藤原清衡とは~後三年の役を経て台頭した奥州藤原氏の初代~

藤原清衡

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藤原清衡(ふじわらのきよひら)は天喜4年(1056年)、陸奥国亘理郡(今の宮城県)を治めた豪族である藤原経清の息子として生まれました。
この藤原経清は俵藤太秀郷の子孫、つまり藤原北家に縁があると中央でも名が知られた人物です。

母は、奥六郡(岩手県奥州市から盛岡市)の支配者である安倍頼時の娘である有加一乃末陪(ありかいちのまえ)と言う女性で、彼女の一族は俘囚(朝廷に属した蝦夷)でもありました。
こうした豪族の御曹司として生まれた清衡でしたが、7歳にして苦汁をなめることとなります。

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前九年の役で父が源頼義に背き、安倍氏と結託したために捕縛され、惨殺されてしまったのです。
敵の嫡男で、しかも経清が頼義に憎まれていたなどの悪条件が重なった清衡は死刑になる寸前でしたが、母の再婚相手が清原武貞であったので除名され、清原氏の養子になります。康平5年(1062年)の事でした。

この清原氏で幼い清衡は落ち着いた暮らしが出来たかと言うと、それは絶望的であったと言わざるを得ないものでした。
母・有加一乃末陪と武貞の間に生まれた弟の家衡、武貞の子供真衡、そして清原武則(武貞の父)の従兄弟で娘婿と言う嘉彦秀武など、清原氏は後継争いの火種を抱えた家だったのです。

その内紛は、永保3年(1083年)に起こりました。これが後三年の役で、清原真衡と彼に侮辱されたのに激怒した秀武の間に戦が発生したのです。
清衡・家衡兄弟は真衡と仲が悪かったとされ、秀武に誘われて真衡征伐に加わります。
しかし、戦況では不利であったらしく、清衡らは本拠地に下がらざるを得なくなりました。

そこに、頼義の嫡男であった源義家が陸奥守を拝命して陸奥入りし、真衡の味方になったのです。
思わぬ強敵の出現に大敗を喫した清衡は弟と共に義家に降りますが、突如として真衡が亡くなります。
彼の遺領・奥六郡は義家によって分割され、三郡ずつ清衡と家衡に与えられました。

しかし、家衡はその裁定に不満を持ち、3年後に謀反を起こします。
応徳3年(1086年)に異母弟の軍に屋敷を攻撃され、妻子が皆殺しになると言う憂き目を見た清衡は、かつての敵だった源義家を頼りました。

家衡は沼柵(秋田県横手市雄物川町)に籠って清衡を撃退し、武貞の弟・武衡の勧めもあって金沢柵(横手市金沢中野)に移り、頑強に抵抗しました。
それを攻めあぐねた清衡と義家に吉彦秀武が兵糧攻めを提案し、飢餓に苦しんだ家衡軍は崩壊します。敗れた家衡と武衡は逃亡に失敗して殺され、清衡が勝利したのでした。寛治元年(1087年)、清衡が32歳の時の事です。

朝廷は、この後三年の役を私闘であると見なしたため、義家と清衡に恩賞や官位の沙汰はありませんでした。
しかし、清衡は清原氏の領土を手にして大豪族にのし上がり、亡父経清の姓であった藤原を名乗るようになります。これが、奥州藤原氏の始まりです。

その後、藤原清衡は押領使の職を拝命したり、寛治5年(1091年)に時の関白・藤原師実に奥州の馬を献じたりと朝廷との関係を良好にする一方、江刺郡豊田館にあった本拠地をもとにして勢力拡大に勤しみます。
また、嘉保4年(1094年)には平泉に拠点を移し、平泉政権とも呼ばれる奥州藤原氏の基礎を築きました。

奥州の豊富な砂金も清衡の政権を巨大化させる一因であり、北方交易にも着手して莫大な富を奥州にもたらしています。
結果、中国の宋を始めとして様々な国の文物が平泉に流入し、朝鮮半島やオホーツクなど北方だけでなく、アフリカや東南アジアの産物も渡来していました。


俘囚、蝦夷と呼ばれる野蛮な民が住む土地と見做された東北地方を、都にも劣らぬ文化の栄える国に生まれ変わらせた功労者である清衡は、大治3年(1128年)に73歳の天寿を全うし、世を去りました。

(寄稿)太田

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