筒井順慶の解説「筒井城の戦い」筒井順昭と「元の木阿弥」や「洞ヶ峠」

筒井順慶

筒井順慶(つつい-じゅんけい)は、筒井城主・筒井順昭の子として1549年3月3日に生まれた。
母は山田道安の娘・大方殿(山田道安の妹とも)。
大和国(奈良)は、武家が守護(国主)を務めておらず、軍事力も強大な興福寺(こうふくじ)が事実上の支配者となっていることを室町幕府も認めている特殊な事情がある。
その興福寺に、筒井家は相当古くから出仕していて「衆徒」の役目を果たした僧侶の家で、父・筒井順昭(つつい-じゅんしょう)も興福寺衆徒の棟梁(トップ)であった。
そして、大和の越智氏や木沢長政などを破り、龍王山城主・十市遠忠を味方につけて大和をほぼ手中に収め、筒井家は全盛期を迎えていた。
しかし天然痘もしくは脳腫瘍を患っていたようで、筒井順慶が生まれた1549年に突然、家来数人を連れて比叡山に隠居してしまう。
そして、家臣らには子の筒井順慶への忠誠を誓わせ、奈良の盲目の僧・木阿弥(もくあみ、黙阿弥とも)を影武者に仕立て、3年間死を隠すようにと遺言する。
1550年6月20日、父・筒井順昭が死去。(享年27)
僅か2歳の藤勝(筒井順慶)が家督を継いだが、父の弟・筒井順政、筒井順国らの補佐・後見を受け、宿老の森好之、島清興(島左近)、松倉重信の3人に守られながら育った。


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ちなみに、影武者となった木阿弥は、筒井家当主として贅沢な暮らしをしたが、役目を終えると元の貧乏僧に戻ったことから「元の木阿弥」と言う言葉ができたとされている。

三好長慶の寵臣として力をつけてきた松永久秀(50歳)が、大和へ侵攻を命じられて1559年、信貴山城に移って改修し、次いで奈良に多聞山城を築城した。
筒井党の諸城は次々に落城。
1560年に松永久秀は興福寺も破って大和の実力者となり、1562年には筒井家と親しかった十市遠勝も松永久秀に臣従し、1564年には叔父・筒井順政が死去するなど、厳しい状況下に置かれた。

1565年、三好三人衆と松永久通らが将軍・足利義輝を暗殺したあと、松永久秀と三次三人衆は決裂する。
これを好機と、1566年、三好長慶の甥で三好家当主となった三好義継や、三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)と筒井順慶(18歳)は密かに同盟を結び「反松永体制」を結成したのだ。
この動きをすぐさま察知した松永久秀は、筒井順慶らの歩調が揃わないうちに電光石火とも言える奇襲攻撃にて筒井城を攻撃。
1565年11月18日、筒井城の戦い(第六次筒井城の戦い)となると、箸尾高春・高田当次郎らが寝返ったこともあり、筒井順慶は城に火をかける暇も無く、筒井一族・布施左京進の布施城へと落ち延びた。
なお、11月26日に、筒井順慶は高田当次郎の居城・高田城下を焼討ちしている。

その後、三好三人衆との連携を強化して、徐々に盛り返していった筒井順慶は1566年、反撃に出る。


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筒井城の東南約6kmにある井戸城に中坊秀祐ら2000を送り松永久秀を牽制。
これに対して、松永久秀は1566年1月6日、松永久秀が自ら指揮して筒井城に兵糧と兵を入れて防備を固めた。
また、1月24日には松永久通が兵糧を入れようとしたので、筒井勢は若干の構成に出て荷駄隊を襲撃したため、1月29日にも松永久通が再び兵糧を搬入している。

そして、4月11日に筒井順慶と三好三人衆らは7000にて奈良へ進撃し、4月13日には多聞山城の南側の古市に入った。
4月21日、美濃庄城が筒井・三人衆へ降伏。
松永久秀は、裏を突く作戦に出て、5月19日に多聞山城から出陣すると、畠山高政らと合流して、三好三人衆の本拠地「堺」を6000にて包囲。
しかし、三好三人衆は逆に15000にて松永勢を包囲したため、さすがの松永久秀も和議申し出て、能登屋に斡旋を頼んだ。

その隙を突いて、筒井順慶(18歳)は手薄になっていた筒井城を攻撃し、6月8日に筒井城を奪還した。

筒井城を取り返した筒井順慶は春日大社に参詣し、宗慶大僧都を戒師として藤政から陽舜房順慶と改名し、正式に筒井順慶を称するようになる。
1567年、再び三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通や、篠原長房池田勝正別所長治らと結ぶと、奈良にて松永久秀・三好義継と一戦を交えた(東大寺大仏殿の戦い)が、その後も小規模な戦いが断続的に続いている。
そして、1568年6月29日、信貴山城の戦いにて信貴山城を陥落させることに成功した。

そんな折り、1568年、観音寺城の戦いで勝利し、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛した織田信長に対して、松永久秀は恭順を示す。
勝竜寺城の岩成友通、芥川山城の三好長逸は織田勢に撃破され、芥川山城で織田信長に面会した松永久秀は、織田勢の細川藤孝佐久間信盛和田惟政ら2万の援軍を受けて、信貴山城を僅か4ヶ月で奪取することに成功していた。

織田家への臣従判断が遅れた筒井順慶を見限った家臣も出始め、菅田備前守、箸尾高春、郡山向井氏、小泉秀元などが離反するなか、松永久秀は、郡山辰巳衆(郡山向井氏)を率いて筒井城を攻撃。

筒井順慶(20歳)は奮戦したが衆寡敵せず、1568年10月8日、叔父・福住順弘がいる福住中定城に落ち延びた。(第八次筒井城の戦い)


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ひっそりと福住城に潜伏していた筒井順慶は、1570年、十市遠勝が死去したのを契機に十市城を攻め落とした。
さらに松永勢の窪之庄城も奪還して、椿尾上城を築城するなど、じわじわと勢力を盛り返してきた。

1571年、松永久秀は密かに武田信玄と通じて、篠原長房や有岡城主・荒木村重と結ぶと、足利義昭に味方している畠山秋高や和田惟長を攻めたので、足利義昭は筒井順慶に接近してきた。
この時、足利義昭は九条家の娘・多加姫を養女として筒井順慶に嫁がせている。

筒井順慶は井戸良弘に辰市城を築城させたが、これには地元の民衆の協力も多大なものがあったようで短期間で築城を果たしている。
しかし、松永久秀・松永久通の父子、三好義継らは、完成したばかりの辰市城に10000の大軍を派遣して攻略に取り掛かった。
この辰市城の戦いでは、高樋城、椿尾上城、大和郡山城、福住中定城にいた福住順弘、山田順清らと、次々と筒井順慶への援軍が現れる。
竹内秀勝らが討死するなど松永久秀は「大和でこれほど討ち取られたのは初めてだ」と文献に残すほどの大敗を喫し、更には筒井城を放棄して多聞山城へ撤退したため、筒井順慶は再び筒井城を取り戻している。
そして、筒井順慶(23歳)は佐久間信盛・明智光秀の仲介を受けて、松永久秀と和睦すると織田信長に臣従する意思を示した。
なお、この頃、島清興(島左近)を重臣に取り立てたとされている。

1572年、松永久秀が三好義継、三好三人衆らと組んで織田信長に謀反を起こすも、1573年、武田信玄は西上途中に病死し、槇島城の戦いにて足利義昭も敗れる。
若江城の戦いでも三好義継が佐久間信盛に敗れ、多聞山城を包囲された松永久秀は織田信長に降伏した。
筒井順慶も河内・私部城を落とすなどし、翌1574年1月には岐阜城を訪れて織田信長に拝謁して正式に臣従を示し、母・大方殿を人質として差し出した。


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その後、筒井順慶は織田勢の三好義継討伐で先陣を務め、1575年、武田勝頼との長篠の戦いでは鉄砲隊50人を派遣し、越前一向一揆の鎮圧にも5000率いて参じている。
そんな活躍が認められたのか、大和の支配を託されていた塙直政が石山合戦で討死したあと、1576年5月10日には織田信長より大和守護を筒井順慶が任され、人質の母も戻されている。

1577年、石山本願寺本願寺顕如に味方する紀伊の雑貨一揆の鎮圧にも加わり、鈴木孫一・土橋守重らを織田家に服属させた。
しかし、筒井順慶が大和守護となったのが面白くない松永久秀は、再び織田信長に反旗を翻す。

1577年8月17日、松永久秀は詰めていた天王寺砦を焼き払って、子の松永久通と共に信貴山城に籠城し、城の改修も進めた。
当初、謀反を信じなかった織田信長は、松井友閑を派遣したが、松永久秀は会おうともしなかったとされている。
上杉謙信の進軍が止まったのを見た織田信長は、織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀などを加賀から呼び戻して、筒井順慶も先陣として加わると40000にて信貴山城を10月5日より攻撃する。
佐久間信盛は名器・平蜘蛛茶釜の提出を求めたが、松永久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自刃した。
松永久秀は68歳、松永久通は35歳。
安土城の天守のモデルとも言われている信貴山城の4層の天守櫓は炎上し、信貴山城(しぎさんじょう)は廃城となった。
なお、松永久秀の遺骸は、筒井順慶が達磨寺に手厚く葬ったとも言われている。

1578年には、残りの勢力を駆逐して筒井順慶が大和を平定し、織田信長からは龍王山城の破却を命じられている。
この頃、筒井順慶は約18万石で、大和の諸将を含めると約45万石となる。
筒井順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、僧侶でもあったので寺社仏閣も手厚く保護した。


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引き続き筒井順慶は織田勢として参じて、1579年には荒木村重が籠る有岡城の戦いにも参陣。

1580年、居城を大和・郡山城へ移転させようと考えていたところ、織田信長より本城以外の城は破却するよう命じられる。
その為、大和郡山城を改修する事に決め、筒井城などは破却し、商家なども郡山に移転させた。

大和・郡山城

郡山城の普請には明智光秀も出向いている。
天正伊賀の乱では織田信雄に属して蒲生氏郷と共に布陣したが、伊賀衆の夜襲を受けて兵の半数を失うと言う危機に至ったが、家臣の菊川清九郎が道案内して筒井順慶は無事に逃れたと言う。

本能寺の変

1582年6月2日、明智光秀が本能寺の変を起こし織田信長が倒れる。
なにかと筒井家の面倒を見ていた明智光秀は、すぐさま筒井順慶に味方するように求めて来た。
福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(島左近)・松倉重信ら重臣を集めて評定を開いた筒井順慶は、辰市近隣まで兵を出したが、他には明智光秀に味方する大名がおらず、羽柴秀吉が討伐に動いていると言う情報収集を行い、9日までには大和郡山城で籠城の支度を開始した
6月10日には、誓紙を羽柴秀吉へ届けて恭順を示している。
同じ日に、明智光秀の家臣・藤田伝五郎が加勢を求めて郡山城を訪れたが、筒井順慶は追い返した。
そして、11日には、筒井順慶が大和郡山城にて切腹したという「噂」を流している。

筒井順慶は必ず味方してくれると考えていた明智光秀は、洞ヶ峠(ほらがとうげ)まで出陣して筒井順慶に加勢を促した「洞ヶ峠の日和見」とされるが、近年の研究では、筒井順慶への牽制・威嚇だったともされている。
羽柴秀吉が中国大返しで迫っていると言う報を受けた明智光秀は、転戦して淀古城・勝竜寺城を急遽改修し、13日に山崎の戦いとなった。

順慶は京都醍醐にて14日に羽柴秀吉に拝謁したが、山崎の戦いにも参じていなかった事から、この時「遅い」と叱責されている。
これが堪えたのか、以後、筒井順慶は体調を崩したとの噂が奈良一円に蔓延したが、どうも本当に胃の調子が悪かったようだ。


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織田家の後継者を決める清洲会議では、筒井順慶は他の武将らと列席。
7月11日には、養子・筒井定次を人質として差し出し羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従った。

1584年、高取城を支城として復興させるも、この頃から頻繁に胃痛を訴えるようになる。
小牧・長久手の戦いでも無理に出陣したが、大和郡山城に戻ると1584年9月15日、36歳の若さで病死した。

重臣だった島清興(島左近)は、跡を継いだ筒井定次と合わず浪人したが、のち石田三成に出会うまでは、仕官の話も軽々しく受けていない。
それらも考慮すると、筒井順慶と言う武将は、何度も居城・筒井城を追われたり、家臣に見放されても「復活」を遂げてもおり、戦国武将として器量と魅力は充分に備わっていたのだろう。


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筒井順慶の遺骸は奈良・円証寺に葬られたが、その年10月15日に母・尊栄の願によって改葬され、郡山・長安寺に廟所が建てられ、現在残る五輪塔と覆屋と言う事になる。

以上、筒井順慶でした。
※筒井城の記事は下記に移転しました。

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