東慶寺(北鎌倉)を戦国時代の歴史の角度から見る~成田家の甲斐姫の墓も

甲斐姫の墓

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円覚寺に寄ったついでに、すぐ近くにある「東慶寺」を参拝して参りました。
目的は、成田家の姫であり、豊臣秀吉の側室になっていた甲斐姫(忍城城主・成田氏長の長女)の墓のお参りです。

鎌倉の東慶寺を戦国時代の歴史の視点から見てみたいと存じます。

東慶寺(とうけいじ)は、臨済宗円覚寺派の寺院で、開基は1285年で北条貞時。開山は鎌倉幕府・8代執権の北条時宗の正室・覚山尼(かくさんに)と伝わります。
現在でこそ、円覚寺の末寺ですが、従来は本山を持たない独立した「尼寺」でした。

東慶寺

尼寺ですので、女性のみが入れる寺で、江戸時代には、江戸幕府の寺社奉行公認の「縁切寺(駆込寺)」として知られ、離婚が許されない時代でしたが、東慶寺に逃げ込めば、女性が離婚する事ができると言う寺でした。

鎌倉時代には執権・北条家、室町時代には関東公方、戦国時代には後北条氏(小田原北条家)の庇護を受けていました。
小田原攻めにて北条家が滅亡すると、豊臣秀吉より寺領安堵を許されました。

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大阪夏の陣にて、大阪城が落城し、豊臣家が滅んだ際、豊臣秀頼の娘・奈阿姫(天秀尼)7歳が、千姫(徳川秀忠お江の娘)の養女として東慶寺に入る事が許されました。
豊臣秀頼と側室の娘・天秀尼は、岸和田城主・小出吉英の家臣である三宅善兵衛に預けられ、その妻が乳母を務めていました。
そして1615年、大坂夏の陣の際には、豊臣国松と共に大坂城に在住していましたが、落城後に京都郊外にて潜伏していたところを5月12日に徳川勢の京極忠高に捕らえられました。
国松は死罪となりましたが、豊臣秀頼の娘・天秀尼は、千姫が自分の養女にして助命嘆願をした為、死を免れて東慶寺に入ったのでした。
そして、成長した天秀尼は30歳の頃(1634年頃)、東慶寺の20世住持となったのです。
1643年、千姫は東慶寺の伽藍を再建しましたが、1645年2月7日、天秀尼は37歳で死去しました。

下記の写真は豊臣秀頼の娘・奈阿姫(天秀尼)の墓で、寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔となっています。

天秀尼の墓

甲斐姫の墓?

天秀尼の墓の横には、従者の墓と見られる宝篋印塔があります。下記の写真です。

甲斐姫の墓

「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔で「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘があります。
天秀尼が死去した約半年後に亡くなったのです。

「天秀和尚御局」と刻銘があるので、天秀尼の世話をしていた女性と考えられています。
しかし、墓は格式のある宝篋印塔で「御局」とあります。また戒名が「院」ではなく「院殿」となっているため、単なる女中ではなく、相当に身分の高い一般在家の女性です。
しかも、他にも墓地のエリアはたくさんあるのに、歴代の住持墓のエリアで、しかも、天秀尼の墓のすぐ左側に建っており、極めて異例なのです。

豊臣秀吉の側室となっていた甲斐姫は淀殿(茶々)の信頼を得て、大阪にて天秀尼の教育係を務めていたといる説があります。

「台徳院殿御実紀」の第37巻の元和元年5月12日条で天秀尼について「これは秀頼の妾成田氏の腹に設けしを」とあるが「台徳院殿御実紀」は19世紀前半に編纂されたものであり、妾・成田氏と言うのは誤記と考えられています。
この妾・成田氏と言う女性が、豊臣秀吉の側室となった成田甲斐姫だとも考えられるが、豊臣秀吉の死後に子を設けたり、豊臣秀頼の子を産んだとは考えにくく、この成田氏と言う女性は、天秀尼の母親役、すなわち養育をしていたのではとも考えられるようになったのです。
実際のところは、大阪城落城後、甲斐姫の消息は不明なのですが、下野国烏山の成田家に戻ったと言う記録も無く、成田家の菩提寺・龍淵寺にも甲斐姫の墓はありません。すなわち、甲斐姫の墓の存在は不明です。

そして、東慶寺の「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔の人物は「男性でも困難だった大阪城の戦場からの脱出」「助命のための千姫との交渉」などを行った由緒ある女性と考えられ、総合的に判断してその人物は甲斐姫なのでは?と言う推測から、この墓が「甲斐姫の墓」と推定されているのです。
ただし、東慶寺にはこの墓の人物についての文献・伝承は一切ありません。

明治維新以降は縁切寺法も廃止され、明治36年(1903年)には、ついに円覚寺より男僧が住職として入り、尼寺・東慶寺は幕を閉じました。

さて、甲斐姫の墓ですが、東慶寺の境内の奥の方の右手になる「墓地」の一角にあります。
ただ、墓地は結構広くて、案内も説明も皆無なので、15分位探し回ってしまいました。こんなにたくさんの方の墓を1つ1つ見て回ったのは、恐らく人生で初めてです。

甲斐姫の墓とされる宝篋印塔の場所ですが、奥の墓地への入口付近から、右への階段を登った岩タバコの岩壁の直ぐ下が、歴代の住持墓のエリアでした。
天秀尼の墓は「天秀尼」との文字も読み取れますし、一番大きな墓ですので、すぐにわかりました。その左が甲斐姫の墓とされています。
皇女用堂尼の墓は柵で囲われており、宮内庁が管理しているそうです。

なお、横浜の三渓園に、千姫が寄進したとされる東慶寺・仏殿(国の重要文化財)の建物が移築されています。

旧東慶寺仏殿

東慶寺は元・尼寺ですが、1人で来られている男性参拝客もたくさんおられましたし、外国人観光客の方も訪れていました。
円覚寺から徒歩3分くらいですので、是非皆様も訪れてみて下さい。

東慶寺

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