吉田兼和 (吉田兼見)~武家と公家の橋渡し役で活躍






吉田兼和(吉田兼見)は、1535年、神祇大副兼右兵衛督・吉田兼右の子として誕生。
京都の吉田神社の神主を代々務める吉田神道の家柄で、朝廷とも親交があった。また、細川藤孝(細川幽斎)の従兄弟(いとこ)にあたる。
1570年、吉田家の家督を継いで、吉田神道(9代目)を継承した。



朝廷以外にも、有力武家である足利義昭織田信長明智光秀豊臣秀吉、細川藤孝(細川幽斎)などとの交友関係もあり、天皇の勅使も担った。
特に織田信長からは堂上家(家格は半家、卜部氏)の家格を許されている。比叡山焼き討ちのとき延暦寺を焼く事に不安を抱いた織田信長が吉田兼和に相談する為訪れたとも言われる。

その中でも明智光秀とは親しかったようで、朝廷をないがしろにする織田信長に反感を抱き、明智光秀と「本能寺の変」を画策したのではとも言われている。
事実、京の本能寺に入った織田信長を、本能寺の変の前日、公家衆のほとんどが本能寺に挨拶しに出掛けたが、織田信長と親しかった吉田兼和は出かけいないなど不可解な点が残る。

いずれにせよ、その後は豊臣秀吉、徳川家康と、時の権力者と朝廷の橋渡し役を続けた。

初名は吉田兼和であったが、1586年に後陽成天皇の諱(和仁)を避けて、吉田兼見に改名。

官途は、従二位・神祇大副・左衛門督。

1610年に死去。76歳。



吉田兼和(吉田兼見)は「兼見卿記」(かねみきょうき)と言う日記を残しているが、下記のようなエピソードもある。

6月2日未明、本能寺の変で織田信長が横死。その後、明智光秀が近江の安土城を目指すのを知ると、その日(6月2日)の午後2時ごろ、粟田口まで馬で駆けつけ、通行する明智光秀と対面し「在所の儀、万端頼みいる」と述べている。
そして、朝廷は明智光秀との折衝に吉田兼和(吉田兼見)をあて、6月6日に吉田兼和は、誠仁親王より使者を命じられ、翌日の6月7日に明智光秀が滞在していた安土城を訪問した。
この時、明智光秀が吉田兼和に謀反の一件をたくさん話したのは有名である。

そして、6月9日に明智光秀が上洛すると、吉田兼和は白川で迎えている。
その後、明智光秀は吉田兼和の屋敷を訪問し、朝廷に銀子500枚、五山と大徳寺にも各100枚ずつを吉田兼和に託し、さらに吉田神社修理の名目で吉田兼和にも50枚を献上し、御礼に夕食を吉田兼和邸で振舞われている。

このように、本能寺の変のあと、新たな「天下人」となった明智光秀に、早々と接触した吉田兼和であったが、羽柴秀吉が驚異のスピードで中国大返しを断行し、6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、明智光秀を破ると、吉田兼和は身の危険を悟ったようだ。

吉田兼和は、日記の1582年(天正10年分)を正月から書き直して、本能寺の変があった6月2日以降に、明智光秀などと接触した記録を排除したのだ。



しかし、明智光秀と会って銀50枚をもらった一件は、後に羽柴秀吉に指摘され、銀50枚を差し出している。

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