藤原基衡(ふじわら-の-もとひら)は奥州藤原氏の基礎を築いた藤原清衡の次男として生を享けました。
巨大政権を築いた人物でありながら生年には諸説があり、康和4~5年(1102~1103年)ないしは同6年(1104年)、もしくは長治元年~2年(1104~1105年)とも言われています。
基衡が歴史の表舞台に出てくるのは大治4年(1129年)で、前年に亡くなった父の跡目を巡って異母兄の惟経(家清とも)を相手取って戦っています。
基衡は戦いを有利に進め、惟経は子供や配下を連れて他の弟がいる越後(新潟県)へ亡命しようとしますが、逆風で小舟が押し戻されてしまい、基衡達に殺されます。
この争いには惟経の母が生まれた清原氏と、基衡を生んだ母が所属していた安倍氏との対立が一因であったと言われています。
また、惟経は『小館』と呼ばれて独立した屋敷に住んでおり、彼が後継者であったとする説があります。
それとは逆に基衡が『御曹司』と呼ばれて親元に住んでいたとする記録などから、基衡ないしはその支持者による簒奪であったとする説も有力です。
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いずれにしても、安倍氏や清原氏など俘囚ゆかりの豪族による権力闘争は清衡の勝利と奥州藤原氏(平泉政権)樹立で鎮圧されたかに見えても、基衡が勝利した年である大治5年(1130年)にまでその火種が残っていたことを意味しています。
なお、その平泉が産出する黄金と馬、そして貿易で得た富が基衡を助けたのは想像に難くなく、平泉を支配することで軍馬や軍資金だけでなく装備品や食べ物を充分に得た基衡は跡目争いに華麗な勝利を飾ったのです。
基衡は基盤固めに成功すると独立政権を強化しており、12年後の康治元年(1142年)に陸奥守を拝命した藤原師綱が赴任したところ、国司の威光すら及ばない程に基衡の権勢は並ぶものが無かったと言われています。
それを見た師綱が朝廷に訴えて宣旨、つまり天皇の許しを得て公田の検注(朝廷所有の田畑を調査すること)をしようとした時、基衡は配下である信夫佐藤氏に属する季治と言う役人に命じ、それを妨害したことに端を発した合戦を起こしてしまったのです。
それには師綱も怒り出し、基衡の行為を糾弾した上で季治を処刑しています。
この一件で基衡は朝廷、中央との修好を考えるようになり、師綱の後任である藤原基成の娘を世継ぎ・秀衡の妻として貰い受け、院近臣である基成との縁戚によって院にもつながりを持ちます。
一方で仁平3年(1153年)には、奥州各地にある摂関家が所有する荘園の年貢増額について5年以上も前から交渉を続けて来たのに終止符を打ち、藤原頼長が要求した量を下回る税額に抑えます。
それには悪左府と恐れられた頼長も腹に据えかねたらしく、基衡を匈奴(中国から見た北方騎馬民族)と痛罵し、野蛮な東北地方の豪族に負かされたことへの悔しさをにじませています。
こうした、硬軟入り交じった朝廷との巧みな駆け引きを駆使する基衡は、京都の文化を導入して毛越寺に大伽藍を、彼の妻は観自在王院をそれぞれ建立し、奥州ばかりか都にもその名をとどろかせました。
それは久安6年(1150年)~久寿3年(1156年)の6年に及ぶ大規模なもので、本尊作製も京の仏師・雲慶が請け負うと言う豪勢なものでした。
彼のために基衡は黄金百両、奥州馬、絹、毛皮などを用意したのですが、雲慶が冗談半分に練絹を欲しがる発言をしたところ、藤原氏側は練絹を船三隻分も進呈するという、平泉政権の財力を示すエピソードで知られています。
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伽藍建立が終わった翌年の保元2年(1157年)3月19日、基衡は藤原秀衡を後継者として世を去りました。
死亡年齢は中尊寺金色堂に納められた彼のミイラから推測して、50代~60代と見られています。
(寄稿)太田
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