、せっかく、比叡山のトップになったのですが、すぐに織田信長と対立する構造となってしまい、不運であったとも考えられます。

1572年、覚恕法親王(山城曼殊院覚恕)は、出家していた武田信玄のために、権僧正の僧位が得られるように尽力し、武田信玄が感謝を示しています。

天正2年(1574年)、覚恕法親王は甲斐にて死去しました。享年60。
墓所は京都の曼殊院宮墓地にあります。


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2020年NHK大河ドラマでは、正親町天皇の弟・覚恕法親王を落語家の春風亭小朝さんが演じられます。

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