勧修寺晴子【後陽成天皇の国母】新上東門院とは

勧修寺晴子(かじゅうじ-はるこ)は、公卿・勧修寺晴右の娘として1553年に生まれた。
母は従三位・粟屋元子。
母の実家である若狭守護武田家の重臣・粟屋家は甲斐源氏安田氏の一族で安田義定の子孫となる。
当時は同族としては若狭守護・武田氏もあり、最有力家臣でもあり武家でも名門の家柄である。

父・勧修寺晴右は権大納言(正二位)で、兄の勧修寺晴豊も従一位権大納言と武家伝奏を務めた為、織田信長豊臣秀吉などと交流もあった。
姉妹には万里小路充の房、正親町三条公仲の室らがいる。

1567年から誠仁親王の女房として仕え「阿茶局」と称されたが、実質的な妃に近い存在となり、1571年12月15日、後陽成天皇を産んだ。
その他、空性法親王、良恕法親王、八条宮智仁親王、永邵女王など6男3女を産んでいる。


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なお、安部龍太郎の「信長燃ゆ」では、勧修寺晴子がヒロインとして登場する。
誠仁親王に仕える身でありながら、事もあろうに織田信長に魅せられ密通すると言う内容で、朝廷を軽んじる織田信長と、次第に信長と対立して行く朝廷との間で、強い女性になって行く。

甲斐の武田勝頼が討たれ、織田信長が本能寺の変にて明智光秀に討たれた1586年、正親町天皇の東宮・誠仁親王が薨去。
そのため、勧修寺晴子(藤原晴子)が産んだ後陽成天皇が11月に即位した。

すると勧修寺晴子(藤原晴子)は「国母」として処遇されて、他の女房とは一線を画され、1586年11月20日に准三宮になっている。

その後、天下統一した豊臣秀吉は朝廷の権威を高め、自ら関白・太閤と言う位を利用して、全国の支配を行った。

夫の誠仁親王が亡くなると勧修寺晴子(藤原晴子)は、1600年12月29日、院号宣下によって女院となり新上東門院(しんじょうとうもんいん)と号している。

元々、上東門院とは、平安時代の女性である、一条天皇の中宮彰子のことで藤原道長の娘である。
この中宮彰子には紫式部が仕えており、その時の経験をもとに源氏物語を書いた。
これらの事を意識して、新上東門院と号したと考えられる。

淀殿細川ガラシャらも「お通流」を習っていたが、お通流を広めたのは小野お通となる。
その小野お通を新上東門院の女房として召し抱えていたとする説もあるが、可能性は低いか・・。

また、1614年頃、関西にて地震が多発していた時期に、大阪城の淀殿が「占い」をすると、その結果が届いた北政所(高台院、豊臣秀吉の正室)は、新上東門院を通じて朝廷にも知らせている。

晩年は徳川家康の徳川幕府による、朝廷への締めつけが強まる状況の中で、朝廷内において発言力を有した。

1609年には、朝廷の高官が絡んだスキャンダル「猪熊事件」が起きている。
後陽成天皇の寵愛が深かった広橋局や女官らとの不義密通が明るみとなり、朝廷内での捜査権を持っていた京都所司代・板倉勝重と三男の板倉重昌が調査をし、最終的に徳川家康が公卿8人、女官5人、地下1人に対し処分を下した。
この時、激怒した後陽成天皇は全員に死罪を命じたが、新上東門院(勧修寺晴子)は幕府側に寛大な処分を求めており、結果的に左近衛少将・猪熊教利と、牙医(歯科医)・兼安備後頼継の2名のみが死罪(斬首)となり、他の者は伊豆の新島、硫黄島などに流罪となった。
このような経緯もあり、1613年、公家衆法度が発布され、さらに1615年には公家のみならず、日本史上初めて天皇の権限にも制限を加えた「禁中並公家諸法度」が制定される結果となっている。

なお、新上東門院は1620年2月18日に68歳で崩御した。
墓所は京都の泉湧寺月輪陵域。

2016年の新春時代劇「信長燃ゆ」では、女優・栗山千明さんが演じ、織田信長と恋に落ちる女性を演じる。

織田信長とも親しかった関白・近衛前久に関してはこちら
勧修寺晴豊~朝廷の武家伝奏と貴重な日記「晴豊公記」
誠仁親王とは~織田信長からも信頼された天皇の子
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