後陽成天皇 乱世を生き抜く処世術で皇室を生き残らせる

後陽成天皇

近世の皇室と言うと、応仁の乱以降の戦国時代は衰微を極め、江戸開府に至って徳川氏の庇護下で勢力を盛り返した印象がありますが、皇室側も手をこまねいていたわけでは無く、様々な方法で皇統をつないでいました。その中でも大きな役割を果たしたのが、本項で紹介する後陽成天皇です。
後陽成天皇(ごようぜい-てんのう)は元亀2年(1571年)12月15日、正親町天皇の皇太子である誠仁親王(陽光院太上天皇)と新上東門院(勧修寺晴子)の第一皇子・和仁親王として生を享けます。
天正14年(1586年)に父の誠仁親王を亡くした和仁親王は、同年の11月7日に祖父の正親町天皇から譲位を受け、即位しました。

当時は豊臣秀吉による天下統一事業の真っただ中であり、天下人としての正当性を得ようとしていた秀吉は朝廷の権威を重んじ、後陽成天皇に急接近します。
彼が就任した関白はもちろん、その引退後の称号で秀吉を象徴する称号となった太閤もまた、天皇から賜るものと決まっていたため、秀吉と後陽成天皇の接近は当然の成り行きだったのです。


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その後も後陽成天皇と秀吉の蜜月関係は続き、2年後の天正16年(1588年)4月14日には秀吉の本邸である聚楽第に天皇の行幸があり、徳川家康など各地の大名を陪席させた豪華な饗宴が開かれています。

文禄の役(1592年)が起きた時には後陽成天皇が直接関係することはありませんでしたが、それに先立って豊臣秀次に宛てられた朱印状では3年後に後陽成天皇を皇帝として明の首都である北京に移すと言う唐入り構想の中に加えられています。
もっとも、後陽成天皇は唐入りには消極的で、「無体な所業」と秀吉の海外出兵を諌める側でした。

ここまでを見ると、後陽成天皇には積極的に動く君主としての要素は少ないかのように見えます。
しかし、政治権力は無くとも祭祀や学問など皇室が担っている役割を、後陽成天皇が最大限に活用している逸話は多く伝わります。
慶長9年(1604年)から同13年(1608年)までの4年間に源氏物語の聞書きを記したり、朝鮮出兵で手に入れた大陸の技術で勅版を出版しています。

中でも有名なのは、細川幽斎(細川藤孝)が籠城している田辺城に勅使を派遣し、歌人でもあった幽斎に師事していた弟の八条宮智仁親王を勅使として送りこみ、開城させて細川氏を救った逸話です。
いずれの場合も、権威的存在にして伝統文化の担い手であった皇室ならではの強みを生かしており、実権が無いなりの処世術とも言えます。

このようにして、後陽成天皇は様々な武将と人脈を築くことと朝廷の権威で皇室を護り抜きますが、波乱が次々と天皇を襲います。
慶長8年(1603年)に徳川家康を征夷大将軍に任じますが、幕府は朝廷の権力を狭める方針をとったのです。


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さらに、公家と女官による不祥事(猪熊事件)が起きたり、後継者を第一皇子の良仁親王か弟の智仁親王にするかで公卿や家康を巻き込んだ騒動に発展するなど問題は多く在りました。
結局、良仁親王を仁和寺の僧にして第三皇子の政仁親王に譲位させることで事態は収着しました。

慶長16年(1611年)に政仁親王を後水尾天皇として即位させ、後陽成天皇は上皇として仙洞御所に退きますが、自分の意志に反して即位させることになったのが糸を引いたのか、御水尾天皇と不仲であったと言われています。
その6年後の元和3年(1617年)8月26日巳の刻、後陽成上皇は宝算47歳で崩御しました。

(寄稿)太田

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