宇喜多直家~岡山の開祖として地域発展させた戦国武将

宇喜多直家

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宇喜多直家(うきたなおいえ)は、1529年生まれ。
父は砥石城主・宇喜多興家で、浦上政宗の家臣。母の出自・名は不詳。

1534年、同じ家臣で仲が悪かった高取山城・島村盛実(島村豊後守)により砥石城を攻められ、祖父・宇喜多能家が自害した際、父・宇喜多興家は6歳になっていた宇喜多直家を連れて浪人し、備後国鞆津まで落ち延びた後、備前福岡の豪商・阿部善定に庇護された。この時、父・宇喜多興家は阿部善定の娘を娶ったが、1540年?、1536年?に死去。

備後笠加など転々とし、宇喜多直家は不遇な立場となったが、1543年頃?、成人した宇喜多直家は、浦上政宗と分裂した天神山城主・浦上宗景の家臣に加わると、初陣で功を挙げて寵愛を受け、翌年には邑久郡の乙子城主となり、頭角を現した。
主君・浦上宗景は毛利元就と同盟し、赤松晴政の筆頭家老になっていた兄・浦上政宗に対抗。

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1549年、浦上宗景の命により備中勢と内通した疑いのあった砥石山城主・浮田山和を討って、生まれ育った城を奪い返すと、その戦功により奈良部城を与えられた。
宇喜多直家から、備中勢と内通したと指摘された沼城主・中山信正(中山備前守)は、娘を実質的な人質として宇喜多直家の正室として嫁がせ、謀反の疑いを晴らそうとしたが、1559年、宇喜多直家は、備中勢と内通したとする沼城主・中山信正(中山備前守)と、謀反の容疑をかけた島村盛実を同時に殺害し、叔父の復讐を果たした。
この時、中山信正から嫁いだ妻は離縁した可能性が有る。

宇喜多直家

1561年には、戦上手で知れる龍口城主・穝所元常が男色であるとの噂を耳にすると家臣の岡剛介なる美少年を刺客に送って色仕掛けし、油断したところを暗殺させ、混乱した 龍口城を宇喜多直家が攻め落とした。
また、自らが海賊になると言う画期的な海賊対策で、付近の海賊を一掃している。

1562年には、穝所元常の主家に当たる金川城主・松田元輝と和睦すると、松田元輝の子・松田元賢に宇喜多直家の長女を嫁がせ、松田元輝の家臣・伊賀久隆には宇喜多直家の妹を嫁がせ関係を密接にして、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親に備えた。

1563年には10年以上対立してきた浦上政宗と主家・浦上宗景が和睦すると、備中松山城主・三村家親への圧力を強めた。
浦上政宗は播磨の黒田職隆(黒田官兵衛の父)と縁組して再起を図ったが、1564年1月、黒田職隆の娘と子の浦上清宗の婚礼の最中(婚礼当日の夜とも?)に、赤松政秀の奇襲を受けて浦上政宗・浦上清宗は親子ともに横死し、黒田職隆の娘も命を落としている。

1565年頃?、美作高田城主・三浦貞勝の未亡人である円融院が、宇喜多直家と再婚し継室となった。

1566年2月5日には美作国へ進出した備中の三村家親を、阿波細川家の浪人・遠藤兄弟(遠藤俊通・遠藤秀清)を使い、日本で初めて鉄炮にて暗殺。
単なる知人・顔見知りである2人を雇い、短筒の火縄銃を使わせて、美作の興善寺にて家臣と評議中だった三村家親を暗殺させたのだ。

1567年7月、暗殺された三村家親の跡を継いだ三村元親は、石川久智、植木秀長、荘元祐ら20000の大軍で、宇喜多勢の明善寺城などを攻めた。
宇喜多直家は明石景親、岡家利ら5000と劣勢ではあったが、巧みな戦術で挟み撃ちし、撃退。
明善寺合戦に勝利した宇喜多直家は、備中勢をほぼ駆逐して主家を凌ぐ勢力となり、このように自立した大名を狙って、下剋上を行った武将として知られるようになって行った。
なお、明禅寺合戦の際、松田元輝は援軍を出さなかった為、宇喜多直家との関係が悪化。

1568年、鷹狩の際、宇喜多直家は松田元輝の家臣・宇垣与右衛門を「鹿と間違えた」として弓で射殺したが、友好関係がこれ以上悪化するのを恐れた松田元輝は宇喜多直家の行動を黙認した為、家臣の信頼を失い、宇喜多直家は更に伊賀久隆を寝返らせて金川城を包囲させた。
松田元輝は、包囲している伊賀久隆に城内から罵声を浴びせていた所を、鉄砲によって狙撃され、櫓から落下して絶命したと言う。

1569年、宇喜多直家は、織田信長や西播磨の赤松政秀と結んで、主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻した。
しかし、赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・黒田官兵衛に敗北し、足利義昭織田信長からの援軍であった池田勝正・別所安治などが退却すると、逆に浦上宗景が赤松政秀の龍野城を攻めて赤松家が降伏。
これにより、味方が居なくなった宇喜多直家は完全に孤立し、浦上宗景に謝罪して降伏した。
宇喜多直家は特別に命までは取られず、浦上宗景の家臣として帰参を許され、娘を浦上宗景の嫡男・浦上宗辰に嫁がせた。

城下町を岡山に建設したいと計画していた宇喜多直家は、1570年、家臣に加わっていた岡山城主・金光宗高が、毛利家と内通していると言い掛かりをつけ、潔く切腹すれば子の金光文右衛門に900石、金光太郎右衛門に400石を与えると一筆して、金光宗高を自害に追い込んだ。

1572年、のち宇喜多家を継ぐ、次男・宇喜多秀家が誕生。母はお鮮(円融院)。

1573年12月、別所長治と浦上宗景は織田信長の仲介で和睦し、浦上宗景は備前・播磨・美作3カ国の支配を認められた。
しかし、別所長治や小寺政職が、浦上宗景の臣下扱いと言う意味でもあった事に宇喜多直家は注目し、再び独立を狙って、小寺政職が預かっていた浦上宗景の兄・浦上政宗の孫である久松丸の存在を利用した。
小寺政職に久松丸の備前入りを密かに打診して承諾を得ると、1574年3月に9歳の久松丸を正当な浦上家の跡継ぎとして擁立し、浦上宗景に対して反旗を翻した。

今回は宇喜多直家が事前に諜略をもって調略していた為、美作の沼本氏や菅納氏や、備前の浦上宗景配下の諸氏が相次いで離反した。
更に宇喜多直家が安芸の毛利輝元の支援も受けると、父を暗殺され宇喜多に恨みがある備中松山城主・三村元親は叔父・三村親成や竹井氏など重臣の反対を押し切り、織田信長と通じて毛利氏から離反し、浦上宗景や三浦貞広と結んだ。
その為、1575年6月、毛利勢が三村元親を攻めると卯吉直家も加勢し、備中松山城は陥落して三村元親は自刃した。
また、卯吉直家は天神山城を包囲し、1575年9月には、浦上宗景の腹心である明石行雄ら重臣を内応させると、浦上宗景は城を捨てて播磨の小寺政職を頼って逃亡。
浦上宗景は織田信長が派遣した荒木村重の支援を受けて、宇喜多端城(所在地不明)を奪回し再起の機会を伺った。
これにより、宇喜多直家は備前のみならず備中の一部・美作の一部にまで支配域を拡大したが、反勢力との小競り合いが続いた。

1578年、浦上宗景は独力で反宇喜多勢力を一斉に蜂起させて、一時、浦上宗景・浦上秀宗は天神山城の奪還に成功したが、1579年には浦上宗景の勢力は鎮圧され、以降、浦上宗景の動向は定かでなく、没年も不明。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)が進出してくると、毛利を味方にしていた宇喜多直家は対抗し、1579年5月には延原景能を大将とする大軍で三星城主・後藤勝基を攻めて陥落させたが、さすがに織田信長の勢いには叶わないと、1579年10月、毛利家と手を切って織田信長に臣従した。

以後、織田勢として合戦で戦ったが、1581年4月、宇喜多家で活躍し最大の領地を得ていた伊賀久隆を岡山城に呼ぶと、河原四郎右衛門尉に毒を盛られて誅殺。
宇喜多直家は死を直面し、広大な所領を持つ伊賀久隆の存在を危惧したという説もある。

岡山城

1582年1月に宇喜多直家は岡山城で病死。悪性の腫瘍であったと考えられている。

織田信長の計らいにより、9歳だった宇喜多秀家が本領を安堵され、家督を継ぎ、戸川秀安や長船貞親らが補佐した。

1588年、前田利家の娘・豪姫(豊臣秀吉の養女)を嫁にした宇喜多秀家は、小田原攻めなど豊臣秀吉に協力して57万4000石を領し、石田三成に協力したが、関ヶ原の戦いで敗れると、命だけは助けられ久能山へ幽閉されたのち、八丈島へ流刑となった。


宇喜多直家は、自分の娘が嫁いだ家の当主(自分にとっての娘婿)をことごとく殺害するなどし、姻戚関係の人物を没落させ、自分の娘が自害することもあった。
そのような行いから松永久秀斎藤道三等と並ぶ大悪人とも呼ばれる。

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