大野治長~大阪城にて淀殿を最後まで支えた豊臣の忠義者


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 大野治長は、1569年に誕生した。通称は大野修理。
 父は丹後の地侍である大野定長(大野佐渡守)。
 出身地に関しては京都が有力だが、丹後や近江、尾張出身とする説もある。

 母は大蔵卿局(大蔵局)で、淀殿豊臣秀頼の乳母を務めていた。恐らくは、お市の方に尾張から随行していたものと推定される。
 同年代と考えられる茶々(淀殿)とは、浅井長政の近江小谷城の時からの関係だと考えられており、淀殿が豊臣秀吉の側室となると母と共に大阪城に入った。
 その関係で、大野治長も豊臣秀吉に仕える事となり、約3000石にて馬廻衆となった。
 淀殿の側近として公卿との交渉を任されたりしている。

 1589年、和泉国佐野と丹後国大野に加増されて、合計10000石の大名として警固番二番隊長となり、1591年10月には豊臣秀吉と東海地方に鷹狩に出掛けているが、1万石の大名にしては史料が乏しく、出自や行動が良くわかっていない。
 なお、千利休の高弟・古田織部に茶道を習い奥義を極め、本願寺顕如の茶会にも招かれるなど茶人としての行動も見られる。
 朝鮮出兵の際には肥前名護屋まで出陣した。

 大野治長の正室は名前も出自も不明だが、京都・妙心寺雑華院に肖像画が残っており、その存在は確認されている。

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 その後、1593年には淀殿が豊臣秀頼を産んだが、この当時から淀殿と大野治長(24歳)には密通の噂があったが、確かな証拠や確かめるすべはない・・。
 1594年、豊臣秀吉が隠居後の住まいと定めた伏見城の普請に携わている。

 豊臣秀吉の死後、高台院(おね)と従者・孝蔵主が大坂城から去ると、淀殿の信頼厚い大野治長の母・大蔵卿局 (大蔵局)は、子の大野治長・大野治房大野治胤大野治純らと共に豊臣家で権勢をふるった。
 1598年には、次男・大野治安が誕生している。
 大野治長は豊臣秀頼の側近として仕えたが、1599年10月、徳川家康暗殺疑惑事件の嫌疑を掛けられて、浅野長政らと首謀者の1人として罪を問われ、下総結城に流罪となる。

 1600年、関ヶ原の戦いでは、やむなく徳川家康に味方して、東軍に参戦し武功を上げた事から罪を許され15000石で復権。
 戦後は徳川家康の命で「豊臣家への敵意なし」という書簡を豊臣家へ届けるなど使者を務めた。
 そして、江戸に戻らずそのまま大坂城に残り、石田三成ら淀殿側の重臣もいなくなっていたことから、発言力を増した。

 1614年、豊臣家の家老・片桐且元が追放されると、大野治長の影響力は更に増して豊臣家を主導した。なお、末弟・大野治純は徳川側であった。

 その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えると、1614年11月、大阪冬の陣に至り、豊臣勢を指揮した。
 しかし、大野治長は戦うと言うよりは和平を主張した為、真田幸村など主戦派から嫌われたようだ。
 1614年12月16日、淀殿の命を受けて織田有楽斎と共に豊臣秀頼や浪人衆を説得し、徳川家康と和議を結ぶと、次男・大野治安(大野弥十郎)を人質に出している。

 1615年1月、徳川勢が大阪城の外堀だけでなく内堀まで埋め立ててしまい、徳川家康が大阪側へ無理難題を言い始めると、非難は大野治長に集中した。
 そんな折り、4月5日、大阪城の桜門付近で刺客に襲われてケガをしたが、この刺客は仲たがいした弟・大野治房だと言われている。
 以後は発言力が低下し、主戦派の大野治房や木村重成らに主導権が移り、大阪夏の陣となった。

 1615年5月7日、大坂夏の陣の最終決戦にも敗れると、将軍・徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室である千姫お初(常高院)を城から脱出させて「今回の騒動は大野治長1人の責任」と、自分の切腹を条件に、豊臣秀頼と淀殿の助命嘆願を行った。
 しかし、聞き入れられず、豊臣秀頼・淀殿・大蔵卿局 (大蔵局)らとともに5月8日、大坂城の山里曲輪で自刃した。享年47。(45とも?)
 長男・大野治徳も、大坂城落城時に父・大野治長と共に自害。
 人質になっていた次男・大野治安(9歳)は、夏の陣後に処刑された。
 娘・葛葉?は逃れたとされるが、その後、享年17歳と伝わる。

 修理(大野治長)は若年と思っていたが、城の主将としての武勇は言うに及ばず、豊臣秀頼に対する忠誠も厚かった と徳川家の記録に残されている。

母である大蔵局(大蔵卿局)と大野治房・大野治胤・大野治純はこちら
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