織田信雄~織田信長の次男のその生涯

織田信雄とは

織田信雄(おだのぶかつ、のぶお)。
誕生年は戦国時代の1558年で、父は織田信長、母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。
生駒屋敷にて生まれたとされる。
茶筅(ちゃせん)が結えそうな髪型をしていたことから、織田信長に茶筅丸と名づけられた。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の浜野謙太さんが織田信雄の役を演じられる。


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織田信長の次男であるが、弟・織田信孝の方が数日早く生まれたとする出生順位説もあり、生母の身分により出生順位を置き換えられた身分説などもある。
9歳のときに母・生駒吉乃が死去。

1569年、織田信長が大河内城の戦いで、北畠具教・北畠具房の親子に勝利すると、織田信雄(茶筅丸)を北畠具房の養子とさせ、伊勢・大河内城に織田信雄が入った。
そして、織田信雄(13歳)は北畠具房の妹・雪姫(北畠具教の娘、4女・千代御前)を娶っている。
1572年に元服すると北畠具豊(北畠三介具豊)と称し、1575年に北畠家の家督を相続。(18歳)
大河内城から田丸城を本拠地とし、津田一安の補佐もあり、北畠家中の実権を掌握し始めた。


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その後、北畠信意に改名し、1576年11月25日、滝川雄利・長野左京亮・軽野左京進に命じて三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と北畠具教の息子2人、そして北畠家臣14人を殺害させた。
同じ日、北畠信意(織田信雄)自身も田丸城に長野具藤ら北畠一族を饗応と偽って呼び出して謀殺(三瀬の変)し、完全に北畠家を掌握した。
この時、正室・千代御前は自害したと言う。
さらに同年1576年12月15日には滝川雄利と柘植保重の讒言により、津田一安を粛清。

1578年4月、兄・織田信忠の軍勢に加わり、石山本願寺本願寺顕如を攻撃。
同年5月、播磨国の羽柴秀吉勢に加勢し、織田信忠らと共に神吉城攻めに参加した。

1579年9月16日、北畠信意(織田信雄)は、父・織田信長に無断で8000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻。しかし、伊賀郷士衆に各地で抗戦され敗走した為、織田信長から叱責される(第一次天正伊賀の乱)。
織田信長の書状内容から察すると、織田信雄は遠方への出兵を嫌がり、他の場所で戦争が起これば遠くまで行かなくて済むだろうと考え、伊勢のすぐ隣の伊賀に攻め込んだと考えられ、織田信雄=無能説の根拠の1つとなっている。

1580年、伊勢・田丸城が焼失したため、松ヶ島城を築いて居城とした。
1581年には、叔父の織田信包をはじめ、丹羽長秀滝川一益筒井順慶堀秀政蒲生氏郷、大和・伊勢の諸大名の加勢を受けて再度伊賀へ侵攻し、伊賀を平定した(第二次天正伊賀の乱)。
1581年の京都御馬揃えの際には織田信忠・織田信雄(24歳)・織田信包・織田信孝と、序列は2位であった。


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1582年6月2月に、織田信長が明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。
25歳の織田信雄は伊勢から出陣し、明智光秀を討とうとしたが、6月13日、先に羽柴秀吉が明智光秀を討ったとの報を受けて、近江国甲賀郡土山にて進軍を中止し、撤退した。
なお、明智勢が撤退したあとの安土城に織田信雄は火を放ち、消失させただけでなく、市街地にも放火した為、この件も無能説の根拠の1つとなっている。
※近年の研究では、明智光秀の娘婿・明智秀満(三宅弥平次)が安土城を燃やしたとされる。

1582年10月に、徳川家康北条氏直のあいだで、甲斐・信濃の武田遺領を巡り発生した天正壬午の乱では、織田信雄は弟・織田信孝とともに双方の和睦を仲介している。

清洲会議で、織田信雄は兄・織田信忠亡き後の織田家の後継者になろうと画策したが、羽柴秀吉は織田信忠遺児の三法師(織田秀信)を推し、もう1人の実力者である柴田勝家は織田信孝を推した為、織田信雄は当主候補にならなかった。
織田家当主は三法師、後見役は織田信孝で決定すると、織田信雄は尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を領した。
この時織田姓に復して織田信勝、次いで織田信雄と改名し、家臣の津川義冬を家老に取り立てた。

1583年4月、賤ヶ岳の戦いが発生すると、織田信雄は羽柴秀吉に味方して、5月に弟・織田信孝の岐阜城を攻めた。
柴田勝家も北ノ庄城で自害すると、織田信孝は岐阜城を開城して織田信雄に降伏。尾張に送る途中の大御堂寺で織田信孝は自害させられた。

滝川一益も羽柴秀吉に降服し、織田信雄は尾張・北伊勢・伊賀を領した。
前田玄以が京都所司代に任命されると、織田信雄は三法師の後見として安土城へ入城。
しかし、すぐに羽柴秀吉によって退去させられると、以後、織田信雄と羽柴秀吉の関係は険悪化し、織田信雄は妹・徳姫の縁がある徳川家康に接近し同盟関係を結んだ。

1583年、長男・織田秀雄が誕生。


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1584年3月6日、羽柴秀吉に内通した疑いで家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の3人を静粛。
織田信雄・徳川家康は、羽柴秀吉と戦闘状態に入り、長久手の戦いとなる。

長久手古戦場公園

徳川勢は羽柴勢の池田恒興森長可らを討ち取るが、伊勢国では誅殺された重臣3人の一族が造反し、更に羽柴秀吉の計略で九鬼嘉隆・秋山直国らも謀反した為、羽柴秀長・蒲生氏郷・筒井順慶・藤堂高虎ら羽柴勢の侵攻を受けた。
その結果、11月11日に徳川家康に無断で羽柴秀吉と和睦し、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部を羽柴秀吉へ譲渡した。
その為、織田信雄を擁していた徳川家康は、大義名分を失い撤退。
この件も無能説の根拠の1つとなっている。

以後、織田信雄は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に臣従し、織田家と羽柴家の主従関係は逆転した。

1585年8月、織田信雄は富山の役の佐々成政攻めにも5000の兵を率いて参戦。

1585年11月の天正地震で伊勢・長島城が使えなくなった為、以後は清洲城を改修して居城とした。

清洲城

九州征伐では、出陣する豊臣秀吉を勅使らとともに見送った。
九州征伐後は内大臣に叙任。

1590年1月11日、豊臣秀吉の養女となっていた、織田信雄の長女・小姫(6歳)が徳川秀忠(12歳)と結婚。

1590年の小田原攻めでは、伊豆韮山城攻撃に参加して、織田信雄(33歳)は苦戦しながらも武功を挙げた。
しかし、戦後の論功行賞では「父祖の地を離れたくない」と徳川家康旧領への移封を拒否し、豊臣秀吉の怒りを買って改易(領地没収)されてしまった。
改易後は下野国烏山(別の説では那須)に流罪となり、このとき家臣は従うことが許されず、身の回りの世話をする小者が一名つけられただけだった。
出家して「常真」と号している。


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その後、出羽国の秋田、伊予国へと流され、1592年に徳川家康の仲介でようやく赦免され、御伽衆に加えられて大和国内に18000石を領した。
朝鮮攻めの際には、肥前名護屋城に兵1500にて着陣。
この際、嫡男・織田秀雄も越前国亀山に50000石を与えられた。

1600年、関ヶ原の戦いの際には、大坂で中立の立場を取ったが、一説では石田三成を支持した?、徳川家康に畿内での西軍情勢を密かに伝えていたとも言われる。
どっちに就こうか迷っているうちに、天下分け目の戦いが終わってしまったとも考えられる。
戦後、徳川家康は、織田信雄・織田秀雄ともども改易した為、豊臣家に出仕した。
豊臣秀頼の母親である淀殿が、織田信雄とは従兄妹どうしだった事もあり、大坂の天満屋敷に住み、大坂城の豊臣秀頼を補佐した。

しかし、1614年、大坂冬の陣の直前に徳川勢へ転身。
当時、織田信雄が豊臣勢の総大将になると言う噂があったところ、徳川勢に味方したので、徳川家康はたいそう喜び、豊臣滅亡後の1615年7月23日、大和国宇陀郡(宇陀松山城)、上野国甘楽郡などに50000石を与えられた。
領地に風雅な庭園楽山園(のちの小幡城)を造る一方、養蚕など産業育成にも力を注いだ。

さらに4男・織田信良に上野小幡藩20000石を分知して、織田信雄自らは京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送った。

1628年10月には、将軍・徳川家光により、江戸城での茶会に招待されている。

1630年4月30日、京都北野邸で死去。享年73。


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実質的な隠居料であった大和宇陀郡の領地31200石は、5男・織田高長が相続した。
小幡藩織田家側から異論も出たが、江戸幕府は認めている。

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コメント

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  1. 最後の大坂冬の陣ので行動が、すばらしいね。
    ギリギリまで豊臣を油断させ、土壇場で裏切って徳川につく。最初からそのつもりだったのだろう。
    戦場で一番はりきっていたのではないだろうか。
    豊臣を攻めることに後ろめたさを感じている武将も多かったと思う。「徳川には逆らえない」「自分の家中のためにはしかたがない」という思いだったことだろう。
    しかし一人、信雄だけは、生き生きと戦っていたんじゃないだろうか。
    「ざまあみろ。織田をばかにした豊臣なんか滅んでしまえ!」という気持ちだったと思う。
    みごとな人生の逆転劇だ。