三村元親とは~備中兵乱にて毛利家に屈する

三村元親

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三村元親(みむら-もとちか)は、備中・松山城(大松山城)主である三村家親(みむら-いえちか)の2男として生まれました。
生年は不詳で、母は阿波三好氏の女性とされ、三好之長の娘、三好元長の娘など諸説あります。
兄に荘元祐がおります。

三村氏はもともとは常陸国筑波郡三村郷が出自とされます。
諸説ありますが、三村郷は、常陸・小田城がある茨城県つくば市小田と考えられ、日本全国の三村さんの発祥の地と言えるでしょう。
その分流が信濃三村氏で、更に一部が備中に移り、豪族のひとつに過ぎませんでした。
しかし、父・三村家親は毛利元就と同盟すると備中の尼子氏勢力を駆逐するなど突然飛躍し、備中をほぼ統一しました。
そして、本拠も鶴首城から備中松山城に移します。


ところが、1566年2月、浦上宗景の重臣に過ぎない宇喜多直家が、三村家親と顔見知りで、鉄砲の名手として知られた阿波細川氏の浪人・遠藤俊通と遠藤秀清を買収します。
そして、美作・興善寺にて評議中だった三村家親を、短筒の火縄銃で狙撃させました。
三村家親、享年50。

三村家親の弟・三村親成は、三村勢の混乱を避けるため、死を隠して成羽に帰陣したのちに公表しています。

三村氏一族である三村五郎兵衛は、弔い合戦を主張しましたが、三村親成は、亡き三村家親の遺児・三村元親らが成長するまで自重すべきと家中に説きました。
しかし、三村五郎兵衛らは百余騎を率いて、単独で亀山城の宇喜多直家を攻めましたが、返り討ちにあい討死しています。

明禅寺城の戦い

兄に荘元祐がすでに養子に出ていたことから、次男である三村元親が家督を継いだ訳ですが、結局は、翌年1567年に、仇討のため明禅寺城を築いていた宇喜多直家を打つべく軍を発しました。
これに対して、宇喜多元親は、根矢与七郎と薬師寺弥七郎に守兵150人を預けて明禅寺城を守らせます。

そして、7月、明善寺(みょうぜんじ)の戦いとなりますが、最初は三村勢が夜打ちを掛けて、沢田村を焼き払い、なんなく、明禅寺城を落とします。
ただし、三村元親はまだ本拠にいて出陣していなかったようです。
宇喜多直家は、三村勢に降伏していた、岡山城主・金光宗高、中島城主・中島元行、舟山城主・須々木豊前守を調略したため、明禅寺城に布陣している三村勢は一転して孤立することになりました。

このため、三村元親は本隊10000として、石川久智、植木秀長、荘元祐らと援軍に駆けつけ、明禅寺城の兵とて挟み撃ちしようとします。
これに対して、沼城の宇喜多直家は僅か5000でしたが、先に明善寺城に大攻勢をかけて奪い返しました。

三村元親は辛川表で軍議を開き、庄元祐が率いる7000を前軍とし、石川久智の5000を中軍、みずからは8000を率いて、総勢20000にて明禅寺へと進軍していました。
しかし、明禅寺城から敗走してくる味方に逢い、陥落したと知り作戦が頓挫した三村勢の前衛は、追撃してきた宇喜多勢の明石行雄、戸川秀安、長船貞親、宇喜多忠家らから鉄砲を浴びて混乱に陥ります。
敗戦が濃厚となると、三村勢は勝手に撤退を始め、大混乱となります。
総崩れとなり、討死を覚悟した三村元親は、宇喜多勢に対し最後の突撃をしようとしますが、家臣らに止められて敗走しました。
伊勢新左衛門・中島加賀らの奮戦により退却し、明禅寺崩れとも呼ばれる敗北でした。

宇喜多直家は、浦上家中にて、さらなる発言力を高めており、独立への第一歩を示したと言え、佐井田城主・植木秀長らが宇喜多家へ寝返りました。

1569年12月、宇喜多直家に寝返っていた植木秀長の討伐するため、三村元親はは毛利元清・熊谷信直ら毛利家の援軍と攻めましたが、宇喜多直家が派遣した戸川秀安の前に毛利勢は首級680を討ち取られ、三村元親も負傷し撤退しました。

1570年1月には、宇喜多家と結んだ尼子勝久・山中鹿之介らは、尼子再興軍として秋上綱平を備中に乱入させます。
松山城の庄高資・庄勝資の親子や、植木秀資らも挙兵し、石川久式が守備する幸山城を攻めました。
杉山城にて籠城した細川道薫も敗れましたが、1571年2月、庄勝資が毛利氏の九州進攻に参加していた隙を突いて、毛利元清10000と共に庄高資を討ち取り、備中松山城と猿掛城を奪還しました。
しかし、佐井田城を攻撃した際には、庄勝資と植木秀資に阻まれています。

備中・松山城に戻った三村元親は、改修工事を開始して要塞化しています。

備中・松山城

1571年9月には、再び佐井田城を、兄・庄元祐や叔父・三村親成と共に攻めましたが、援軍に駆けつけた浦上家臣の岡本秀広、宇喜多家臣の岡家利・花房職秀らにより敗北し、庄元祐が討死したとされています。

その後、1574年になると、頼りの毛利家が、安国寺恵瓊小早川隆景の仲立ちにより、なんと宇喜多直家と和睦し事実上の同盟を結びました。
宇喜多直家と仲良くすることを嫌った三村元親は、叔父・三村親成や三村親宣などの反対を押し切り、織田信長と通じて、毛利家から離反しました。
また、浦上宗景や三浦貞広とも結んでいますが、三村親成・三村親宣の父子は元親を見限って出奔し、経山城に逃げ込むと毛利家に通報しました。

この離反に対して毛利輝元は小早川隆景に80000を授けて、1574年11月に三村討伐軍を出し、出雲からは庄勝資・植木秀資らが侵攻して、佐井田城を攻撃し「備中兵乱」となりました。

備中兵乱

備中兵乱(びっちゅうひょうらん)となり、毛利勢は、石川久式の幸山城、三村政親の国吉城・鶴首城、三村元範の楪城、三村阿西入道の荒平城、美袋の三村忠秀、上田入道の鬼身城(鬼ノ身城)、猿掛城・斉田城など周辺の城を次々に陥落させます。
こうして、石川久式、井山雄西堂ら三村勢は備中松山城にて籠城しました。
親交があった細川藤孝は、八雲集を籠城している備中松山城に届けさせています。

小早川隆景は、三村勢を調略し、1ヶ月ほどして、備中・松山城の天神の丸を占領します。
そのため、次々に離反者が出て、1575年5月、三村元親は妻子・家臣とともに、城を捨て逃亡を開始しました。
しかし、落ち延びる途中、途中で谷から転落して気絶し三村元親は、2人の家臣に助け出されます。
ところが、今度は、鞘から刀が抜けて、足にケガをし歩けなくなってしまいました。
そのため、城下町にある松連寺に入って、小早川隆景に切腹を申し出たようです。

辞世は下記の通り2つあります。

ひとたびは 都の月と思ひしに われ先づ 夏の雲にかくるる

人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの

1575年6月2日、三村元親は松連寺にて自刃し、三村元親の子・勝法師丸(8歳)も捕らえられて処断され、戦国大名として三村家は滅亡しました。
下記は、頼久寺にある三村家親・三村元親の墓です。
どれかは把握していませんが、勝法師丸の墓もあるそうです。

三村家親・三村元親の墓

幸山城主・石川久式と妻(三村家親の娘)は、備中・松山城から出たのち、備前・天神山城へ間道を抜けようとしましたが、途中で虎倉城主・伊賀左衛門の家来に討たれました。

三村元親の妹・鶴姫が嫁いだ上野隆徳が守備する常山城は、最後まで抵抗しましたが、鶴姫ら城の女性共々奮戦したのち落城し、備中兵乱は終わりを迎えました。

備中松山城には、毛利家の天野五郎右衛門、桂民部大輔が城代として入っています。
また、猿掛城は毛利元清の居城となり、国吉城は吉川駿河守に与えられました。

なお、出奔していた叔父・三村親成は減封にはなりましたが、成羽・鶴首城への復帰を許され、三村一族を保護しました。
子孫は、備後福山藩・水野勝成の家老として1500石になっています。

頼久寺

三村家の菩提寺となるの高梁の頼久寺(らいきゅうじ)です。
最初の起源は不明ですが、南北朝時代の1339年に、足利尊氏によって備中国の安国寺とされました。
永正年間(1504年~1521年)には、備中松山城の城主・上野頼久が大檀越となり、寺が大きくなります。
現在の頼久寺は、下記の写真の通り、ひとつの「城」のような風情です。

頼久寺

そして、1521年に上野頼久が死去したため、寺号が安国頼久寺と改称されました。
小堀遠州が、備中松山藩主になると、備中松山城の改修が住むまで、1619年まで頼久寺を仮の居館としています。
このとき、小堀遠州によって作られた蓬莱式枯山水庭園は、現在、国の名勝に指定されています。

頼久寺

上記のお堂の右脇から一番奥のほうに、三村家親・三村元親の墓がありました。

なお、三村家親・三村元親の墓は、成羽の源樹寺にもあります。

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