別所長治~三木城 2年にも及んだ過酷な籠城戦の末は?

別所長治


別所家は赤松家の流れを汲む名家で、播磨では当時最大の勢力を誇る大名家であった。
別所長治は1558年誕生だが異説もある。父は別所安治(別所長勝)、母は浦上氏の娘。
 
父・別所安治が1570年に39歳の若さで病死すると、僅か13歳で家督を継ぎ、叔父である別所賀相別所重棟らの支えを得て別所家を保った。
正室の照子は波多野秀治の妹(又は、波多野秀治の娘とも)。
 
別所家は三好家と争っていたこともあり、早くから織田信長に臣従。
家督を相続した別所長治も、1575年10月、織田信長に謁見し、1576年には新年の挨拶をしている。

しかし、名家であるが故に、1577年5月に加古川城で行われた、羽柴秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。
加古川の会談に代理で出席した別所吉親は、織田信長の中国方面担当の総司令官が、成り上がりである羽柴秀吉(豊臣秀吉)であることに不満を感じたようで、別所長治を説得。
別所長治は、既に1576年1月に織田信長に反旗を翻していた、妻の実家である丹波国の波多野秀治に呼応する形で、1578年3月、織田家に反旗を翻し、三木城に一族・国人衆と共に7500にて篭城した。
羽柴秀吉への反感説以外には、15代将軍・足利義昭の調略、織田信長への反感説、浄土真宗(一向宗)による突き上げ説、毛利家の謀略説、叔父である別所賀相(反織田)と別所重棟(親織田)の対立説など、多くの説がある。

別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と、叔父の阿閉城主・別所重棟の2人だけで、東播磨の豪族が一斉に織田信長に反旗を翻したのである。
黒田官兵衛(小寺官兵衛)の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)や、亡くなった母・岩の実家である明石城主・明石左近も、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した。

なお、尼子勝久を擁する軍師・山中鹿之助は、織田信長から上月城を拝領し、念願の尼子家の復興を成しとげたが、1578年7月、宿敵・毛利勢である吉川元春らの大軍30000に包囲され上月城は降伏。
尼子勝久は切腹を命ぜられ、山中鹿之助(山中幸盛)は生け捕りとなり、毛利輝元へ護送される途中、河村新左衛門により謀殺された。



荒木村重の謀反や毛利輝元の援軍などもあり、三木城では一度は織田勢を撃退し、当初から籠城しつつも食料補給を受けられていた。
包囲を続けていた羽柴秀吉は神吉城など周辺の支城を攻め落として三木城への補給路を断つ作戦に変更し、1579年5月に羽柴秀長が丹生山(兵庫県神戸市北区山田町)を制圧すると、完全に補給を絶たれた三木城内では餓死者が続出することとなった。
この篭城戦は後に「三木合戦」とも「三木の干殺し」とも呼ばれ、この後も羽柴秀吉が多用する「兵糧攻め」の発端となった合戦だ。
最も、城が堅固である上に当時の羽柴秀吉の兵力はそれほど多くはなく、多数が篭る三木城を力攻めするのは難しかったようだ。

長引く包囲戦に、軍師・竹中半兵衛重治は陣中で病死。
同じころ、妻・照子の実家である八上城主・波多野秀治が、1年6ヶ月明智光秀の軍勢と戦い抜いたがついに降伏し、安土で処刑。

黒田官兵衛は、荒木村重の説得に赴いて、有岡城で牢獄に捕われたが、1579年10月、荒木村重が有岡城を抜け出して毛利輝元へ援軍を求めに行くと、有岡城の兵士が織田信長に内応し、有岡城は陥落。
毛利輝元の援軍も、宇喜多直家の圧迫を受けて帰陣し、毛利の援助も絶たれた。
1579年12月には、有岡城の荒木村重に同調して毛利方へと寝返った御着城小寺政職が、有岡城が落ちたと知ると御着城を捨て、毛利輝元を頼って逃亡。

三木城での籠城は続いたが、多数の兵やその家族・領民を抱えていたため、食料をかなり早く消費したことも敗北の大きな要因であると言えよう。
しかし、この篭城は実に2年に及んだのである。

城内の者は飢えをしのぐ為に、牛や馬も食べ尽くし、草や木の根、木の皮を囓った。
それもなくなると、虫や蛇、鼠を捕らえて食べ、果てには壁土の中の藁まで口にしたと言う。

これ以上籠城を続けても勝ち目はなく、ついに力尽きた別所長治は、1580年1月15日、浅野長政に使いを出し、自身の切腹と引き換えに城兵を助命する事を条件として降伏。
1月16日に羽柴秀吉がその条件を了承すると、最後の酒宴にと酒肴を三木城に送った。
宴会を開いて兵たちの苦労をねぎらった翌日の1580年1月17日、別所長治は自ら妻子を刺し殺し、弟の別所友之・別所治定と共に自害した。享年23。
介錯は家臣の三宅治忠(三宅肥前入道)が行った。
この三宅治忠も腹を十文字に切って殉死したと言う。

別所長治の正室・照子も、僅か2歳の竹松丸を抱きしめるようにして小さな胸に懐刀を突き刺した後、3歳の千松丸、長女で5歳の竹姫、二女で4歳の虎姫を次々に刺し、最後の刀は22歳である自らの胸に当てて、夫より一歩先に黄泉路(よみじ)の人となったと伝わる。

自害した別所一族は法界寺に葬られた。


このように戦国大名としての別所家は滅亡したが、叔父の別所重棟が織田方について出奔していたため、断絶はしていない。
また、別所重棟(別所重宗)の嫡子で後の15000石となる八木藩主・別所吉治が実は、別所長治の子であるとする系図も伝えられており、落城の際に連れ出され落ち延びた可能性もある。

また、家臣の後藤基国(後藤又兵衛の父)が、別所長治の千代丸という8歳の子を乳母・家来とともに上津城に逃がし、上津城落城後に千代丸は帰農したとする説もある。

2年も籠城した三木の城下は疲弊し、羽柴秀吉は救済処置として年貢・労役の「永代免除」を約束。この恩典は徳川幕府の統治時代にまで引き継がれた。

波多野秀治 明智光秀を苦しめた丹波の戦国大名
丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)

 

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    • 下山 修
    • 2017年 6月 26日

    三木城に関して気になりました。
    私の墓地の敷地内に三木城を攻め落とされる前に田舎に帰された
    お姫様のお墓があります。
    聞くところによりますと当家から三木城に入られ、没落前に
    帰されたと聞いています。
    代々の墓地の山敷地上に三体の五輪塔があり段々と先祖を祭っていますが
    あまりにも年数がたっていてお姫様のお墓がわかりづらくなっていること
    知っている人がほとんどいなくなってきたので投稿してみました
    本妻なのか、側室なのか不明ですが
    三木城に関する資料になればと思います。

    • 高田哲也
    • 2017年 6月 26日

    下山さま、コメントありがとうございます。
    また、大変貴重な情報を賜りまして恐縮でございます。
    何か、新しいことが分かると良いですね。
    ありがとうございました。 高田

  1. 2018年 9月 14日


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