波多野秀治 明智光秀を苦しめた丹波の戦国大名

波多野秀治

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波多野秀治(はたの-ひではる)は、丹波・八上城主(篠山市)である波多野晴通の子として生まれました。
諸説ありますが、1529年生まれとされます。

丹波・波多野氏の出自は、平安時代末期から相模・波多野荘(神奈川県秦野市)を所領とした相模・秦野氏から派生したと考えられます。
ただし、諸説あり、因幡の田公氏の一族、桓武平氏系の三浦氏の一族、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともされます。
まぁ、養子を迎えたり、乗っ取られたりしたのかも知れませんが、不明といったところです。

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戦国時代になると丹波・波多野氏は丹波守護代・内藤国貞を破って丹波一国を掌握し、三好長慶と婚姻同盟を結びますが離縁されて対立したため、細川晴元と結びました。
しかし、三次氏から八上城も攻撃され、何回か撃退しますが、1555年、最後には松永久秀と弟・松永長頼に降伏しました。
その時、丹波・波多野氏は所領を失い放浪の身になったと考えら、丹波は実質的に松木城に入った松永長頼が支配しました。
父・波多野晴通が1560年に死去したころ、正親町天皇の即位式費用を献納したことから、波多野秀治は侍従に叙されています。

1564年、近畿で大勢力となっていた三好長慶が亡くなり、三好義継の代となると、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は足利義輝を暗殺するなどの暴走を始めます。
そして、三好三人衆と松永久秀の間でも抗争となり、1565年、荻野直正の居城・黒井城を攻めていた松永長頼が討死します。
その隙を突いて、波多野秀治は赤井直正の支援を受けたようで、松永孫六を追って八上城の奪還に成功し、旧領に復帰しました。
そして、播磨・三木城の別所長治に、娘(妹?)の照子(てるこ)を嫁がせて同盟を結びました。

1568年、織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、波多野秀治は赤井直正とともに織田家に臣従します。

丹波は比較的平穏な時期を迎えましたが、将軍・足利義昭と織田信長が険悪になると、赤井氏ら丹波国衆のなかでは、足利義昭の呼びかけに応じる者が現れてきました。

1575年、丹波で織田家に従わない勢力を討伐するよう命を受けた明智光秀に、波多野秀治は協力して軍勢を出しました。
しかし、裏では丹波で織田家に抵抗する豪族に味方しており、1576年1月、波多野秀治は織田家に叛旗を翻します。
赤井直正の黒井城を包囲していた明智光秀の背後を攻撃して撃退しました。(黒井城の戦い)

当然、織田信長は激怒し、1577年10月、明智光秀は細川藤孝細川忠興の増援を得て、第二次丹波国征討戦となります。
黒田官兵衛の尽力で織田家に臣従していた三木城の別所長治が、離反して毛利家に転じたのも、波多野秀治に呼応したと推測できます。
波多野秀治は、丹波・八上城にて1年半も籠城を展開しましたが、頼りの吉川元春からの援軍は届きません。
八上城の戦いでは、餓死者も数百人となり、丹後・但馬の諸豪族も次第に撃破され、調略で織田家に降伏した豪族も出たため、天正7年(1579年)、遂に波多野秀治は般若寺城に出向いて降伏しました。

明智光秀が提示した降伏・開城条件は、波多野秀治らの助命を保証するため、明智光秀は、実母を人質に差し出したとされています。

しかし、波多野秀治の身柄は、弟・波多野秀尚と共に安土城に送られと、織田信長は「度重なる裏切り、侍の本分を知らず」と言い捨て、1579年6月2日、安土の浄巌院・慈恩寺で磔に処されました。
波多野秀治は享年51とされます。
辞世の句は「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」。


八上城の登山道には、「はりつけ松」跡があります。
波多野残党は当然怒り、明智光秀の母を、磔にて処刑したとされますが、母を人質に出したことじたい、不明瞭な部分は残ります。

八上城には、明智光秀の家臣・明智治右衛門が入っています。

なお、波多野秀治の次男・波多野甚蔵は、乳母に抱きかかえられて、味間・文保寺へと落ち延び、のち、波多野定吉(波多野右衛門尉定吉)となると篠山藩士になったと伝わります。

丹波・八上城 波多野稙通(波多野元清)
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