淀殿(淀の方、茶々)~豊臣家・我が子の為に生涯を全うした強き女性


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淀殿(よどどの)は1569年に近江・小谷城にて誕生した。
父は浅井長政で、母は織田信長の妹・お市の方
お市の方は1567年に浅井長政に嫁いでいた。

1570年、織田信長が越前・朝倉義景を攻めると浅井家と織田家の関係も悪化。しかし、浅井長政と市の夫婦関係は周りが羨むほど仲睦まじかったと言い、1570年には次女・初、1573年には三女・お江も誕生し、浅井三姉妹と呼ばれるようになった。その長女が淀殿(茶々)である。

なお、淀君と言う呼び名もあるが「君」というのは遊女に付ける呼び名で、江戸時代につけられた蔑称であり、戦国時代の史料には一切見られず、現在はあまり使われない。
しかし、淀殿と言う呼び名も、戦国時代の史料には見られず、淀の方と通称されていたようだが、このページでは「茶々」「淀殿」として紹介する。

1573年7月、織田信長が30000の軍勢で、父・浅井長政の小谷城を攻めると、8月28日に浅井長政が自害(享年29)して小谷城が落城。
お市の方と茶々・初・江の3姉妹は藤掛永勝に救出されたが、兄・万福丸(10歳?)は捕らえられ、織田信長の命により羽柴秀吉によって処刑された。
※万福丸はお市の方が嫁ぐ前に生まれていたと考えられ、母は不明。

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お市の方と茶々(7歳)らは、伯父の織田信包が保護し、安濃津城又は清洲城で過ごしたとされる。
織田信長は市や三姉妹のことを気にかけ、厚い待遇にて贅沢をさせていたとされ、織田信包も「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と手厚く養育したと言う。

1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、清洲会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家が対立。羽柴秀吉を嫌うお市の方が柴田勝家と再婚すると、茶々ら3姉妹も母と一緒に越前・北の庄城(現在の福井県福井市)に入った。
それも束の間、1583年には賤ヶ岳の戦いとなり、柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ、お市の方は柴田勝家と共々、北の庄城で自害した。
 
この時、茶々(17歳)ら3人の娘は逃がされ、羽柴秀吉の保護を受けた。
その後、一般的に叔父・織田長益(織田有楽斎)の庇護の下、安土城に住み、後に聚楽第で伯母の京極マリア(浅井長政の姉)の縁を頼って、京極マリアの娘である京極竜子の後見を受けた成長して行った。
ただし、お江は、羽柴秀吉の意向で佐治一成のもとへ嫁いだと言う。

関白になっていた豊臣秀吉と、茶々は1588年頃に側室にあがったとされ、大阪城に入った。
豊臣秀吉は茶々の母・お市の方に憧れていたとされ、三姉妹の中で母の面影を一番よく受け継いでいた長女・茶々を、側室に迎えたと言われている。美貌の持ち主であったのだ。

すぐに茶々は懐妊し、喜んだ豊臣秀吉は山城の淀城を与え、茶々の住まいとした為、茶々は「淀の方・淀殿」と呼ばれるようになった。
そして、1589年5月27日に、淀城にて茶々は捨(鶴松)を生んだ。この時、高野山・持明院へ父母の肖像画を納めている。
この時豊臣秀吉は53歳で、生後4ヶ月で鶴松を大阪城に入れて後継者とした。
1590年の小田原攻めでは、淀殿は、同じく豊臣秀吉の側室になっていた京極竜子らと共に箱根湯本の陣まで呼んでいる。
なお、鶴松は生来病弱で1591年8月5日にわずか3歳にして病死してしまった。
その為、豊臣秀吉は、甥の豊臣秀次を後継者として1591年に関白職を譲る決意するに至ったのだ。

しかし、淀殿は1593年8月3日に大阪城にて拾(豊臣秀頼)を生んだ。この時、父母ら浅井血縁の菩提を弔うために、養源院を建立。
豊臣秀吉はこの時57歳で、次第に、関白を譲っていた豊臣秀次を疎むようになり、1595年7月8日に豊臣秀次を高野山に蟄居させ、7月15日に切腹を命じた。豊臣秀次は享年28。

1595年9月17日には、伏見にて徳川家康の嗣子・徳川秀忠と、お江が再嫁。

豊臣秀頼はまだ5歳であった事もあり、豊臣秀吉は他界する直前に五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝)と、五奉行(前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)を呼び、豊臣秀頼への忠誠を誓約させた。
1598年8月18日に、豊臣秀吉が62歳で亡くなると、正室・ねね(北政所)は剃髪して高台院となったが、淀殿は剃髪せず豊臣秀頼の後見人として大蔵卿局饗庭局らを重用して豊臣家の実権を握り、高野山などの修復にも当たった。
豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)と共に、2人とも正室とみなされていたようで「両御台様(みだいさま)」と記された文書も存在する。

しかし、次第に豊臣家こそ一番大事と考える石田三成らと、徳川家康らが対立。前田利家が1599年3月に病没すると、一気に徳川家康が権力を掌握し始めた。


1600年、徳川家康から謹慎されていた石田三成が大谷吉継らとともに、会津に向けて出征中の徳川家康を討つため挙兵した。
石田三成に同調して大坂城に入った毛利輝元が西軍(石田三成側)の総大将となった。
しかし、石田三成が切望した、豊臣秀頼の墨付きの発給や、豊臣秀頼御自らの出陣などは拒否は、淀殿は石田三成の行動を認めつつも豊臣家としては観望する中立姿勢を取った。

なお徳川家康は、淀殿らから届いた石田三成挙兵の書状を材料として「秀頼様の御為」という大義名分を唱え、1600年9月15日に関ヶ原の戦いとなった。

石田三成は捕縛され処刑。徳川家康は、淀殿の信頼の厚い大野治長を大坂城へ使者として送り「淀殿と豊臣秀頼が西軍に関与していないと信じている」と述べさせた。
これに対して淀殿は感謝の旨を返答している。

毛利輝元が大坂城から退去すると、徳川家康が大坂城に入ったが、淀殿は徳川家康を饗応。その際、淀殿は自らの酒盃を徳川家康に下した後に、その盃を豊臣秀頼に与えるよう強く求め、徳川家康が豊臣秀頼の父親代わりになったと公に宣言した。

大阪城

しかし、徳川家康は関ヶ原の戦いの恩賞を自らの考えで分配し、豊臣家の領地は大幅に減らされ大坂65万石のみとなってしまった。
大阪城から徳川家康などが退去すると、淀殿は豊臣秀頼の後見人として、豊臣家の主導権を握り、徳川家に対抗。

徳川家康は、江戸幕府を開いて、豊臣秀頼に対しては臣従を求めたが、淀殿は拒否。このようなことを余儀なくされるならば、豊臣秀頼を殺して自害すると主張した。

1603年、徳川秀忠とお江の娘・千姫が7歳で豊臣秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入った。
1605年、徳川秀忠が2代将軍となり徳川家が世襲することが決定的になったことで、淀殿は激怒。

1614年、江戸幕府との交渉役だった片桐且元と、淀殿・侍女の大蔵卿局の意図解釈の違いから大坂の陣が勃発。
淀殿は自ら大阪城内で閲兵・督戦を行い籠城策を主張。真田幸村後藤又兵衛長宗我部盛親毛利勝永明石全登浪人を多数集めたが、期待した豊臣恩顧の大名の加勢は得られず、大坂城・本丸への砲撃を受け、徳川家康と講和した。
しかし、1615年に再び徳川家康は大阪城を攻め(大坂夏の陣)を行い、真田幸村らは討死し劣勢の挽回はもう無理となった。
城外から戻った大野治長が、豊臣秀頼と淀殿の助命を願って、千姫を脱出させ、豊臣秀頼と淀殿らは、天守閣の北に位置する山里曲輪の土蔵に身を隠した。
しかし、その土蔵にも銃弾が撃ち込まれた事で、助命が拒否されたと察し、1615年6月4日、淀殿、豊臣秀頼、大野治長らは共に自害した。淀殿享年50。

豊臣秀頼・淀殿自害の地の碑

墓所は京都市東山区の養源院、大阪市北区の太融寺。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英嵓と伝わるが、淀殿の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また遺体も確認されていない。

豊臣秀頼の正室・千姫は逃れたが、豊臣秀頼と側室の子・国松は捕えられ京都所司代板倉勝重のもとに連行されたあと、1615年5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首された。享年8。

豊臣秀頼の7歳の娘・奈阿姫(天秀尼)は、徳川家康にお初や千姫が助命嘆願し、鎌倉東慶寺に入る事で許されている。

淀殿ゆかりの大阪城の史跡

大阪城には淀殿に関する由縁ある史跡がいくつかあります。
まずは、大阪城公園の南東にある「大阪国際平和センター」の西側です。
ちょっとした森のようになっている場所に「城中焼亡埋葬墳」と言う石碑があるのですが、その脇に「淀君の霊の石碑」がひっそりとあります。

淀君の霊の石碑

ただ、小生が訪れた際には、根元から折れてしまったようでして、上記のような哀れな状態になっておりました。
分かりにくい場所ですので、地図でポイント地点を示しておきます。
地図は縮尺を変えてご覧願います。地図の次には大阪城の「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑」などをご紹介致します。

次にご紹介するのは大阪城の天守閣から北側にある山里曲輪の淀殿関連です。
現在の大阪城マップでご紹介すると「刻印石広場」とある場所になります。

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地

大阪城が炎上する中、豊臣秀頼と淀殿はここ山里曲輪にて自刃しました。

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地

本丸の大阪城・天守閣の裏から出てすぐのところになります。
また、真田幸村の嫡男・真田大助もここ山里丸で殉死しました。
それら殉死した者の「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」が、山里曲輪の石垣の上にあります。
 
淀君並殉死者三十二名忠霊塔

碑文にある殉職者は、大野治長、大野治徳、速水甲斐守時之、速水出来丸、毛利勝永、毛利長門、高橋半三郎、高橋十三郎、津川親行、竹田永翁、堀対馬守、武田左吉、森島長意、伊藤武蔵守、土肥勝三郎、真田大助、萩野道喜入道(氏家行広)、寺尾勝右衛門、和期の局、大蔵卿の局、宮内卿の局、右京大夫局、玉の局、饗庭局です。

この淀君並殉死者三十二名忠霊塔も大変重要ですので、大阪城に登城した際にはお見逃しなく。
淀君並殉死者三十二名忠霊塔の場所は見落とししやすいので、下記の地図ポイント地点としてご案内申し上げます。

小谷城の訪問記と小谷城の戦い~浅井家の滅亡・浅井御殿も
浅井長政(詳細版)~初陣で3倍の敵兵力に勝利した勇将
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鎌倉・東慶寺
片桐且元~豊臣家に尽くすも徳川の「罠」にはめられた結末は?
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彦根・宋安寺~淀殿の念持仏がある名刹
豊臣国松は生きていたのか?~立石陣屋・木下延由の謎に迫ってみた
大阪城の史跡巡り観光堪能2時間コースのご紹介

 

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  1. 思わず引き込まれて読みました。本当に淀殿は強い女性だったのですね。家康を相手に、よくぞあそこまで戦った!と思うと、同じ女性として拍手を送りたい気分になりました。とかく悪く描かれがちな女性ですけれど、あらためて見直したいと思いました。これからも楽しみに読ませていただきます。
    ところで、近々、茶臼山方面に出かけてまいります。幸村最期の地、安居神社にも立ち寄る予定ですよ。

    • 高田哲也
    • 2015年 2月 26日

    キミさん、いつもコメントありがとうございます。
    ご指摘の通り、歴史は勝者が敗者の事をだいたい悪く書きますので、淀殿も悪く書かれてしまっている事が多いのですが、個人的には、いつもできる限り中立の視点から記載させて頂いております。
    淀殿は、調べれば調べるほど、新しい発見があり、おもしろい女性でして、豊臣家を守ろうと頑張った「強い女性」だったと私は感じております。
    しかし、良いですね~。
    茶臼山や安居神社にお出掛けになられるとの事、うらやましい限りです。
    それでは、またのコメント、楽しみにお待ち致しております。

    • バカ正直
    • 2015年 10月 02日

    私は40~50年ほど前に、父親から木村長門守重成の子孫であると打ち明けられました。まだ若いごろだったので、その事を深く考えずに冗談かもしれないと思っていました。

    しかし、最近なぜかその事が気になりネットで調べたりしていました。そこで色々なことが分かりました。不思議に思いますのは、50年前若いごろに聞いた「木村長門守」という言葉を覚えていたことです(漢字は知らなかった)。

    そして当家の祖母が、元苅安賀城の城主家老宅からわが家に嫁いでいる事、昔は広大な土を管理していたこと、60年前には大事そうに長持ちに保存してあった兜、鎧、大小刀、手鏡などを納屋で見ました。

    そして20年ほど前に、当市北方町で私の顔はその町の大きな毛織物会社の社長と瓜二つだと、多くの人に言われました。その時もたまたまの偶然だと受け流していました。

    最近その会社の社長の宗派と、家紋を調べたら当家と同じ臨済宗妙心寺派で、家紋も同じ丸にくぎ抜きでした。ですから父親が北方町の同じ性は、当町の性と同族だと言い残したのは本当でした。

    そんな事で、もう少しこの事を調べて木村長門守重成の事を知りたいと思い、この会に入会しました。木村長門守重成は勇気が有り、律義で、立派な武将であり大阪で人気が有るそうです。しかし当地では全く無名です。

    この話が本当なら木村長門守重成、その親族の悔しさ、無念の魂が400年の眠りからさめて当時の事を明らかにしてくれと、叫んでいるのではないかと思っています。

    なぜかと言えば私は1945年(昭和20年)8月15日昭和天皇がラジオ放送で敗戦を決した日に生まれました。(ラジオ放送は正午で私は午後からです)そんなことで私自身は平和の申し子だと思い込んでいます。二度と、侵略戦争はさせてはならじと昔から考えています。そして平和新党を作り、日本の政治を私の手中に頂きたいと頑張ってきました。しかし、全く思うようにならずに本日まで来てしまいました。

    政治団体まで作り、その夢を目指しましたが最近では年金生活の隠居になってしまいました。しかし、今でも夢は捨てていません。今、共産党委員長の志位さんに手紙を書いています。国民連合政権の提案の件です。志位さんに書きました。他の野党を余り頼らず、国民一人一人に共産党とともに新しいページを開き、日本が世界で初めての完全非武装中立国を目指せという内容です。自分でも不思議です、こんなバカ正直は見たことが有りません。ほとんどの人は、まともに私の言う事は聞いていないようです。

    今後とも皆様から学んで、残り少ない人生をきっちりと暮らす所存です。よろしくお願いいたします。

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 02日

    バカ正直さま、この度は、戦国武将研究会へのご入会とさっそくのコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    私も、木村重成公に関しては、ようやく9月に記事を上げたばかりでございますが、記事を編集していて、家臣になりたいと思うような素晴らしい武将であることがわかった次第です。
    もし公開してもよろしい情報などございましたら、寄稿も承りますのでご検討賜りますと幸いです。
    この度は、ありがとうございました。

    • バカ正直
    • 2015年 10月 03日

    寄稿できたらうれしいです。もう少し、具体的な状況証拠が出ることを願っています。なにせ400年も前の出来事です、きめ細かく着実に調査したいと思います。大阪図書館に、木村長門守重成に関する著書が1冊あるそうです。チヤンスが有れば大阪まで行き閲覧をしたいです。著書に顔写真が有れば感激します。私に似ているところが有るかもしれません。

    高田哲也さんは、木村長門守重成の記事いつアップの予定ですか?期待しています。原稿ができているとか。この事も、とても偶然と思えません。木村長門守重成の遺伝子が、400年間このチャンスを待っていたものと思えてなりません。亡くなった日から丁度今年で400年目です。

    私は商いを辞めてから、自給自足農業をしています。その中で自然養鶏もしていますが例えば、鶏は昔鷲やタカに襲われた遺伝子が有るので、新幹線などの風の音は特に怯えます。又、人の赤ちゃんは猿人の時代に木の上で暮らしていましたので、生まれたばかりの赤ちゃんに棒を触れさせると、強く握ります。

    この様に何万年何百万年経ってもその習慣、考え方は子孫に確実に伝わります。私の突ピな夢、目標は木村長門守重成の遺伝子が引き継いでいると思わずには理解できません。又、テレビ新聞などの報道、一般社会に対してとても強く批判の気持ちが湧きあがります。

    この気持ちは、どこから来るのか自分では分かりませんでした。もしかしたら木村長門守重成(22歳~23歳で死去)は、若さで亡くなったことの無念さ、正義感が強かったことが今の世の中の堕落、欺瞞、詐欺的行為に重成自身が怒りを爆発させているかもしれません。

    • 高田哲也
    • 2015年 10月 03日

    バカ正直さま、ご寄稿もご検討賜りまして、誠にありがとうございます。
    養鶏もなさっておられるとは、うらやましい限りでございます。
    ご寄稿の記事ができますこと楽しみにお待ちしたいと存じます。
    さて、木村重成の記事は、既に9月にUP致しております。
    文才が無いものでいつもどおりお恥ずかしい内容ではございますが、当方のサイトの「検索窓」からご検索頂くか、豊臣家のカテゴリよりご覧頂けるかと存じます。
    以上、コメントありがとうございました。

    • 立川則文
    • 2015年 12月 05日

    高田哲也様。はじめまして、わたしは68歳です。歴史は好きなのに知識は全くと言っていいほど皆無です、でも正義感が強くて、武士の様な気質です。友達はほぼゼロ、アルコールも駄目、飲む人は大嫌いです、卑しいからです。私は学歴も無く、中卒後大工弟子入り、その後職人生活を経て独立、工務店もやり、談合経験もあります、しかし、大手にはついて行けず、又、儲からないし、敢えなく辞めました。その後は知的障害のある次女(33歳)と2人で暮らしています、(子供は3人)戦国武将が大好きです、色々と教えて下さい、宜しくお願いします。

    • 高田哲也
    • 2015年 12月 06日

    立川さま、この度は武将研究会のご加入と、ご丁寧なコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    歴史や戦国武将がお好きとの事で、非常に親近感を覚えますが、私の方こそ足りない部分が多々ございますので、こちらこそ、色々ご教授賜りますと幸いです。
    もし、ご興味があれば、お住まいである地の戦国時代などについて、ちょっとお調べになられると、更におもしろくなってくるのではと存じます。
    図書館なら詳しい本がありますし、もし、お近くに史跡があれば、散策がてらご家族と一緒に行って見たり・・。
    それでは、また。(^-^)

  1. 2015年 3月 23日
  2. 2015年 9月 10日
  3. 2015年 9月 12日
  4. 2015年 12月 04日
  5. 2016年 1月 14日
  6. 2016年 1月 15日
  7. 2016年 1月 15日
  8. 2016年 1月 16日
  9. 2016年 1月 19日
  10. 2016年 1月 28日
  11. 2018年 7月 25日
  12. 2018年 9月 15日
  13. 2018年 9月 16日

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