浅井長政の解説「詳細版」初陣で3倍の敵兵力に勝利した勇将

浅井長政とは

浅井長政(あざい-ながまさ)は、戦国時代の1545年、小谷城主・浅井久政の嫡男として、観音寺城下(現在の滋賀近江八幡市安土町)で生まれた。幼名は猿夜叉丸。
母は正室・小野殿(井口経元の娘・阿古御料人)で、18歳で浅井長政を産んだ時、浅井家は京極家と同族である六角家に破れて領地を失い、浅井久政が六角義賢に臣従していた為、人質として小野殿は観音寺城へ赴いていた。
その為、浅井長政は母と共に、人質として育ったと考えられる。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の大貫勇輔さんが浅井長政を演じられる。

1542年には、妹・京極マリア(京極竜子の母)が誕生している。

1559年、15歳になった浅井長政は元服し、六角義賢は一字を与え「浅井賢政」(かたまさ)と名乗らせた。
更に、烏帽子親を務めた六角家の家臣・平井定武の娘と結婚させた為、実質上、浅井長政は六角家の家臣扱いとなり、浅井家譜代の家臣らは反発した。


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このような六角家の横暴や、浅井久政の弱腰外交に不満が募った浅井家の家臣は、知勇に優れた若き浅井長政に期待を寄せ、浅井久政が鷹狩りに出かけた留守に、浅井長政を小谷城へ迎え入れた。驚いた浅井久政は、家臣を集めようとしたが誰も集まらず、仕方なく琵琶湖の竹生島に逃れた。
そして、浅井賢政は浅井長政(浅井新九郎)と改名して六角家に反旗を翻し、正室・平井定武の娘と離縁して六角家に返した。
いわゆるクーデターを起こした訳だが、かなり前から周到に計画していたようで、浅井長政は父・浅井久政を追放すると同時に浅井・六角領の境界線に位置する六角家の国人領主を調略し、1560年には愛知郡の肥田城主・高野備前守が六角家を裏切り、浅井家に寝返っている。

この高野備前守の寝返りに激高した六角承禎は、1560年8月中旬、先鋒に蒲生定秀と永原重興、第2陣に楢崎壱岐守と田中治部大輔ら25000にてすぐに肥田城を攻撃し、水攻めをしたが、水攻めは失敗。
浅井長政は11000を率いて肥田城の救援に向かい、宇曾川を挟んで対峙した。
兵力差があった為、六角軍が浅井軍を押していたが、緒戦の勝利に油断したところを、浅井軍の反撃や新手の斬り込みなどで崩され、合戦は浅井軍の勝利となった。(野良田の戦い)
六角軍は920人、浅井軍は400人の死者が出たとされているが、浅井長政(浅井新九郎)は初陣にもかかわらず六角軍を相手に見事な戦いを披露し、重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと言われている。
そして、1560年10月、母・小野殿が竹生島の浅井久政を訪ねて、浅井長政との和解を勧め、浅井久政は家督譲って、小谷城下の別邸にて隠居した。しかし、以後も父として浅井長政に対して様々な意見を通しており、この家督移譲には不明瞭な点が多い。

また、この頃、妹・京極マリアを京極高吉の正室に送り、京極家を取り込んでいる。

1563年、六角義賢のあと家督を継いだ六角義治が筆頭家老・後藤賢豊を暗殺する(観音寺騒動)と、六角家の家臣は動揺して、浅井家に寝返った者も多かった。
同年、浅井長政の美濃へ遠征すると、留守を狙って六角義治が北近江へ進軍開始した為、浅井長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。
殿を務めた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な戦功を挙げている。

以後、六角家とは停戦協議により膠着状態が続いた。


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1563年頃より、織田信長不破光治を使者として送り、安養寺三郎左衛門を仲介して浅井長政に同盟を提案。
1567年、織田信長が朝倉家を攻めないと言う条件も盛り込まれ同盟が成立すると、織田信長の妹・お市の方が、浅井長政の継室として嫁いだ。
下記写真は、北陸本線のJR河毛駅前にある浅井長政とお市の方銅像。

浅井長政とお市の方銅像

通常は浅井側が結婚資金を用意するのを、織田信長が婚姻の費用を全額負担したとされ、同盟を喜んだ織田信長は斎藤龍興の美濃攻略と上洛への足掛かりを得た。
浅井長政(23歳)とお市の方(21歳)との夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったと言い、1569年には茶々、1570年にはお初、1573年にはお江の浅井3姉妹が誕生している。
しかし、八重の方など浅井長政には側室もいる。
また、浅井家と関係の深い越前・朝倉家と織田家は敵対関係にあったことから、父・浅井久政や遠藤直経から織田家との同盟は疎まれた。

1568年7月、越前に滞在していた将軍・足利義昭は、朝倉義景に見切りをつけ、尾張の織田信長の元に身を寄せた。
そして、9月に織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始。
上洛の途中、六角家を攻撃し、浅井長政の宿敵である六角家は南近江の甲賀郡に撤退。浅井長政は足利義昭を守護しながら上洛を掩護した。


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1570年4月、織田信長は徳川家康と共に京から坂本・琵琶湖西岸を通過して越前・朝倉勢の城を攻撃開始。
織田家との同盟に反対する家臣らが、織田信長が朝倉攻めをすると事前に通告しなかった事から、隠居の浅井久政をかつぎ出して、浅井長政を説得。
浅井長政は朝倉義景との同盟関係を重視し、織田・徳川連合軍を背後から急襲した。
織田信長は、殿を務めた羽柴秀吉らの働きにより、命からがら、かろうじて近江を脱出している。(金ヶ崎の退き口・金ケ崎の戦い)


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姉川の戦いから浅井家滅亡まで

織田信長は浅井長政が裏切ったとして報復の為、徳川家康の他、森可成坂井政尚斎藤利治柴田勝家佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下秀吉・丹羽長秀らを伴って出陣。
1570年6月、浅井長政は磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞征、新庄直頼、遠藤直経、前波新八郎、藤堂高虎ら5000と、朝倉景健率いる8000の援軍を得て、姉川の戦い(姉川の合戦)となったが、織田・徳川軍の大勝となり、浅井勢の戦力は大きく低下した。

その後、本願寺顕如も反信長の意志を表して信長包囲網が形成され、浅井長政は9月に朝倉軍や延暦寺・一向宗徒と連携し、再び織田信長への攻勢を強め(志賀の陣)、坂本において森可成や織田信治らを討ち取った。
しかし、織田信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行った為、12月に勅命講和した。

姉川の戦いのあと1570年7月から、織田勢は佐和山城の磯野員昌を包囲。
羽柴秀吉による流言を信じた浅井長政は、人質としていた磯野員昌の母を処刑し、佐和山城への兵糧・援軍も取りやめ、1571年2月24日、佐和山城は攻撃を受けて、磯野員昌は降伏した。
1571年9月、織田信長は浅井家と協力関係にあった比叡山延暦寺の焼き討ちを行っている。


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1572年7月、織田信長は再び北近江攻めを開始した為、浅井長政は朝倉義景に援軍を要請。
朝倉義景は15000で近江に駆けつけた為、織田信長も全力攻撃避け、睨み合いが続いた。
その間、将軍・足利義昭の要請に応えて、9月に武田信玄が甲斐から出陣。武田信玄はこの時、浅井長政・浅井久政親子宛に「今から出陣する」と書状を送っている。
武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康勢を撃退し、三河に進んだが、浅井勢と対陣している織田信長も、徳川家康に充分な援軍送れなかった。
しかし、12月、援軍の朝倉義景15000が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した為、北近江に縛られていた織田勢は美濃に戻ったが、浅井勢単独では退却する織田勢を追撃する事は困難であった。
朝倉義景の判断に激怒した武田信玄は進軍を一時停止させ、再出兵を促す手紙(伊能文書)を送ったが、朝倉義景は無視した。
それでも武田信玄は、翌年1573年2月には進軍を再開し、野田城を攻め落とした。
しかし、武田信玄の急死により、武田勢も甲斐に退却。
これにより織田信長は、安心して大軍を近江や越前に向ける事が可能となった。

1573年7月、織田信長は30000の大軍を率いて、再び北近江に侵攻。
再び浅井長政は朝倉義景に援軍を要請し、朝倉義景は20000にて駆けつけたが、織田勢の勢いが凄まじく、朝倉義景は越前に撤退を開始した。
織田信長は、逃げる朝倉勢を追撃し、朝倉家の本拠地・一乗谷城まで攻め込み、一挙に朝倉家を滅亡させた(一乗谷城の戦い)。

兵を返した織田信長は孤立した浅井長政の小谷城を包囲。
織田信長は不破光治や羽柴秀吉を使者として送り、降伏を勧めたが、浅井長政は断り続け、最終勧告も決裂し、小谷城を総攻撃した。
8月27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から小谷城の京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る浅井長政と小丸を守る浅井久政を分断させることに成功した。
さらにその日のうちに小丸を落城させ、浅井久政は一族・浅井福寿庵、舞楽師の森本鶴松大夫と共に切腹して自害。享年48。
次の日には本丸も落ち、父の助命を条件に降伏しようと、浅井長政は城を出ようとしたが、父の死を知った。
これまでと観念し、浅井長政は本丸の袖曲輪にある家老の赤尾屋敷で赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に自刃。

小谷城の赤尾屋敷跡

こうして、浅井家は滅亡した。浅井長政、享年29。
介錯は木村太郎次郎。
墓所は滋賀県長浜市の徳勝寺。辞世は伝わっていない。

お市の方は3人の娘(茶々、初、江)と共に、藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られたが、長男・万福丸はお市の方の助命嘆願もかなわず羽柴秀吉の手により捕われて殺害(享年10とも)され、次男・万寿丸は出家させられ近江長沢村、福田寺の住職となった。
次男?三男?養子?の浅井井頼は残党狩りから逃れ、のち大阪夏の陣にて討死したことから、真田十勇士の根津甚八のモデルとなっている。

浅井長政・浅井久政親子の首は京で獄門にされ、前述の通り万福丸は探し出されて関ヶ原で磔にされ、親族の浅井亮親、浅井井規も処刑された。


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1573年9月19日、浅井長政の母・小野殿は、織田家に捕らえられ、十指を数日の間にじわじわと切断され、死亡したと伝わる。

また、浅井長政・浅井久政・朝倉義景の頭蓋骨は薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にして、翌年正月に酒の肴として楽しんだと伝えられているが、本当かは定かではない。
小谷城は廃城にした上で、戦功のあった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に与えられ、羽柴秀吉は長浜城を新たに築いた。

徳勝寺(浅井家菩提寺)

長浜の徳勝寺は小谷城主・浅井家の菩提寺です。
元々は上山田村(滋賀県湖北町)にあった医王寺でしたが、1518年に浅井亮政が小谷城を築城開始した際に、小谷山の山麓に移して浅井家の菩提寺としました。

長浜の徳勝寺

浅井家の滅亡後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が長浜城を築いたあと、1595年に長浜城内に移しました。
この時、浅井亮政の諡号徳勝寺殿から「徳勝寺」と改号し、井之口村(滋賀県高月町)に寺領30石を与えたと言います。


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1606年に、近江・長浜城に入った内藤信成は、徳勝寺を長浜城下の田町に移しました。
1617年、徳川秀忠は寺領33石余を安堵し、1672年に浅井長政の百回忌を催した際には、徳川幕府から祭祀料を賜っています。
これは、2代将軍・徳川秀忠の正室が浅井長政の娘であるお江(督、於江与、江)だった為です。
このとき彦根藩主・井伊直惟が、現在地に徳勝寺を移築し、その後も井伊家が徳勝寺を保護しました。
徳勝寺には浅井三代の夫婦像や、浅井一族の位牌、過去帳などがあると言います。
また、徳勝寺の境内には浅井家三代の墓もあります。

浅井家三代の墓

徳勝寺・浅井三代の墓

長浜・徳勝寺への行き方ですが、下記地図のポイント地点となります。

 

浅井久政~行政手腕や外交手腕を発揮し小谷城を強固にした戦国大名
小谷城の訪問記と小谷城の戦い~浅井家の滅亡・浅井御殿も
佐和山城の訪問記と佐和山城の戦い【佐和山城の登山道写真】
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コメント

  • コメント ( 1 )

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  1. 舘井 浩

    戦国時代の姉川合戦については地元の人たちから詳しく教えられた❗国友班長等から❗